第43話 野島先生の声
電話をかけたのは翌朝だった。
夜に気温が下がってパラサイトモスが活性化したのを確認してから、悟はノートに記録を書き足した。それからしばらく考えて、夜遅い時間に電話をかけるのはやめた。
朝の八時過ぎ、施設の作業が一通り終わってから、手帳の番号に電話をかけた。
三回鳴って、出た。
「はい、野島です」
「まもの預かり所の神崎です。以前名刺をいただいた」
「ああ、神崎さん! 覚えてますよ、元動物園の」
「そうです。今少しよいですか」
「もちろんです」
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「パラサイトモスを預かっているんですが」と悟は言った。「寄生のメカニズムが分からなくて。特に鱗粉の成分と、温度管理について聞きたかった」
電話の向こうが一瞬沈黙した。
「パラサイトモス? 本当ですか!」
声が上がった。「私、論文を書いたんですよ、その種について。七年前になりますが。まだ観察例が少なくて、データが取れなくて困っていたんです。今どこにいるんですか、そのモス」
「施設にいます。昨日受け入れたところで」
「状態は! 宿主なしですか!」
「宿主なしです。密閉容器に入れていて、昨夜気温が下がったら翅が動き始めました」
野島が「やっぱり」と言った。
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「鱗粉の成分は神経伝達物質に近い構造をしています」と野島は言った。「厳密には人間のそれとは違うんですが、受容体に結合できる形をしていて、だから宿主の代謝を直接操作できる。精度が高い構造なんですよ、あれは。私が調べた個体では、体温の変動に連動して鱗粉の産生量が変わっていて、低温下では活性が上がる傾向があった。逆に高温下では産生が抑制されて」
「気温管理が必要ですね」と悟は言った。「温度計を追加します。何度を上限にすれば活性が落ち着きますか」
野島が少し間を置いた。
「実用的なことを聞きますね」
「それが一番必要なので」
「二十二度を超えると活動量が明確に落ちていました。ただ、個体差があるかもしれない。私のデータは一例だけなので」
「わかりました。二十三度くらいを目安にして、様子を記録していきます。昨夜の気温低下時に翅が動いたのは、それで説明できますね」
「そうです。ちゃんと観察されてますね、神崎さん」
「変化があったので書いておいただけです」
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悟は電話をしながら、棚から温度計を取り出した。デジタル表示のもので、以前から施設で使っていた予備だ。
レグがそばに来た。悟が電話しながら棚を開けているのを見て、少し近づきかけて、それから止まった。少し離れたところに座って、じっとしていた。
悟は温度計を持ったまま電話を続けた。
「野島さん、鱗粉が容器の外に出る可能性はありますか。今はフィルターを二重にしていますが」
「通常の鱗粉サイズであれば、適切なフィルターで遮断できます。ただ、粒子径を確認した方がいい。私の論文に計測値が載っているので、送りましょうか」
「ありがたいです。メールで」
「すぐ送ります。あの、一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「直接見に行っても、いいですか」
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悟は少し考えた。断る理由はなかった。観察例が少ない魔物の専門家が直接来るなら、記録の質が上がる。
「来てください、ぜひ」と悟は言った。「記録が増えると助かります」
「ありがとうございます! 来週の火曜か水曜はどうでしょう」
「どちらでも大丈夫です。午前中なら施設にいます」
「では水曜の十時に伺います。ありがとうございます、神崎さん。こんなに早く実物が見られると思っていなかった」
「こちらもありがたいです。論文、読んでおきます」
「読んでもらえますか、本当に」
「必要なので」と悟は言った。
野島が笑う気配がした。「来週が楽しみです」
「では」
電話が切れた。
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悟はパラサイトモスの密閉容器の隣に温度計を設置した。電源を入れると、現在の温度が表示された。十九度。
夜間にここまで下がっていたなら、活性化するのは当然だった。今日の昼間は二十四度を超えるという予報だった。それなら日中は落ち着いているはずだ。
ノートを開いて「要温度管理:目安二十三度以下を保つ」と書いた。下に「野島先生より。論文確認待ち」と付け足した。
レグが近づいてきた。電話が終わったのを確認したのか、そばに来て悟の手元を覗いた。
「終わったぞ」と悟は言った。レグが小さく鳴いて、悟の手元を一度だけ確認してから離れた。
悟はノートを閉じて、一度施設全体を見回した。
こういうときに人に聞けるのはいいことだな、と思った。知らないことは知らないままにしておくより、誰かに聞いた方が早い。当たり前のことだが、聞ける相手がいるかどうかで全然違う。
来週の水曜、野島が来る。
それまでにできることをやっておこう、と悟は思った。論文を読んで、記録を続けて、分からない部分を整理しておく。
温度計が十九度を示していた。悟はパラサイトモスの容器をもう一度確認した。翅は閉じていた。今朝は動いていない。
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水曜の朝、野島は約束の十時ちょうどに施設の門の前に立っていた。小柄で、眼鏡をかけていた。大きな鞄を肩にかけていた。論文でも持ってきたのだろうかと悟は思った。




