第44話 野島先生が来た
「本物だ……」
野島は密閉容器の前で、そう呟いた。
五十代くらいの小柄な男で、眼鏡をかけていた。荷物は大きめのトートバッグで、中から小型カメラとルーペを取り出しながら、容器から目を離さなかった。
悟は少し離れたところに立って、野島が落ち着くのを待った。
「神崎さん」と野島が振り返った。「こんなにきれいな状態で生きている個体を見るのは、初めてです」
「飼育環境には気をつけています」
「何度か見たことはあるんですが、全部標本か、弱っている状態のものばかりで。こんなふうに翅が張っているのは……」
野島がまたカメラを向けた。シャッター音が数回した。
「温度管理のデータをお見せできますか」と悟が言った。「観察ノートも一緒に」
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テーブルに二冊のノートを広げた。一冊はデータの記録で、温度・湿度・摂食の量が日付ごとに並んでいる。もう一冊は観察メモで、動きや様子を短く書き留めたものだった。
野島が眼鏡を押し上げて、ページをめくった。
「こんな詳細な記録が……」
「特別なことはしていないですよ。毎日同じ時間に確認して、書いているだけです」
「いや、でも」と野島は言った。「ここ、翅の動きの変化を書いてありますよね。脱皮前の兆候として」
「そうです。前兆があったので記録しておきました」
「これは……発表されているデータにない観察なんですが」
悟は少し考えた。
「そうですか。野島先生の論文、電話の後で調べて読みました。パラサイトモスの飼育温度の話が参考になりました」
野島が顔を上げた。
「読んでいただいたんですか」
「仕事ですから。関係する論文があれば読みます」
野島がしばらく悟を見た。それから、また視線をノートに戻した。
「……あの論文を書いたのは七年前です。当時は生態観察のデータがほとんどなくて、推測の部分が多くて」
「そう書いてありましたね」
「今見ると、一部は間違っていると思っています」
「どの部分ですか」と悟が聞いた。
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そこから話が続いた。
野島が論文の内容を説明して、悟がノートの記録を照らし合わせて、どこが一致してどこが違うかを確かめた。野島が質問して、悟が「この日に何が起きたか」を記憶を辿りながら補足した。
気がつくと、テーブルの上にノートが四冊になっていた。野島が持参したメモ帳が二冊加わっていた。
窓の外が夕方の色になっていた。
「もう五時を過ぎていますね」と野島が言った。
「そうですね」
「すみません、長くなってしまいました」
「構いませんよ。私もわかることが増えましたから」
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そのとき、入り口のほうで音がした。
レグが来ていた。野島のトートバッグの近くまで歩いてきて、ルーペをじっと見ていた。
「あ、これは」と野島が固まった。
「ウォームドレイクです。レグといいます。道具に興味を持っただけです」
「触って……いいですか」
「どうぞ」
野島が恐る恐る手を差し出した。レグが鼻先を近づけて、においを嗅いだ。そのまま野島の手の甲に頭を乗せた。
「かわいい……」
野島が初めて笑顔になった。さっきまでの論文の話のときとは違う、素直な顔だった。
「珍しいですよ、あんなに人に近づくのは」と悟が言った。
「そうなんですか」
「道具が好きみたいで。ルーペに反応したんだと思います」
野島がゆっくりとレグの頭を撫でた。レグは特に嫌がらず、しばらくそこにいた。
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そこに、廊下の方から足音がした。
ガッシュが珍しく野島のいるエリアまで入ってきた。のっしのっしと歩いて、野島のトートバッグの脇に来ると、鼻先でバッグをぐいっと押した。
「こ、これは……」
野島が動かなくなった。
「興味を持っているだけです」と悟が言った。「ガッシュです。草食ですよ」
「草食……」
「荷物の中に植物性のものが入っていませんか。においがしたのかもしれません」
野島がバッグをそっと確認した。
「果物の飴が……一袋」
「それですね」
野島がバッグを持ち上げた。ガッシュはしばらく鼻をひくひくさせてから、興味を失ったように戻っていった。
「おおきい……」と野島が言った。
「猪型です。おとなしいですよ」
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野島が帰り支度を始めた。ノートをまとめて、カメラをバッグに入れた。
玄関で靴を履きながら、野島が言った。
「ここで定期的に観察させてもらえますか。一か月に一度でもいいですから」
「構いませんよ」
「迷惑じゃないですか」
「研究として役立つなら、私のデータも活きますから」
野島が立ち上がった。それからちょっと間を置いて、もう一つ聞いた。
「一つだけ聞いていいですか。ここに来る研究者は、私だけですか」
「今のところは」
「……他の研究者に紹介してもいいですか。同じ分野の知人が数人いるんですが」
「どうぞ」と悟は答えた。
野島が「ありがとうございます」と頭を下げて、出ていった。
悟はしばらくドアを見ていた。
来月また来る、ということになった。それまでに観察メモを整理しておく必要がある。野島のメモと照らし合わせると、まだ確認できていない項目がいくつかあった。
悟は部屋に戻ってノートを開いた。今日確認できた内容を書き留めた。
ガッシュが窓の外でのんびりしているのが見えた。野島がいる間、しばらく鼻でバッグを押し続けていたが、飴が出てこないとわかると静かに戻っていった。
ノートに一行書いた。「ガッシュ、客の荷物を確認する癖あり。食べ物は持ち込まないよう注意を促すこと」。
悟がドアを閉めたとき、ポケットの中のスマートフォンが振動した。
田中からだった。
「取材の件なんですが、少し話があります。お時間いただけますか」




