どうすれば私は幸せになれるのか
悪い事は続く。
週明けに出社したら、ちょうど課長が部長室から出て来る所だった。周囲が騒ついていた。
胸騒ぎがする。
確認する為に近くにいた同僚に声をかけようとして、課長に声をかけられた。
「平坂、ちょっと良いか」
「あ、はい」
荷物を椅子の上に置き、課長の後を追って会議室に入る。
課長は私が来たのを確認すると、ネクタイを緩めた。
椅子に座る。
……何だろうか。
「近々、俺に異動の辞令が出る。営業三課にな」
「えっ?! 課長がですか?!」
課長が手掛けている案件はいくつもあるのに、異動?!
営業三課への異動は、ぱっと見左遷でもなんでもない。むしろ栄転の部類に入る。
でも、今課長が受け持っている案件は、課長がずっとやりたいと言い続けていたもので、あともう少しで軌道に乗ると言うものだった。
呆然としている私をそのままに、課長は話を続ける。
「馬鹿馬鹿しくてやってられないからな、辞める」
「辞める……? 会社をですか?」
あぁ、と答える課長の表情は、苛立っていると言うよりは、呆れているようだった。
「前から声をかけられてたんだがな。やりたい案件もあったし、待ってもらってた」
課長は有能だ。
他社から声がかかっても不思議ではない。
「オレがいなくなったらストッパーがなくなる。おまえは前のようにフォローをしろと言われる筈だ」
「それは……」
以前のような、仕事をして、家には寝に帰るだけの生活に逆戻りすると言う事か……。
これまで自発的にやっていたものが、上から言われると言う事は業務命令と言う事になる。
「散々言った。このままでは人材が育たないから、そろそろ各自が己の成長に真剣に取り組むべきだと。
だがな、必要になればやるだろうって言いやがったよ。
今がその時で、出来てないってのにな、馬鹿には何も見えないんだろう」
部長を馬鹿呼ばわりしている。
辞める決意は固そうだ。
部長は増えた残業時間について上からお小言を食らっているとは聞いていた。
でも、だ。
私がフォローしていたと言っても、そんなに格段に変わる筈もない。
「おまえを言い訳にしてサボってる馬鹿はいるからな」
私の考えていた事を見透かしたのか、課長が言った。
「……私は潰れても良い人材って事なんですね」
苦虫を噛み潰したような表情を課長は見せた。
「おまえも、オレと来るか?
おまえなら足手纏いどころか戦力になる。断られはしない」
課長と?
課長をヘッドハンティングしている会社に一緒に?
「ありがとうございます。ちょっと、考えさせて下さい」
「あぁ」
会議室を出て席に戻ろうとして、視線に気付く。
ニヤニヤしている足立さんが見えて、なるほど、と納得した。
彼女は部長と不倫していると言う噂があった。噂ではなく本当なのかも知れない。
可愛い彼女に泣きつかれて、良い所を見せようとした部長が強引な手に出た?
その為に課長が異動なんてありえない筈なのに、それが可能なのは、部長が社長の弟──経営者一族の一人だからだろう。
令和になってもまだそんなのあるのかと思うけど、あるのだ、ここに。
席に着いたのは良いものの、何だか全てがどうでも良くなってきた。目の前の自分の仕事すら、やる気になれなくなっていた。
地下鉄の暗い窓に映る自分を見る。
前に比べればいくらかマシになった。
でも、課長に言われたように、新しい課長からなのか部長からなのか分からないけど、命令されたらまた、逆戻りだ。
帰りが遅くなったらカオルくんは待つ時間が長くなっちゃうな。
……待ってて、くれるんだろうか? あんな時間まで待っててもらうのは申し訳ないから、先に食べてもらう事になるんだろう。
まともに話せるのは週末だけだろうな。
彼は優しいから、私を遅くまで寝かせてくれるんだろう。私の身体の事を考えた料理を作ってくれるんだろう。
せっかく、人らしい生活が出来ていたのに、人になんかなるな、社畜として働けって事だろうか。
……私はここでも、誰かを支える側に回る。
じゃあ誰が私を支えてくれるんだろう?
答えは、いない。
誰もいない。
帰宅した私をいつものように出迎えてくれたカオルくんだったが、私を見るなり、笑顔が消えた。
「何かあったんですか?」
辛い時、たとえ解決しなくても、誰かに何があったのかと聞いてもらえるだけで、気持ちは軽くなるものだ。
自分の変化に気付いてくれる人がいると言うのは、思っている以上に心を慰める。
「忙しくなるみたい」
「とりあえず、お風呂に入って着替えてきて下さい。ごはんの準備しておくので」
頷いて、カオルくんが用意してくれていたお風呂に入る。身体の強張りがほぐれていく。
でも、心まではならなくて。
頭の中に浮かぶ言葉は
消えたい
だった。
お風呂から上がった私の前に、湯気をたてた美味しそうな食事が並んでいる。
いつもより豪華な気がする。
「ちょっと張り切り過ぎてしまいました」
そう言って笑うけど、昨日私が兄と言い合ったのを見ていたから、励まそうとしてくれたんだろう。
手を合わせていただきますと言ったものの、食べる気になれなくて。
心配そうにカオルくんがこっちを見ている。
大丈夫だって言って笑いたいのに、いつもなら出来ていたのに、出来なかった。
ただもう、消えたい、そればっかりが頭の中で浮かんでは消え、浮かんでは消えた。
カオルくんは箸を置き、私の横に座った。
「今日、何があったんですか?」
「課長が異動する事になって、辞めるって。
それで、私はまたみんなのフォローをする事になって、前みたいに家に寝に帰るだけの生活になるみたい」
これだけ聞かされても、カオルくんからしたら何のこっちゃと思うだろう。
でも、カオルくんはそうですか、と答えて頷いた。
「ハルさんは、前の生活に戻りたくないんですよね?」
頷く。
助けても、助けても、みんな当然と思ってる。
感謝されたい訳じゃない。してもらったら嬉しいのは間違いないけど。
でも、彼らは私を便利なロボットぐらいにしか思っていない。
私を人だと思っていない。働きすぎれば壊れるし、心もあるって言うのに。
三十路も半ばを過ぎた哀れなおばさんに、仕事を与えてやってるとでも思ってるのかも知れない。
「……消えたい」
ここから消えたい。
妹を金蔓にしか思ってない兄夫婦、代わりに仕事をやらせるロボットとしか思ってない後輩、同僚、課長以外の上司。
「私が手を出し過ぎてみんなが育ってなかったからって、私はずっとずっとみんなのフォローをしなくちゃいけないの? みんな私のやり方を見て何で学ぼうと思わないの?」
私の手をカオルくんが握る。
「私は迷惑な存在なの? お金を出さないといけないの? 血の繋がりって何? 私はいちゃいけないの? 私は幸せになっちゃいけないの?」
温かいものが頰を伝う。
泣いているのだ、私は。
「私だって幸せになりたい」
カオルくんに抱きしめられ、彼の胸に顔を埋めて声を出して泣いた。




