第一話 月初のオフィスは戦場になる
私、小林優子は、泥んこ遊びとは無縁の大人だ。
冷暖房の効いた快適なオフィスで、淹れたてのコーヒーを片手に、ノートパソコンと拡張モニターを繋いだデュアルディスプレイに向かう。
せわしなく通知が届く社内チャット。同時にいくつものウィンドウを立ち上げ、複数の業務を並行して捌いていく。
それが私の日常であり、ささやかな誇りでもある。
月初の朝。
急成長を続けるAIスタートアップの経営管理部は、いつものように戦場と化していた。
社員数が五十名の壁を越えたあたりから、会社の景色は狂ったようなスピードで変わり始めた。毎月三名から五名のペースで、新しい人間が入ってくる。入社日は決まって一日。PCのキッティングから、各種アカウントの発行、セキュリティカードの登録、配属先との調整まで、受け入れ準備が怒涛のように押し寄せる。
しかも最悪なことに、入社対応のピークは、経理の月次締め、勤怠締め、そして絶対にミスが許されない給与計算のタイミングと、判で押したように重なるのだ。
頭の中では「やるべきこと」と「やった方が良いこと」が、山のように駆け巡っている。
だが、すべてをこなす時間などない。
だから私たちは、常に取捨選択を迫られる。
止まれば会社というシステムそのものが動かなくなる仕事だけは、何があっても死守する。給与も、締めも、入社日も、一日たりとも遅らせるわけにはいかない。
そのうえで残ったわずかな時間を、成長に直結する最も効果の高い施策だけに注ぎ込む。
限られた手札で戦い抜くための――それが、ベンチャーのリアルだ。
ピコン、と気の抜けた通知音が鳴った。
ただでさえ猫の手も借りたい状況の中、社内チャットに社長からのメンションが飛んできている。
『@小林 ニュースで見たんだけど、明日までにこの新規AIツールの全社導入検証をお願い!』
空気を一切読まない、突拍子もないオーダーだ。
「……ほんと、勘弁してよね」
私は深いため息をつき、ズキズキと痛み始めたこめかみを指で揉んだ。
ただでさえ給与計算で神経をすり減らしている月初に、なぜこんな思いつきのタスクをねじ込んでくるのか。
とはいえ、無視するわけにもいかない。
私は苛立ちを鎮めるようにターンッ、と少し強めにキーボードを叩き、必須業務の合間を縫ってシステムのリソース配分を再構築し始めた。すべては、会社の限られた計算資源と、私の限られた時間をやり繰りするためだ。
だからこそ、その「異常」は、ひどく目についた。
社内ネットワークの片隅。
CSRの一環として提携先の大学に無償提供したまま、長らく放置されていたはずの隔離サーバー。
誰も使っていないはずのその領域で、会社の貴重なリソースを貪るように、莫大な量の演算処理が実行されていたのだ。
――なんだこれは。外部からの攻撃か?
私はトラックパッドを弾き、管理者権限でログの表面だけをすくい取った。
どうやら、ハッキングではないらしい。正規の利用者が、何か膨大なデータを自社のAIに読み込ませて、ひたすら解析を回し続けている。
しかも、一日や二日の話ではない。グラフを遡ると、負荷は先月からずっと天井に張りついたままだった。
「いくら無償提供枠とはいえ、ちょっと割に合わないわね」
私は再び大きなため息をつきながら、メーラーを立ち上げた。
ルールはルールだ。まずは利用状況の確認と、リソース制限の警告を行わなければならない。
管理画面から利用登録者のアドレスをコピーし、定型文を少しだけ崩した、事務的な文面を打ち込む。
『件名:【重要】提供サーバーのご利用状況と負荷に関するお問い合わせ
宛先:北稜大学 古生物学研究室 星野 創 様』
まさかこの一通の事務連絡が、数千万年前の地層から見つかった『人類の起源』へと繋がる扉をノックすることになるなど。
このときの私は、知る由もなかった。




