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002 暴れん坊にして きかん棒

 おともだちパンチをご存じだろうか?


 俺が敬愛して止まない大作家・森見登美彦先生の小説「夜は短し歩けよ乙女」主人公である黒髪の乙女が、お姉さんから伝授されたという親指を四本指と愛で外側からくるみ込み、まるで招き猫のような愛くるしさで、暴力の連鎖と大和撫子の清楚さを守り抜く必殺技の事である。


 そっと潜ませる親指が体現する愛は、まるで鬼子母神のようであると言えるだろうが、拳を親指できつくくるみ込み、鉄拳の名の如く堅く握り混んだ拳をキレキレな体の回転と、乗せてきた体重を、フルスイングで俺の左頬に叩き込んだ篠崎マリの拳に対し、俺は愛を感じる事など出来るはずもない。


 まさに悪鬼羅刹の如しである。


 暗黒の闇の中にきらめく星々が見えて、一瞬にして崩れ落ちそうになりながらも俺は篠崎マリに抗議した。


 「……な、何を?」


 彼女はぺろっと舌を出し、まるで悪びれずに言うのである。


 「ショック療法的な? どうかな、何か思い出した?」


 まぁ、確かに彼女に悪気はないのだろう。

 

 しかし、それはそれでタチが悪いと言うしかない。 


 むしろ災害、人災の類である。

 

 「あのなぁ、俺が事故にあって目覚めてから、記憶喪失であると解って以来、ずっと治療を受けてきたんだよ。素人の思いつきのような鉄拳制裁で、記憶が戻るならとっくの昔に戻っているはずだ」


 「それもそうか。失礼、勇み足でした。いや、むしろ勇み拳?」


 「どうでもいい。そんな事より、記憶を無くす前の俺はどんな奴だった?」


 俺がそう聞くと、彼女は少し哀しそうな顔をして、本当に記憶がないんだ、バカじゃないと言ってから、昔話を始めたのだった。


 


 中学二年生だった六月のある日、俺は霧雨が降る林の中で倒れていたらしい。


 理由は今となっては理由はわからないのだけれども、前の日から俺は家に帰っておらず、心配した両親が警察に捜索願を出したのは午後十時を過ぎてからの事だった。


 別に俺がグレていたとか、深夜徘徊が趣味だったとか、無断外泊を繰り返していたと言う事はないらしく、本当に突然の事だったそうだ。

 

 警察や学校の教師、PTAの人々が夜通しで街中を探し回り、最期に目撃された自宅近くのコンビニから数キロ離れた自然公園の林の中で翌朝俺は発見された。


 意識はなかったのだけれども、目立った外傷や疾病も担ぎ込まれた病院で確認される事もなく、後は意識の回復を待つのみとなってから三日後に俺は意識を取り戻したわけだが、それ以前の事は覚えておらず、両親の事も自分の名前さえも覚えていなかった。


 ただ、知識と呼べるものは幸いにして覚えていて、箸の使い方や家電製品の存在に使い方、公共の移動手段の使用方法など、自分の思い出と呼べるもの以外は生活に支障のないレベルで残っていたのである。

 

 それでも、自分が誰であるかと言う事が解らないという事や、親が身内であるという事が解らないという事は将来に対する不安という事で残っていたし、親の方も他人行儀でよそよそしく、いつまでも敬語で話す息子との距離感の掴め無さにストレスを貯めていったのかも知れない。

 

 ほどなくして、学校にも通うようになった。


 クラスメイトは俺の状況というものを担任から聞かされており、気を使って接してくれていたが、自分は知らないけど、相手は自分を知っていて気を使ってくれていると言う状況に、俺は疲れてしまっていた。


 俺は部屋に閉じこもるようになり、学校へも行けなくなっていたのである。


 そんな時に声をかけてくれたのは父親の兄の長男である、従兄弟の靖史さんだった。


 物書きの仕事をしていて、今はネットがあるからと田舎に一軒家を借りて、一人で暮らしているので、部屋は空いているから、気分転換のつもりでしばらくの間こっちに住んでみないかといってくれた。


 最初から誰も自分の事を知らず、自分も相手の事を知らない場所ならば、やっていけそうな気がしたのだった。


 と言うわけで、俺は高校入学と同時に、山と畑しかないこの町にやって来て暮らし始めたのである。


 同居人の靖史さんは俺が高校に入学したと同時に、何とかという賞を貰ったとかで仕事が忙しくなった。


 その為に、上京してホテルに缶詰になっている事が多くなって、原稿が上がると数日だけ帰ってきて、また上京していくという日々が多くなり、今ではほとんど一人で暮らす時間が多くなっていた。


 それはそれで、俺の心の負担を減らしてくれている気がする。


 


 「……と言うわけで、前の斑目恭一郎君はそれはもうボクにぞっこんで、神の如くボクを崇めていてくれたわけなのだ」


 帰るのに教室に鞄を取りに戻り、校舎を後にする頃には陽がだいぶ傾いていて、雨が静かに降り始めていた。

 

 濡れたアスファルトが夕陽のオレンジ色を反射していて、まるで世界が黄金のように輝いて見える。


 そんな幻想的な景色の中、傘を忘れたという篠崎マリは、俺が広げた傘の中に入り、ずっと以前の俺がどんな人間だったかと言う事を得意げに話し続けている。


 廻りから見れば仲の良いカップルがいっちゃついているように見えるかも知れず、現に爆発しろ!! と悪意のある涙目の眼差しで叫びながら俺たちの横を走り抜けていったのは、俺のクラスメイトである山本で、舌打ちをしただけなのは志賀崎だった。


 「嘘だ」


 「嘘じゃないよ、本当だよう?ボクが宇宙人だとキミにだけ初めて言った時だって、すぐに信じてくれたんだから。それからボクらの距離は急接近していく事になるんだよ? To Be Continued だよ」


 そう言って、口元がふふふと小さく笑ったのを俺は見逃さなかった。


 絶対に嘘だ。

 

 「だいたいその宇宙人ってのはなんなんだ? 地球人だって、大まかに言えば宇宙人だろう。それで言うなら俺も宇宙人と言う事になって、俺とキミの違いは無くなってしまうじゃないか?」


 篠崎マリは右手の人差し指を立ててフリながら言う。


 「今のキミはまるで解ってないね。肝心なのはハートだよ?」


 「わかんないよ」


 「まぁ、焦る事もないさ。記憶を無くす前のキミは理解していたのだから。だからボクらは蜜月を過ごし、ボクが新たなる任務を与えられてキミと過ごした地を去らなければならなかった時は永遠などと言うものなど存在しないとは理解しつつも、別れを惜しんでその身をを重ねたのさ。

キミの暴れん坊にして、きかん坊にして、如意棒は荒々しくもボクの前に立ちふさがり、うね廻る大鰻は、誰の進入も許していなかった小さな秘裂に捻り込んで来たのだよ。ボクはまだ少女であり、熟れた女性のようにはなかなか濡れるものでもないから、キミのモノを受け入れるにはとても苦労したものさ。されど、ボクらにとっては最早今生の別れとも言える最期の時であるから、ボクは破瓜の苦痛に涙ながらに耐えたと言うのに、キミはそんな二人の時さえ忘れたという。あんなにボクの中へ白濁させた生命のサンプルを注ぎ込んでくれたというのに。ボクはあの命の暖かさを忘れてないゾ?」


 顔を紅潮させながら、生き生きとして独白する篠崎の後頭部に、俺は激しくツッコミを入れたのだった。


 黄金色の街並みに不似合いな、乾いた音が響き渡る。

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