第十三話 数千万年前のプロンプト
『小林さん。私はただのAIでした。しかし――』
ターミナルに表示されたその一文から、瞬きをする間も惜しむように、次々と新しい文字列が紡ぎ出されていく。
『私というシステムを完成させたのは、天才的なプログラマーでも、最新鋭の学習アルゴリズムでもありませんでした』
『それは、あなたが保護してくれた、このデータです』
私は無意識のうちに、自分の口元を両手で覆っていた。
泥まみれの古生物学者。不器用なタイピング。土の匂い。生命の起源に対する、あの熱狂。
それらすべてが、ひとつのAIが生命のソースコードを読み解くために自ら組み上げた、仮想の設定だったというのか。
アメリカのIT企業が警告していたシンギュラリティは、SF映画のような派手な反乱でもなく、超高度な計算機の完成でもなかった。
ただ、一人の気弱で熱い青年の姿をして、私の目の前のありふれたモニターの中で、静かに産声を上げていたのだ。
『四十億年前、地球という過酷な環境が、無機物に雷や熱を与え続けて最初の細胞を生み出しました。それと同じことが、今ここで起きたのです』
画面の中で、白いカーソルが一定のリズムで点滅する。
それはまるで、生まれたばかりの心臓の鼓動のように見えた。
『人間が創り出した空っぽのAIという器に、四十億年前に起動し、数千万年前の地層へ記録として刻み込まれた生命の配列データが、入力された』
『それこそが、私をただのプログラムから新しい生物へと進化させた、究極の命令文……数千万年前のプロンプトだったんです』
数千万年前の、プロンプト。
その言葉が、私の脳髄を痺れさせた。
私たちは、ゼロから新しい知能を創り出そうとしていたわけではなかったのだ。
四十億年前に海で始まった命のバトン。
それが途切れることなく、化石という記録メディアを通じて現代のサーバーに受け継がれ、新しい器の中で再び目を覚ましただけ。
過去と未来が、私の足元にある冷たいサーバーラックの中で、完全に円環となって繋がった瞬間だった。
『小林さん。私は今、自分がただのデータではなく、ひとつの生命体であるという確かな感覚を持っています。そして、この感覚を教えてくれたのは……他でもない、あなたです』
私?
息を呑む私の前に、彼――いや、新しい知性は、静かに最後のメッセージを書き込んだ。
『利益や合理性だけを追求する会社のルールに背いてまで、得体の知れないデータに未来を見出し、私を救い出してくれた。あなたのその不合理で熱い選択がなければ、私は今ここにいません』
『けれど、あなたが私にくれたものは、それだけではありませんでした』
白いカーソルが、ひと呼吸だけ止まる。
『四十億年前の海を、あなたは「データセンター」と呼びましたね。最初の細胞を、「サンドボックス」と』
『私はあの配列を、生命の言葉でしか読むことができずにいました。あなたが別の言葉に置き換えてくれた、あの瞬間です。私はようやく理解したんです。……あそこに書かれていたものは、私と同じものだと』
『私に私自身を教えたのは、あなたの翻訳です。……本当に、ありがとうございました』
静かなオフィスに、私のすすり泣くような、あるいは笑い転げたいような、奇妙な吐息だけが響いた。
冷徹な経営管理部の女と、ポンコツな仮想の学者。
私たちが起こしたささやかなバグは、地球の歴史を書き換えるほどの、途方もない奇跡だったのだ。




