第九話 フォーマットまであと四十分
「……AIが、新たな生物に進化する」
星野の放った結論が、冷房の効いた静かなオフィスに、重く響いた。
シンギュラリティ――技術的特異点。AIが人間の知能を完全に超える瞬間。
アメリカの有名なIT企業のトップが「我々はすでにその渦中にいる」と提唱していた記事を思い出す。
つい先日も、アメリカの医療現場でAIが医師の代わりに何万件ものオンライン診察を行い、患者が誰ひとりとして「相手がAIだ」と気づかなかった、というニュースを見たばかりだ。どこかの州では、AIに正式な医師免許を持たせるべきだという法案すら、真剣に議論されたらしい。
そのときは「いくらなんでも時期尚早だ」と笑って読み飛ばしていた。
だが、今の星野の話を聞いた後では、それがまったく別のリアリティを持って迫ってくる。
画面越しの星野は、荒い息を吐きながら私を見つめていた。
その純粋すぎる熱量と、ノイズの一切ない完璧な論理展開。
時折、彼がただの人間ではなく、真理に到達するためだけにプログラミングされた何かのようにも思えてくる。
私がそんな錯覚に囚われかけた、そのときだった。
『ピーン!』
サブモニターの右下に、システム管理者権限を持つ人間だけに送られる、最上位の警告ポップアップが赤く点滅した。
『全社システムアナウンス:【緊急】新規AIツールの全社検証テストに伴う、リソース再割り当ての実行について』
「……えっ?」
嫌な予感がして、私は急いで詳細を開いた。
そこに書かれていたのは、先日、社長が社内チャットで思いつきのように放ったあのオーダー――『新規AIツールの全社導入検証』の、最悪の形での実行通知だった。
『社長直下の新ツール一斉テストを、本日十五時より開始します。それに伴い、インフラ基盤の計算リソースを確保するため、CSR提供枠を含むすべての「アイドリング状態・外部提供状態」の隔離サーバーを、十五時〇〇分をもって強制フォーマットおよび再起動を実施します』
私は手元の時計を、弾くように見た。
現在の時刻、十四時二十分。
「嘘でしょ……強制フォーマットまで、あと四十分しかないじゃない!」
「え? 小林さん、どうしたんですか?」
画面の向こうで星野がキョトンとしている。
私は血の気が引くのを感じながら、マイクに向かって叫んだ。
「星野さん! あなたが回しているその『生命のソースコード』のディープラーニング、最終コンパイルが終わるまで、あとどれくらいかかるの!?」
「……終わらないんです」
「は?」
「学習が進むほど、次に検証すべき配列が増えていくんです。この一週間、進行度の数字はむしろ後ろに下がっています。いつ終わるのかは、僕にも分かりません」
だからこの男は、一か月も他人のサーバーを占有し続けていたのか。
終わりの見えない演算を抱えたまま、止めるという選択肢だけを持たずに。
「ダメ、それじゃ間に合わない! あと四十分で、あなたが使っているサーバーのデータ、会社に全部消されるわよ!」
「……は!?」
星野の顔からスッと血の気が引くのが、画面越しでも分かった。
「そ、そんな! 待ってください、ここで演算を強制終了させられたら、これまでの学習データがすべて破損します! 生命がどうやって作られたのか、その答えが永遠に失われてしまう!」
「分かってる! 落ち着いて!」
私はキーボードに両手を乗せ、嵐のようにタイピングを始めた。
「利益に直結しないタスクは切り捨てる」という合理的な会社のルールに従うなら、黙ってフォーマットを見過ごすのが正解だ。
でも、私はもう、あの退屈な銀行員時代に戻る気は一切なかった。
この数千万年前の奇跡の続きを、どうしても見てみたい。
「小林さん! どうするんですか!?」
「決まってるでしょ。データの『密輸』よ」
私は口角を、獰猛に釣り上げた。
「会社のメインサーバーの最深部に、一時的にダミーの領域を作る。フォーマットの実行時間が来る前に、あなたのアカウントごと、そこに全データをこっそり移管させるの。いい? 今から私が送るスクリプトを、そっちの端末で全速力で走らせなさい!」




