2-8
「ああ……」
授業が終わり、人がまばらに去っていく。もちろんアリーチェもとっくに行ってしまっている。リサは元気のない顔で、言葉にならない声を漏らした。
(お家に帰りたい——)
いつからそう思うようになったのだろう。いずれにしても、日に日にその思いは強くなってきている。
ホームシックに落ち込んでいるリサに、声をかける人はいない。ここは個人主義の強い場所なのだ。
ドリレウムにいたときは、リサが落ち込んでいると近所の人が声をかけてくれたし、喜んでいる時もそうだった。ドリレウムにいたときは、こんなに孤独に苦しむことはなかった。家にはお母さんも、お父さんもいた。それが当たり前だと思って、心のどこかで煩わしいと思っていたお母さんが、今はとてつもなく恋しい。
(ノーヴさんはどうしてあたしを学園に入れたの? どうしてあたしは学園位入りたいって思ったのかな。そう、行きたいって言ったのはあたしなのに——)
リサは人柄の良いノーヴを責める勇気を持てず、かわりに自分を責める。お部屋に帰ってレレムに相談すれば、慰めてくれるかもしれない。それで一時気が紛れたような気になれるかもしれない。でも、慰めてくれたって、解決にはならない。
沈んだ気持ちのまま、リサは席からも立ち上がれずにいた。まだ無意識に誰かが声をかけてくれないかなと期待しているらしかった。けれども答える人はいない。一人きりに取り残された教室で、重い腰を上げると、鞄を背負う。
窓からは、分厚い雲がかかって、灰色の空が反射している。何もかもがどんよりしていて、憂鬱で、陰気なように見えた。最近ずっと、こんな気分でいる気がする。
リサは、そのガラス窓を振り返ってみてみると、何か黄色いものが、下に引っ込んでいったのを見てしまった。
それは人間の頭だった。
(誰——!?)
目を見開き、バット窓の向こう側を見ると、しゃがみ込む男子生徒のつむじが見えた。
(何この人)
男子はバレていないと思ったらしく、そっと顔をあげたが、リサと視線が合うと、ばつの悪そうな表情へとみるみる変わっていく。
「やあ」
と口パクで返事をしてくる。その顔に見覚えがあった。
この前アリーチェのお母さんをガン見していた人だ。
(この人が隠れたってことは、今の今まで窓に張り付いて、あたしをガン見してたってこと?)
その、あまりにも不可解な事実に、リサは内心引きながら、ショックを受けた。
金髪男子は開き直って立ち上がると、窓を開けてくれとジェスチャーする。
「えーっと……」
これは開けた方がいいのだろうか。それとも逃げた方がいいのだろうか。「知らない人について行っちゃダメよ」ってノーヴさんが初対面の時に微笑みながら言っていたのを、思い出す。
迷っていたが、懇願ジェスチャーに押し負けて、リサは鍵を外して開けた。
「どうしたの?」
「なあ、あの、アリーチェっていうやつと仲、良いのか」
金髪はしどろもどろに聞いてくる。いきなり言われて、リサは戸惑った。
(アリーチェ……でも、喧嘩しちゃったし、結局仲直りできていないし、でもどう説明すればいいんだろ)
リサが返答に窮していると、金髪は手に持っていた白封筒を突き出す。
「これを渡してくれ」
その時の表情をあまりにも必死だったので、
(もしかして、ラブレター!?)
とリサは想像してしまった。
「…………好きなの?」
「ち、違う違う。オレに限ってそんなことないだろーって、あはは。だけど、頼むよな、この通り、お願いだから」
と、半ば強引に押し付けられ、リサは受け取ってしまった。そこまでお願いされると受け取らないのは悪いことのように思えた。
「ええっと、なんて言ったら……」
「グリンスってやつが渡してくれって言ってた、でいいよ。ともかくさ、頼むよ。渡すだけだからさ。じゃ、よろしく」
と言い終わるや否や、風のようにさっていく。
「……どうしよ」
変なものを押し付けられた。ラブレターだったら……いや、そうじゃなくても、私が渡せるかな、とリサは不安に襲われる。
(そもそも何で、直接渡さないのかな?)
でも、自分がその立場だったら、なんとなくわかるような気がする、とリサは思った。
(だってアリーチェ、怖いもん)
リサは一人で共感して頷く。
……立ち止まっていても、何も進まない。
「行かなきゃ、だよね」
今は放課後。アリーチェは寄宿舎に帰っているはずだ。
もう一度あの部屋のドアを叩く。
そのハードルの高さに、リサは身震いした。運良くアリーチェがいなくて、いつも優しい感じのヨヴェッタに頼めたらいいな、と思ってしまう。
(でも、もしかしたらアリーチェと、ほんとに仲直りできるきっかけになるかもしれないじゃない)
そうやって自分の気持ちを励ますと、リサは全身の勇気を集めて、教室に飛び出す。
飛び出したのはよかったものの。
「きゃ!?」
「——おっと、失礼」
リサは前が見えていなかった。決意した分だけ、通りすがった人に、大きくぶつかってしまった。
「ごめんなさい!」
お互いによろけたが、転ばずには済んだらしい。相手は黒っぽい服装をした、長身の男性だった。
「こちらこそ」
と、ぶっきらぼうに言った後、その人は早足で行ってしまった。急ぎの用事があるのかもしれない。
(ああ、ごめんなさい)
リサは飛び出したことに後悔しながら、トボトボ歩いた。
(せっかく預かったお手紙がくしゃくしゃになっちゃったら——)
「あれ?」
リサは不意に声を上げた。そもそも、その手紙というものが、手元になくなっている。
カバンにしまっちゃったかなと探し、落としちゃったかなと思って引き返すが、忽然として消えてなくなっていた。
「そんな……」
絶望に近い呟きが漏れる。何度確認してみても、ないものはない。
リサは一つの推論に辿り着いた。
——もしかして、さっきの人の服に引っ掛かっちゃった!?
あーどうしよ、えーどうしよ、と右往左往していると、たまたま向かいからむっつりと無愛想なべヤードが、片手にポケットを突っ込みながら歩いてきた。アリーチェと口喧嘩して怒らせ、さらに懲りずに口喧嘩して、退学騒ぎで反省文まで書かされていた、ちょっと怖い人だ。そのことについては、被害者なのか加害者なのかわからないけど。
アリーチェと一緒に、私のことも嫌っていたらどうしよう。
でも、聞いてみたらわかるかも、と勇気を出す。
「ね、ねえ」
リサは自分の声が震えているのを全身から感じ取りながら、話すことに集中しようとした。
「さっき、あの、向こうに行った人見てない? 黒い服を着てて、背が高くて……」
「知らねえな」
「そ、そっか……」
しょんぼりとした落ち込んだ雰囲気が、本人の自覚なく全身から漂い始めると、
「なんだ、何かあったのか?」
流石に女心のわからないべヤードにも、ただ事ならぬものを感じたらしい。べヤードはそう聞いた。
リサは相手が異性ということだけで、意味もなくドキドキしてしまった。ドキドキしながら、たどたどしい説明をした。話しているうちに、自分でも何を言っているのかわからなくなった。しかもべヤードの反応が鈍いので、いたたまれなくなって、話すのを放棄したくなったけど、諦めたらおしまいだと思って、最後まで言い切る。
「それ、引っ掛かったんじゃなくて、盗まれたんじゃないか?」
「へ?」
推論が浮かぶほど、しっかり聞いていたんだとわかって、リサは驚いてしまった。
「大事な手紙なら、盗んで冷やかしたい奴もいいるかもしれないぜ?」
(……そんな社会だっけ、ここ)
さっきの人がそんな酷いことをするようには見えない。急いでいるみたいだったし、それとも急いでいるふりをしていただけだったのだろうか。
リサがポカンとしていると、べヤードは面倒くさそうに声を苛立たせた。
「こののろまが。どっちに行ったんだそいつは」
「えっと、あっち……」
リサは庭園を挟んで奥にある校舎を指差した。2年生以降の人が使っている校舎だ。リサはこの学園に来ていながら、まだ一回も入ったことがなかった。
べヤードはその校舎とリサを見比べる。迷子の子猫のように不安そうに見てくる青い瞳と目が合うと、どうやら「こいつ一人じゃ、あそこは無理だ」という結論が出たらしい。
「はあ。じゃあ行くぞ」
「え?」
二度も言わずにスタスタと歩き始める。
(行くってどういう……)
状況が掴めずリサは戸惑った。いつまで経ってもリサが動かないので、べヤードは剛を煮やして振り返る。
「早く来いよ、のろま」
「は、はい」
慌てて足を踏み出してから、やっと手伝ってくれるらしいと理解できた。
でもどうして……意外と良い人なのかもしれない。
(それなら、のろまなんて言わないでほしいなあ)
と思ったけど、いつものことながらそれを訴える勇気は出なかった。




