第5話:夏休み、田舎の空き家にて
ジリジリと肌を焼くような八月の太陽が、山あいの集落を白く染めていた。
つよしは、亡き父が遺した古い日本家屋の前に立ち、重い鍵束をジャラリと鳴らした。
「……はぁ。わざわざ休日に、不法投棄の確認と換気のために片道二時間。教師の夏休みなんて、実質的な無給労働だな」
つよしは教員用ジャージの襟元を掴んでパタパタと仰いだが、熱風が入り込むだけで少しも涼しくない。しかし、その背後からは、暑さを微塵も感じさせない涼やかな声が響く。
「先生! 見てください、あの入道雲! まるで特大のホイップクリームです! 先生、あれを全部食べられたら、私、先生への恋煩いも治るかもしれません!」
「……すず。お前、なぜ当然のような顔で隣にいるんだ」
つよしが振り返ると、そこには「これぞ日本の夏」を体現したような、圧倒的美少女が立っていた。
白いノースリーブのワンピースに、つばの広い麦わら帽子。細い肩から下げたポシェットと、手には「お姉ちゃんに持たされた」という高級なスイカ。黙っていれば、名画から抜け出したヒロインそのものだ。
「当たり前じゃないですか! 先生が一人で山奥の空き家に行くなんて、そんなの『何か事件を起こしてきます』って言ってるようなものです! 私がガードしてあげないと、先生、また鼻血を出して倒れちゃいますよ?」
「……お前が来ること自体が、俺の血圧にとって最大の脅威なんだがな」
つよしは溜息をつき、古い木の扉を開けた。
ひんやりとした、埃と畳の匂いが混ざった空気が流れ出す。二人は誰もいない家の中へと足を踏み入れた。
家の中は、時が止まったように静かだった。
つよしが窓を開けて回る間、すずは「わあぁ、縁側だ! 先生、ここでスイカ食べたら、もう私、お嫁に行かなくていいです!」とはしゃぎ回っていた。
「……お前はまず、進路希望調査票を白紙で出すのをやめろ」
つよしが居間の掃除を始めようとしたその時、すずがピタリと足を止めた。
彼女の「無駄に良い耳」が、風の音に混じった、現世のものではない音を拾い上げた。
「……先生。奥の部屋から、なんだか『シャラシャラ』って、綺麗な鈴の音が聞こえます。……誰かが私を呼んでるみたい」
「……っ、おい、すず! 勝手に行くな!」
つよしの静止を振り切り、すずは吸い寄せられるように廊下の奥へ。
突き当たりの和室の襖を開けた瞬間――つよしの目の前から、すずの姿が消えた。
「すず!!」
つよしが飛び込んだ先は、元の和室ではなかった。
そこは、どこまでも続く真っ赤な彼岸花の草原。空は夕焼けのような茜色に固定され、巨大な柳の木が一本、静かに枝を揺らしている。
現世と隠世の境界が溶け合う「交差点」。古びた空き家が、主を失った寂しさから呼び寄せてしまった異界の裂け目だ。
「すず! どこだ、返事をしろ!」
必死に走るつよしの耳に、柳の木の下から、なんとも暢気な笑い声が聞こえてきた。
「あはは! 皆さん、種飛ばしすぎですよ! ほら、そこのツルツルさん、口の場所がズレてます!」
そこでは、顔に目も鼻もない「のっぺらぼう」の集団に囲まれ、すずが満面の笑みでスイカを振る舞っていた。のっぺらぼうたちは、すずの放つ「美の暴力」と「圧倒的な善意」に完全に毒気を抜かれ、幸せそうに(?)身体を揺らしている。
「……すず! お前、何やってるんだ!」
つよしが駆け寄ると、すずはパッと顔を輝かせ、つよしの腕に抱きついた。
「先生! 助けに来てくれたんですね! 見てください、この人たち、すごくお行儀がいいんですよ。でも、顔がないから表情が分からなくて……先生の説教で、シャキッとさせてあげてください!」
『……センセイ……? ……説教……? ……聞キタイ……』
のっぺらぼうたちが一斉につよしを「見た」。
つよしは、すずの柔らかい体温を腕に感じながら、覚悟を決めた。ここで怯えれば、二人とも帰れなくなる。
「……えぇい、ままよ! いいか、貴様ら! 宴会は結構だが、ここは俺の父が遺した私有地だ! 無断での宴会、および女子高生の拉致は、教育的指導の対象である!」
つよしはジャージのポケットから、清め塩を塗り込んだ「夏休みの宿題一覧表」をバッと広げた。
「第一問! お前たちは自分を何者だと思っている! 顔がないからといって、個性を放棄していいわけがない! 鏡を見て自分と向き合え! 第二問! スイカの種を散らかすな! 片付けまでが遠足だと習わなかったのか!!」
つよしの放つ「大人の正論」と「教師の覇気」が、異界の霧を切り裂いていく。
のっぺらぼうたちは、『……ヒェェッ! 現実が一番怖い!』『……自分磨き、シマス……』と絶叫(すずにしか聞こえない)を上げ、霧と共に消え去っていった。
気がつくと、二人は元の埃っぽい和室に立っていた。
開け放たれた窓からは、先ほどと変わらない蝉時雨が聞こえてくる。
「……ふぅ。全く、お前といると寿命がいくらあっても足りん」
つよしはその場に座り込み、激しく肩で息をした。
すると、すずがそっと隣に座り、つよしの腕を自分の胸元に引き寄せた。
「……先生。かっこよかったです。……あんな怖い人たちの前で、私のために怒ってくれて。……私、もう先生以外の人には、一生耳を貸さないことに決めました」
すずの顔が、至近距離にある。
汗をかいて少し乱れた髪、夕陽を反射する黄金色の瞳。そして、熱を持った吐息。
つよしは、あまりの「ラブラブ」な空気感に、自分の耳まで赤くなるのを感じた。
「……バカか。……教師が、生徒を守るのは……当たり前だ」
「……それだけですか? 『千歳さんの妹だから』じゃない……私自身を見て、助けてくれたんですよね?」
すずが、つよしの目をごまかさないように真っ直ぐに見つめる。
その純粋すぎる想いに、つよしはついに降参した。
「……ああ。……お前がいなくなったら、俺の日常が……無駄に静かすぎて、耐えられそうにないからな」
「――っ! 先生!!」
すずは、つよしの首に腕を回し、力いっぱい抱きついた。
「先生、大好きです! さっきの言葉、録音したかったです! もう一回、今度はもっと甘い声で言ってください!」
「……調子に乗るな! 帰るぞ、アイス買ってやるから!」
「ハーゲンダッツのストロベリーですよ! あ、先生、アイス食べた後に……少しだけ、お昼寝していきませんか? 縁側で、先生に膝枕してあげますから」
「……それは、俺の理性が死ぬから却下だ!」
二人の騒がしい声が、山あいの空き家に響き渡る。
主を失った古い家は、新しく吹き込まれた二人の賑やかな愛の気配に、少しだけ満足そうに床を鳴らした気がした。
帰り道。
「先生、お姉ちゃんに『空き家で、先生に押し倒されちゃった』って報告しておきますね!」
「誤解を招くどころの騒ぎじゃないだろ、やめろ!!」
つよしの怒号と、すずの鈴を転がすような笑い声が、夏の終わりの空へと消えていった。




