第50話 なるようになるか
夕方の光が、縁側の床を斜めに照らしていた。
悟はそこに座っていた。膝の上にレグがいた。丸まっていて、動く気配がなかった。橙色の鱗が夕光を受けてすこし光って見えた。
施設の中を見渡した。
ムクの水槽がいつもの場所にある。中でムクがゆっくり泳いでいた。ベージュの体が水の中でゆらゆらしていた。急ぐわけでも、何かを求めるわけでもなく、ただそこにいる。水槽の照明がやわらかく灯っていた。
縁側の端には、ガッシュが寝ていた。石のような存在感で、そこに置いてあるものみたいに動かなかった。呼吸していなければ岩だと思うかもしれない。今日も誰かが来てもこの調子だった。
廊下の奥に、今日の一時預かりが二体いた。どちらも夕方は静かになる種類で、今は問題なかった。
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拡張したら大変になる。
悟は頭の中でゆっくり考えた。
白石が言っていた。法的整備が必要になる。届け出が増える。複雑になる。仕事が今より増える。白石はそれを反対の理由としては言っていなかったが、覚悟として言っていた。その重さは、悟にも十分伝わっていた。
費用は出せる、と田中が言っていた。あの言い方は、組合として正式に決めてから来たという意味だろう、と悟は思っていた。偶然通りかかって、偶然そういう話になった、というのは、そういうことだ。誰も確認はしないが、みんなわかっているはずだった。
種類が増えれば研究の幅が広がる、と野島が言っていた。野島にとっては施設の拡張が研究の拡張でもある。野島は正直にそれを言っていた。
拡張しなかったら、断り続ける。
それはそれで悪くない、という気もした。今の規模でできることを丁寧にやる、というのは、自分の性分に合っていた。だが断るたびに、電話を切るたびに、どこかで「仕方がない」という感覚が積み重なる。その積み重ねがどのくらいのものになるかは、まだわからなかった。
どちらも悪くない。どちらにも代償がある。
レグが動いた。丸まったまま、少しだけ体の向きを変えて、また静止した。橙色の鱗が柔らかく動いて、また落ち着いた。それだけだった。
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そのとき、レグが悟の手に鼻先を押し付けた。
撫でてほしいわけではないらしかった。何かを要求しているわけでもない。ただ確かめるように、鼻先を当てたままそこにいた。温度だけがあった。
「考えすぎてもしょうがないか」と悟が呟いた。
レグは何も言わなかった。鼻先を手に当てたまま、動かなかった。
悟がゆっくりレグの頭を撫でた。レグがわずかに目を細めた。
そのまま少しの間、縁側にいた。外の光が少しずつ暗くなっていった。
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夕方の世話を始めることにした。
立ち上がると、レグが膝から下りた。少しその場にいてから、室内をゆっくり歩き始めた。世話が始まる時間になると、レグはこうやって施設を一回りし始める。何を確かめているのかは悟にもわからなかったが、いつのころからかそうなっていた。
悟はまず水の補充から始めた。ムクの水槽を確認して、今日の一時預かりの様子を見た。ランプ型は落ち着いていた。羽虫型は少し活動的になっていたが、エサを入れると静かになった。ガッシュの水を換えて、リンの容器を点検した。
作業をしながら、頭の中が少し整理されていくのを感じた。
考えている間は混んでいたものが、手を動かしていると流れていく。昔から、悩み事があると体を動かすほうが楽だった。動物園で働いていたときもそうだった。悩んでいても、世話をする時間になれば手が動いた。そうしているうちに、悩んでいたことの輪郭がぼやけてくる。
今日も新しい子の予約が入ってたな、と悟は思った。メモには種類が書いてあったが、実際に会うまで何もわからない。どんな性格で、何を好んで、どんなときに落ち着くか。
まずどんな子かを見ないとわからない。それだけだった。
拡張するかどうかは、今夜決めなくていい。来週決めなくてもいい。どうするかは、もう少し手元の仕事をしながら考えればいい。なるようになるか、という着地点に、悟は自然に戻ってきていた。強引に戻ってきたわけでも、諦めて戻ってきたわけでもなかった。ただそこに帰ってきた感じがした。
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世話が全部終わって、施設の灯りを落としていった。
ムクの水槽の照明だけ、タイマーで少し後まで点けておく設定になっていた。暗くなった室内で水槽だけが光っていた。ムクがその中でゆっくり動いているのが見えた。ベージュの体が照明に照らされて、落ち着いた色をしていた。
レグが悟の足元に戻ってきた。今日の一回りが終わったらしかった。縁側に腰を下ろすと、またしばらくして膝の上に来た。さっきよりも丸まり方が深かった。完全に休む体勢だった。
「お疲れ」と悟が言った。
レグが目を細めた。それだけだった。
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翌朝、玄関のポストに封書が入っていた。
差出人は「ダンジョン管理局 本部」と書いてあった。
悟はそれをしばらく手の中で持っていた。それから、開けずにテーブルに置いた。
レグが足元に来ていた。封書に鼻先を一度当てて、それ以上は何もしなかった。
「後で読む」と悟が言った。
レグは返事をしなかった。
今日も世話から始まる。




