第54話 慣れですよ
ガッシュがぶーぶーと鼻を鳴らした。
悟はブラシを動かす手を止めずに、背中の分厚い毛を丁寧にほぐしていった。ガッシュは立ったまま、わずかに体をずらした。嫌がっているというより、どう受け取るべきか決めかねているような動きだった。
「機嫌が悪そうですが」と安藤が言った。
施設の中ほどに立って、腕を組んで、やや距離を取ったままだった。メモ帳を手にしているが、今は何も書いていない。
「いつもこうです」と悟は答えた。「嫌いじゃないんですよ、これが」
「嫌いじゃない、というのは?」
「ブラシがけです。嫌いではないんですけど、大好きというわけでもないみたいで。ぶーぶー言いながら最後まで動かない。毎回そうです」
ガッシュがまたぶーぶーと鳴いた。悟は背中から腰のあたりにブラシを移した。ガッシュの体がわずかに落ち着いた。
「慣れているんですね」と安藤が言った。
「そうですね」
「その……魔物に、という意味です。怖くないんですか」
悟はブラシを動かしながら少し考えた。
「慣れですよ」
「慣れ」
「ええ」
安藤がメモ帳に何か書いた。それだけですか、と言いたそうな顔をしていたが、少し間があってから実際にそう言った。
「それだけですか」
「あと」と悟は言った。「こいつらを見ていると、今何を望んでいるかがわかるようになります。それがわかれば怖くない」
「何を望んでいるか」
「腹が減っているのか、落ち着きたいのか、遊びたいのか。もっと単純なことばかりですけど。そこが読めると怖くならないですね、あまり」
安藤がまたメモを取った。
「それは訓練ですか」と安藤が聞いた。
「いや」と悟は即座に言った。「毎日一緒にいると自然に、という感じです。動物園にいたときも同じでした。最初は怖かったですけど、毎日顔を合わせていると、だんだんわかってくる」
「動物園で」
「ええ。十年ちょっといました。それで今もやっていることはあまり変わらないです」
ガッシュがまたぶーぶーと鳴いた。今度は少し間延びした声だった。悟はブラシを止めて、ガッシュの側面を軽く叩いた。ガッシュがわずかに体を向けたが、離れなかった。
「やっぱり嫌いじゃないですよね」と悟は言った。独り言に近い言い方だった。
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安藤がしばらく黙っていた。
メモ帳を下げて、エリアの縁に沿って少し歩いてから、また止まった。
「私はこの仕事で5年、魔物と距離を置いてきました」
声のトーンが変わっていた。報告のような話し方ではなく、少し個人的な言い方だった。
悟はガッシュのブラシがけを続けながら顔を向けた。
「それが正しいと思いますよ」と悟は言った。「僕みたいにするのが良いとは思わない」
「……どういう意味ですか」
「仕事として関わるならそっちの方が安全だと思います。距離を取るのは悪くないと思う。ただ僕はこっちの方が楽なので、こうしているだけで」
「こっちの方が楽」
「一緒にいる方が、気を使わなくていいというか。何を考えているかわからないまま近くにいる方がしんどいので」
安藤が何か言いかけて、止まった。
ガッシュがまたぶーぶーと鳴いた。悟がブラシの向きを変えると、鳴き声の質がわずかに変わった。落ち着いた音だった。
「なるほど」と安藤が言った。なるほどとは言ったが、どこかまだ考えている顔をしていた。視線がガッシュに向いて、また悟に戻った。何かを噛み砕こうとしているようだった。
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ブラシがけが終わって、悟がガッシュのエリアから出た。ガッシュは少し歩いてから定位置に腰を下ろした。ブラシがけが終わった後は決まってそこに座る。嫌いじゃないが、終わったら終わりだということらしかった。
悟はブラシを片付けながら、安藤の方に顔を向けた。
「何か他に聞きたいことはありますか」
「いくつか確認させてください」と安藤が言った。メモ帳をめくった。「事故の有無、体調管理の方法、緊急時の対応手順……」
「答えられるものは答えます」
安藤がうなずいた。さっきよりも少し表情が和らいでいた。距離の取り方が微妙に変わっていた。意識してのことかどうかはわからなかったが。
一通り質問が続いた。悟は聞かれたことに答えた。特別なことは何もなかった。毎日やっていることを言葉にするだけだった。安藤は詰まったり、やり直したりすることなく、黙って続けて聞いていた。
安藤は丁寧にメモを取った。最初よりも書く量が多くなっていた。最初は確認するような書き方だったが、途中から何かを記録しようとしている書き方になっていた。悟はそれを特に気にしなかった。
しばらくして、安藤がメモ帳を閉じた。
「記録類を見せてもらえますか。書面があれば」
「あります」と悟は言った。「あそこの棚に」
安藤が振り向いた。




