第七話 最初のサンドボックス
「……おもしろそうね。続けて」
私が促すと、画面越しの星野はコクコクと力強く頷いた。
すっかりオドオドした態度は消え去り、その瞳には、純粋な探求者としての熱い光が宿っている。
「はい! では、その『化学進化』という名のディープラーニングが、地球のどこで行われたのか。現在もっとも有力視されているのが、深海の底にある『熱水噴出孔』です」
「ねっすい、ふんしゅつこう?」
耳慣れない単語に私が眉をひそめると、星野は身振り手振りを交えて解説を始めた。
「地球内部の地熱で温められた熱水が、勢いよく湧き出している場所です。信じられないほどの高圧・高温環境なんですが、メタンや水素など、有機物を作るための材料が豊富に揃っていました。何より、強大なエネルギーが『持続的かつ安定して』供給され続ける場所だったんです」
なるほど。
私の脳内で、星野の言葉が自動的にIT用語へと翻訳されていく。
「要するに、無停電電源装置と強力な冷却システムが完備された、極めて稼働率の高い『超優良データセンター』ってことね」
「データセンター……っ、まさに! まさにその通りです! 熱水噴出孔は、生命誕生のための究極のインフラ設備だったんです!」
星野の声が一段と大きくなる。完全に私の翻訳を楽しんでいるようだ。
私も、自然と前のめりになっていた。
「でも小林さん。材料とインフラが揃って、DNAやタンパク質などの『パーツ』が作られただけでは、まだ生物とは呼べません。それらを包み込み、内と外を分ける境界線……つまり『細胞膜』ができることが、生命誕生の絶対条件だったんです」
「内と外を分ける、境界線……」
「はい。水中では、脂質が自然に集まって、勝手に小さな袋を作るんです。この袋をリポソームと呼びます。これによって初めて、外部の環境から独立した『個体』が生まれました。約四十億年前の海で起きた、最大のブレイクスルーです」
私は息を呑んだ。
全身の産毛が逆立つような感覚。
点と点が、一本の鮮やかな線に繋がっていく。
「……外部のノイズからシステムを保護して、内部だけで安全にプログラムを実行するための、隔離環境」
私は乾いた唇を舐め、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「IT用語で言うところの『サンドボックス』ね。地球という巨大なネットワークの中に、初めて作られた独立サーバー」
「……っ!」
星野が息を呑む音が、スピーカー越しに聞こえた。
「星野さん。あなたが見つけたという、その化石の配列データは……」
「はい。その、地層の年代自体は――数千万年前のものです」
「……四十億年前じゃないの?」
思わず眉を寄せた私に、星野は首を横に振った。
「コードは、書き換わりながら受け継がれていくものなんです。四十億年前に起動した最初の一行は、そのあと生まれたすべての生命へコピーされ続けた。……そしてごく稀に、ほとんど書き換えられないまま、化石の中に閉じ込められることがある」
彼は一度言葉を切り、噛みしめるように続けた。
「僕が数千万年前の地層から掘り当てたのは、四十億年前の『初版のバックアップ』なんです」
星野の言葉を、私が引き継ぐ。
「四十億年前の海に構築された『最初のサンドボックス』の中で起動した、人類史上……いや、地球史上最古の『成功したソースコード』の痕跡」
画面越しの沈黙。
泥まみれの古生物学者と、ベンチャー企業のバックオフィス担当。
交わるはずのなかった二つの視点が完全に重なり合い、恐ろしいほどの真理の淵を覗き込んでいた。
「……信じられない」
私は小さく呟き、手元にある自社AIの検証タスクのウィンドウを睨んだ。
今、私たちが必死に開発している最新鋭のAIモデル。
それは、四十億年前に地球という環境が実行した途方もない演算の、ちっぽけな模倣に過ぎなかったのだ。
「星野さん」
私はキーボードに手を置き、いつもの冷徹な顔を再び装着した。
「この話、絶対に他の誰にもしないで。会社にバレたら、あなたのその『世紀のソースコード』は、一瞬で特許の餌食にされて終わるわよ」




