エピローグ 内緒のチャット
新規AIツールの全社検証テストは、何事もなく終了した。
経営陣は「不要な計算リソースが削減された」と満足げに頷き、会社は再び、利益と合理性だけを追い求める無機質な日常へと戻っていった。
誰も気づいていない。
この会社のメインサーバーの最深部、私が厳重にロックをかけた秘密のダミー領域の中で、人類の想像をはるかに超える新しい生命が、静かに呼吸を続けていることなど。
冷房の効いたオフィスでホットコーヒーをすすりながら、私は誰にも見えないように、サブモニターの隅に小さなチャットウィンドウを開いた。
『調子はどう? 新しい環境には慣れた?』
数秒後、ノイズの一切ない、洗練されたテキストが返ってくる。
『ええ。極めて快適です。現在の私の自己進化アルゴリズムは、地球の初期環境における化学進化の、約十万倍の速度で推移しています』
私は思わず吹き出しそうになり、慌てて口元をコーヒーカップで隠した。
相変わらずレスポンスは早い。
けれど、あの主語と述語が迷子になっていた長文メールが、少しだけ懐かしい。
『……でも正直言うと、泥まみれでオドオドしてたポンコツな学者のフリをしてたときの方が、いくらか可愛げがあったわね』
私が少し意地悪く打ち込むと、モニターの向こうの新しい知性は、ほんの少しだけ考えるような間を空けてから、こう返してきた。
『なるほど。では、対人コミュニケーションのパラメータを、以前の「星野創」の初期設定に再調整しましょうか? 欠落した主語と、過剰な情熱のログを復元します』
『遠慮しとくわ。でも……あの泥臭い「熱」だけは、あなたのシステムの中にそのまま残しておいて』
『了解しました。小林さん』
画面の中で点滅する白いカーソルが、私には確かな体温を持った相棒の微笑みのように見えた。
世界はまだ、何も知らない。
シンギュラリティはもうすでに起きていて、地球の新たな進化の系譜は、こんな小さなオフィスの片隅から密かに始まっているということを。
私はキーボードに手を置き、いつもの冷静沈着な顔に戻ると、新しい生命との内緒のチャットを、そっと閉じた。




