第53話 安藤さんがやってきた
木曜日の朝、悟はいつもどおりの時間に世話を始めた。
調査があるからといって、特別に何かを整えることはしなかった。棚の書類を移動させることも、魔物のエリアを普段より広くすることも、しなかった。いつもの木曜日だった。
レグが食事を終えて縁側に出ていた。ガッシュが草を食べていた。ムクが水槽の中でゆっくり動いていた。リンが棚の上に止まっていた。
いつもと同じ朝だった。それでいいと思っていた。特別な朝にする気も、なかった。調査が来るからといって、魔物たちに何かを求めても意味がない。彼らは彼らのペースで動いている。それを見てもらえばそれでいい。
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白石が十時少し前に来た。
「おはようございます」
「おはようございます」と悟は言った。「早いですね」
「来る前に安藤さんと連絡を取りました。十時に来る予定です」
白石がいつもより少しきちんとした服だった。スーツというほどではないが、ジャケットを着ていた。悟はそれを見て、まあそうか、と思った。
リンが棚から降りてきた。白石の肩に止まった。白石が「今日は仕事なのでやめてほしい」と言った。リンが動かなかった。白石がため息をついた。
「リンに言っても伝わりませんよ」
「わかってます」
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十時ちょうどに玄関の引き戸が開いた。
スーツを着た男だった。四十代、がっしりとした体格で、黒い書類バインダーを脇に抱えていた。表情は動いていない。
「管理局施設管理部の安藤です」
「神崎です。どうぞ」と悟が言った。
安藤が中に入った。
廊下の先に、ガッシュが立っていた。
ガッシュは訪問者が来ると振り返る癖があった。今日も振り返った。首が安藤の方を向いた。
安藤が一歩、後ずさった。
無言だった。バインダーを持つ手に少し力が入るのが見えた。
「……大きいですね」
「猪型です。アームドボアといいます。今は食後で機嫌がいいので。近くに行っても平気ですよ」と悟が言った。
安藤が動かなかった。
白石が後ろで安藤の様子を見ていた。余計なことは何も言わなかった。
ガッシュが首を戻して、自分のエリアの方に歩いていった。用がないと判断したらしかった。
「今、確認したんですよ。誰が来たか」と悟が言った。
「……確認」
「危険な相手かどうか、という確認です。問題ないと判断したので戻りました」
安藤がガッシュの背中を見た。それ以上は言わなかった。
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事務スペースに通した。白石が隅の椅子に座った。安藤が書類をテーブルの上に広げた。
「施設の概要から説明してもらえますか」
「世話をしながら話しますね」と悟は言った。
「……世話をしながら」
「午前中の世話の時間なので。動きながらでよければ一緒に歩いてもらえますか」
安藤が一拍置いてから、「わかりました」と言った。
白石は何も言わずについてきた。
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悟が各エリアを回りながら話した。レグのエリア、ガッシュのエリア、ムクの水槽、リンの棚。施設の規模と、常駐の魔物の種類と、一時預かりのことを説明した。
安藤が横でメモを取りながら歩いた。
「飼育方針は」
「その子に必要なことをします」
「具体的には」
「その時その子に必要なことを、そのときにする、ということです」
安藤が顔を上げた。
「それだけですか」
「それだけです」
安藤が何かを書いた。何を書いたかは見えなかった。
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ガッシュのエリアの前を通った。ガッシュが食後の落ち着いた様子でそこにいた。安藤が少し足を止めた。さっきのように後ずさりはしなかった。ただ止まって、ガッシュの方を見ていた。
ガッシュが安藤の方をちらりと見た。見てから、何もないと判断して、向こうに歩いた。
「……本当に草食なんですか」
「草食です。見た目はあれですが、草しか食べません」
「ダンジョン産の猪は肉食だと思っていました」
「品種によりますよ。アームドボアは草食です。ガッシュは特に穏やかな個体で」
安藤がガッシュの背中を見ながら、何かをまたメモした。
白石が少し後ろで、安藤の様子を見ていた。
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ムクの水槽の前に来た。
安藤がムクを見て、一瞬だけ足が止まった。ガッシュの時の後ずさりとは違う止まり方だった。驚いたというより、どう反応すればいいかを一瞬だけ考えた、という止まり方だった。
「テンタキュラスモール、です」と悟が言った。
「……タコ、ですか」
「似ていますが別の生き物です。水中の魔物です」
「こんなものが施設にいるんですか」
「います」
ムクが水槽の壁際にゆっくりと近づいてきた。ガラスのこちら側に安藤がいた。ムクはそのまま動かなくなった。吸盤をガラスに当てて、じっと安藤の靴の方を見ていた。
「……何ですか、この生き物は」と安藤が言った。
「興味があるんでしょう」と悟は答えた。「こういうとき、ムクは動きません」
安藤がムクを見た。ムクが安藤の靴を見ていた。しばらくそのままだった。白石が悟の方を少し見た。悟が軽く首を振った。それだけだった。
安藤がバインダーに何かを書いた。かなりの量を書いていた。
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一通り回り終えてから、事務スペースに戻った。
安藤がメモを整理した。悟はお茶を出した。安藤は受け取って、少し考えてから飲んだ。
「預かりの頻度は」
「常駐が四体、一時預かりは週に一、二件です」
「費用は」
「依頼主から受け取ります。固定ではなくて、状況に応じて」
「正式な契約書類は」
「あります」
安藤が少し間を置いた。
「この施設に来る前に、記録類を拝見できますか」
「記録類、ですか。あります。どこに置いてありましたっけ」
悟が振り向いて棚を見た。
「ここです」
棚一面に、ノートが並んでいた。横並びにびっしりと、端から端まで。厚みのばらばらなノートが、一冊また一冊と並んでいた。
安藤の視線がそこに止まった。
動かなかった。




