第3話:怪しい晩餐
夕暮れ時の住宅街。平和を絵に描いたようなその一角に、鼓膜を震わせる絶叫が響き渡った。
「つよしせんせーーーい! 助けてください! リビングの特等席に、三十年前に他界したはずの曾おじいちゃんが鎮座して、『飯! 飯をよこせ!』って、お茶碗でテーブルを叩いて超高速リズムを刻んでるんです!!」
放課後の職員室。残務処理の書類を整理していたつよしは、本日何度目か分からない深い、魂が半分くらい口から漏れそうな溜息を吐き出した。隣の席のベテラン教師が「……また、すずさんだね。君、もう彼女の家族みたいなもんだな」と、生温かい目で見守っている。
「……すず。お前の家は確か、最新の防犯システムを備えた新築の一軒家だろう。なぜそんなに頻繁に、成仏しきれていないご先祖様がリビングに不法侵入して、ライブパフォーマンスを始めるんだ」
「分かりません! でも、今日の曾おじいちゃん、死後最大級に空腹みたいで、家のWi-Fiの電波をパクパク食べてるんです! このままだと私、お姉ちゃんの最新動画をチェックできません!」
つよしは、眼鏡のブリッジを指の腹で強く押し込んだ。
すずの言う「曾おじいちゃん」が、単なる空耳ではないことを彼は知っている。彼女の研ぎ澄まされた聴覚「聴凝」は、現世と隠世の境界線を曖昧にする。彼女が「居る」と言えば、そこには確実に何かが「存在」するのだ。
「……分かった。お前の姉さんに変な心配をかけるわけにもいかないし、俺の家のWi-Fiにまで影響が出たら堪らんからな。俺が行く」
「やったぁ! さすがつよし先生、世界で一番頼りになります! 曾おじいちゃんも、きっと先生の説教をメインディッシュに待ってますよ!」
つよしは、重い腰を上げた。
すずの家に着くと、リビングには確かに「異様な気配」が渦巻いていた。
すずが指差す椅子の上には、薄ぼんやりとした老人の輪郭が浮かび、カタカタと空の茶碗を鳴らしながら、何やらブツブツと文句を垂れている。
『……飯……。……ハイカラな、あの……とろっとして、濃厚な……熱いやつが食いたい……』
「先生、聞こえますか? 曾おじいちゃん、『とろっとした罪深い味をよこせ』って、重低音で振動してます! グラタンですか? それとも最新の背徳グルメですか!?」
「……聞こえんが、状況は分かった。要するに、食い溜めた未練がこの世に繋ぎ止めてるんだな。しかも、現代のグルメにまで色気を出してやがる」
つよしは、おもむろにスーツの上着を脱ぎ捨てた。そして、すずの家のキッチンに掛かっていた、フリルとリボンが過剰にあしらわれたエプロン――間違いなく、憧れの千歳(姉)のものだ――を、無心で、しかし敬虔な手つきで身に付けた。
「せ、先生……? その姿、無駄に似合いすぎてて、私の胸の動悸が止まりません。新妻のコスプレをした最強の用心棒みたい……」
「うるさい。黙っていろ。……すず、卵と牛乳、それから厚切りの食パンはあるか?」
「えっ、あ、はい! お姉ちゃんが朝食用に買ってきた、一枚三百円もする高級なやつが!」
つよしは手際よくコンロに火をつけた。
教師としての威厳はどこへやら、今の彼は完全に「愛する者の胃袋を掴みにきた男」の目つきをしていた。
「いいか、すず。未練を残した霊を成仏させるのは、お札でも祈祷でもない。この世の進化を胃袋で分からせる『納得感』だ。特に、この世代の仏さんは、洋風の『とろふわ』の暴力に弱い」
つよしが作ったのは、バターを贅沢に使い、卵液にじっくり漬け込んでから表面をキャラメリゼした、厚切りフレンチトーストだった。仕上げにバニラアイスを乗せ、メイプルシロップをこれでもかと回しがけ、粉糖を雪のように散らす。
「……さあ、食え。曾おじいさん。令和の甘味は、あんたの時代の想像を軽々と超えていくぞ」
つよしが皿をテーブルに置いた瞬間、リビングの空気が一変した。
老人の霊が、震える手でフォークを取る(ように見えた)。すずには、その老人が目を見開き、口いっぱいにフレンチトーストを詰め込み、天を仰いで溶けていく姿がはっきりと見えていた。
『……あま……っ! なんだこれは、お花畑を食べているようじゃ……! 幸せすぎて、もう思い残すことは……何もない……』
「先生! 曾おじいちゃんが黄金色に発光してます! 『この甘さ、極楽浄土より極楽だ……』って言いながら、透き通ってきました!」
つよしは、フリルエプロン姿のまま、腕組みをしてその光景を見守った。
「そうか。なら、もう思い残すことはないだろう。……あっちへ行ったら、ちゃんとお前を待ってる婆さんに、この美味いトーストの話でもしてやれ。二度と他人のWi-Fiを食うなよ」
老人の姿が、光の粒子となって消えていく。
最後に、すずの耳には『……達者でな、エプロン姿の男前な旦那……』という、柔らかな囁きが届いた。
静寂が戻ったリビング。
異界の気配は消え、そこにはただ、甘いバターの香りと、エプロン姿で少し疲れた顔のつよし、そして感動で瞳を潤ませているすずが残された。
「……終わったな。さあ、残りを食え。お前も腹が減ってるだろう」
「先生……!」
すずは、我慢できずにエプロン姿のつよしの胸に飛び込んだ。
「ひゃっ、おい! すず!」
「先生……私、改めて確信しました。先生は、世界一のお嫁さん候補……じゃなくて、世界一かっこいい私のヒーローです! 曾おじいちゃんも、最後に先生のこと『男前な旦那』って言ってましたよ!」
「……だ、旦那だと!? あのクソジジイ、適当なことを……」
つよしは顔を真っ赤にして視線を逸らしたが、抱きついてくるすずを突き放すことはできなかった。その、柔らかい感触と、メイプルシロップのような甘い香りが、つよしの理性を猛烈に削り取る。
「先生……私、将来、先生が作ってくれるご飯を毎日食べられるなら、異世界の王子様の側室なんて、一億回断ります!」
「当たり前だ、あんな奴にやるか。……それより、顔が近い。離れろと言っているだろう」
「嫌です! 曾おじいちゃんもいなくなったし、お姉ちゃんもまだ帰ってこないし……今は、先生を独占させてください」
すずは、持ち前の無駄に美しい顔を最大限に活用し、つよしを見つめてニコリと笑った。
「先生……私の心臓の音、聞こえますか? 今、曾おじいちゃんの茶碗叩きより、ずっと激しいリズムを刻んでるんですよ?」
「……知らん。俺の心音の方がうるさくて、お前の音なんて聞こえん」
つよしは吐き捨てるように言ったが、それは彼なりの、最大級の告白に近い言葉だった。
二人は、甘い香りが漂うリビングで、いつまでも寄り添っていた。
翌日。
学校に来たすずが、「先生! 昨日のお礼に、お姉ちゃんから『今度は三人で、パジャマ姿でフレンチトーストパーティーしませんか?』ってビデオメッセージです!」と、全校生徒の前で大音量で再生し、つよしが全校教職員から「破廉恥な!」と吊し上げられたのは、また別の話である。




