第8話:事件は放課後の屋上で
その日は、学校中の空気が「泥」のように重かった。
放課後だというのに、部活動の掛け声も、笑い声も聞こえない。廊下に座り込む生徒、机に突っ伏したまま動かない教師。皆、一様に「……あー、もう全部どうでもいいわー」「進路?……宇宙の塵になれば関係なくない?」と、悟りを開いたような虚無の瞳で呟いている。
原因は、進路指導室に積み上げられた白紙の『進路調査票』の山から這い出した、**【怪異:退屈の魔獣「ヒマツブシ」】**だった。
それは、高校生特有の「将来への不安」と「今この瞬間の怠惰」を栄養に肥大化した、巨大なアメーバ状の魔獣。現在、学校の屋上に鎮座し、校舎全体から「やる気」という名の魂の火を吸い取っていた。
だが。
「つよしせんせーーーい! 廊下が、なんだか納豆の匂いがします! あと、みんなが『置物』みたいになってて、掃除の邪魔です!!」
職員室の重い扉を蹴破って現れたすずだけは、相変わらずの「通常運転」だった。
彼女には、魔獣が放出する「退屈の波動」が効かない。なぜなら、彼女の思考は常に時速二百キロでファンタジーの世界を爆走しており、一点に留まる「退屈」という概念が脳内に存在しないからだ。
「……すず。お前……なぜ、そんなに元気なんだ」
辛うじて理性を保っていたつよしが、弱々しく顔を上げた。彼もまた、重度の「五月病(八月だけど)」のような倦怠感に襲われていたが、すずの放つ眩しすぎるアホ……もとい、純粋なエネルギーに当てられ、辛うじて正気を繋ぎ止めていた。
「だって先生! 見てください、外! 空が灰色で、なんだか『おせんべい』みたいな音がしてます! 湿気てて不味そうです!」
「……おせんべいの音、か。……ふっ。……そうだな。お前を見てると、悩んでるのが馬鹿らしくなる」
つよしは、最後の力を振り絞って立ち上がった。彼は知っている。この魔獣を倒せるのは、この「無駄に前向きな美人」しかいない。
「いいか、すず。屋上へ行くぞ。……お前にしかできない『除霊』がある」
「はい! 先生と一緒なら、どこへでも行きます!……えへへ、これって実質、駆け落ちですか?」
「……そんな元気があるなら十分だ。来い!」
屋上へ続く階段を駆け上がると、そこには校舎を覆い尽くさんばかりの、巨大な灰色の魔獣がのたうっていた。
『……ダルイ……。……全人類、寝レ……。……明日ナンテ、来ナクテ良イ……』
「うわぁ、大きい! 先生、これ、巨大なこんにゃくですよ!」
「こんにゃくじゃない、魔獣だ。……すず、こっちへ来い」
つよしは、すずの肩をがっしりと掴んだ。
「今からお前に、俺の『担任としての熱意』を物理的に流し込む。……恥ずかしがるなよ」
「えっ、な、なんですか!? 告白!? 最終回!? 心の準備が――!」
つよしは、すずの耳元に顔を寄せた。至近距離。すずの長い睫毛が震え、彼女の肌から甘い香りが漂う。つよしは、自分の心臓がドクンと跳ねるのを感じながら、ありったけの「叱咤激励」を言霊として叩き込んだ。
「……いいか、すず! お前は世界で一番『無駄』だが、その無駄こそが、この退屈な世界を救う最強の武器なんだ! お前の全力を見せてみろ! ……俺が、ずっと見ててやるから!」
「――っ!!」
すずの顔が、耳まで真っ赤に沸騰した。つよしの低い声、首筋に当たる吐息、そして「ずっと見てる」という殺し文句。
彼女の脳内で、何かが音を立てて弾けた。
「……分かりました、先生! 私……やります! 先生が惚れ直すくらい、最高の『無駄』を見せつけます!!」
すずは、屋上の中心へと踊り出た。
彼女は、かつて夏祭りで一度だけ見た、あの踊りを思い出した。今の彼女には、つよしから注がれた熱い魔力が全身に満ち溢れている。
「――やっとさー! あ、やっと、やっと!!」
それは、世界で最も美しい阿波踊りだった。
すらりと伸びた手足が、滑稽なほど激しく、しかし指先まで完璧なフォームで「男踊り」を刻む。絶世の美女が、白目を剥かんばかりの勢いで、腰を落とし、地面を蹴り、激しく袖を振る。
『……ナ、ナニ……!? ……コノ、圧倒的ナ……無駄……!!』
魔獣が困惑し、その巨大な身体を震わせた。
すずの踊りは、止まらない。つよしの視線を全身に浴びているという「ときめき」が、彼女をトランス状態へと導いていた。
「えらいやっちゃ、えらいやっちゃ! ヨイヨイヨイヨイ!! 先生、見ててーーー!!」
美貌と動きのギャップ。シリアスな状況とシュールな踊り。
その、宇宙規模のアンバランスさに、ついに魔獣の「退屈」が限界を迎えた。
『……プッ。……ククッ……。……ハハハハハハ!! 無理! ソレハ、無理ダ!!』
魔獣が、爆笑した。
アメーバ状の身体が波打ち、抱え込んでいた「負のエネルギー」が笑い声と共に霧散していく。
『……アア、面白カッタ。……未来モ、案外、悪クナイカモナ……』
魔獣は、虹色の粒子となって空へと昇っていった。
同時に、校舎全体に立ち込めていた重苦しい霧が晴れ、夕焼けが美しく差し込んだ。
「……はぁ、はぁ。……せん、せい……。……どう、でしたか……?」
踊り終えたすずが、乱れた髪をそのままに、肩で息をしながら振り返った。夕陽を背負った彼女は、汗に濡れた肌が輝き、息を呑むほどに美しかった。
「……ああ。……最高に『無駄』で、最高に格好良かったよ、すず」
つよしは、思わず彼女に歩み寄り、その火照った頬を両手で包み込んだ。
「先生……顔、近いです……。また、蒸気が出ちゃいます……」
「……出せばいい。お前がどんなに『無駄』でも、俺が全部、受け止めてやるからな」
その瞬間、すずは「ふにゃあ……」と力なく笑い、つよしの胸に倒れ込んだ。
「先生……今の言葉、録音しておけば良かったです……。……お姉ちゃんに、自慢しなきゃ……」
「……それはやめろと言ってるだろ」
つよしは苦笑しながら、腕の中の温かい重みを感じていた。
屋上の下からは、正気に戻った生徒たちの「あ、腹減った!」「ラーメン行こうぜ!」という、騒がしくも愛おしい日常の音が聞こえ始めていた。
「……すず。帰りに、お前の好きなあんみつでも食いに行くか」
「……はい!……でも先生、さっきの『受け止めてやる』の続き、もっと詳しく、一晩中聞かせてくださいね!」
「……調子に乗るな、無駄美人」
二人の影が、オレンジ色の屋上に長く伸びる。
退屈な世界を救ったのは、一人の少女の全力の「無駄」と、それを信じた一人の教師の「熱」だった。
エピローグ。
翌日、すずが「先生! 屋上でのプロポーズ、お姉ちゃんに話したら、『じゃあ結婚式は私のプロデュースね!』って、もう式場予約してましたよ!」と全校放送のマイクの前で報告し、つよしが全校生徒の前で膝から崩れ落ちたのは、もはや定例行事であった。




