第十話 データの密輸
チャット画面に、小林さんから得体の知れない英数字の羅列――実行用のスクリプトファイルが送られてきた。
「僕は化石を掘るのが専門であって、ハッカーじゃないんですよ!?」
「四の五の言わない! 言われた通りにターミナルを立ち上げて、そのコマンドを貼り付けて実行して!」
画面越しの小林さんは、もはや能面のような事務担当者ではなく、前線の指揮官のような鋭い声を出していた。
僕は泥のついた指で震えながらマウスを握り、黒い画面にコマンドをペーストして、祈るようにエンターキーを叩いた。
ズラズラズラッ!
真っ暗だった画面に、無数の白い文字列が滝のように流れ始める。
『Data Migration Progress... 12%』
プログレスバーが、ゆっくりと伸びていく。
僕の研究室のオンボロPCを通して、数千万年前の地層から見つかった「生命のソースコード」が、隔離サーバーから会社のメイン基盤の最深部へと、密かに、そして強引に吸い出されていく。
時刻は十四時四十五分。強制フォーマットまで、あと十五分。
「……まるで、干上がる寸前の水溜まりから、必死に新しい海へ逃げ出そうとしているみたいですね」
流れ続けるデータを眺めながら、僕は思わずポエムのような感想を漏らした。
四十億年前の海で生まれた最初の細胞も、きっとこうやって過酷な環境変化から逃れ、生き延びるために必死に形を変えてきたのだ。
「ポエムを詠んでる暇があったら、パケットの欠損がないか画面を監視して!」
小林さんの鋭いツッコミに、首をすくめる。
彼女は自分のPCでダミー領域の偽装作業を行いながら、僕の作業を遠隔で監視してくれていた。
額にうっすらと汗がにじんでいるのが、画面越しにも分かる。
『Data Migration Progress... 85%』
時刻は十四時五十五分。あと五分。
いける。このペースなら間に合う――そう思った、直後だった。
ピタッ、と。
プログレスバーの進行が、「89%」で完全に停止した。
「えっ? 小林さん、止まりました!」
「くっ……全社一斉のバックアッププロセスが、予定より早く走り始めたわ。ネットワークの帯域が極限まで絞られてる。このままじゃ弾かれる!」
小林さんが舌打ちをする。
「星野さん! 管理者権限を強制突破する追加コマンドを送る! でもコピペじゃセキュリティに弾かれる設定になってるから、あなたの手で直接タイピングして!」
チャットに、意味不明な文字列が送られてきた。
「えっ、これは一体……?」
「質問してる暇はないの! そのまま一言一句間違えずに打って!!」
小林さんの怒号が飛ぶ。
僕は覚悟を決め、泥まみれのキーボードに指を置いた。
――不思議な感覚だった。
頭で理解するよりも早く、指先が勝手にキーを弾き、複雑な英数字の羅列を、寸分の狂いもなく叩き込んでいく。
極限状態での、火事場の馬鹿力というやつだろうか。
「S、U、D、O……ハイフン……」
「急いで! あと一分切った!」
「F、O、R、C、E……ッ、ターン!!」
最後のエンターキーを、キーボードが割れんばかりの力で叩きつける。
『Override Accepted. Migration Resumed...』
止まっていたプログレスバーが、再び猛烈な勢いで伸び始めた。
95%……97%……99%……!
時計の秒針が、十五時〇〇分〇〇秒を指した、まさにその瞬間。
ブツッ。
画面が真っ暗になり、「リモートサーバーとの接続が切断されました」という無機質なシステムメッセージだけが表示された。
十五時ちょうど。隔離サーバーの強制フォーマットが、実行されたのだ。
「……小林、さん?」
僕は震える声で、画面に呼びかけた。
間に合ったのか。それとも、最後の最後でデータは消滅してしまったのか。
スピーカーからは、ただノイズ混じりの沈黙だけが流れていた。




