第4話 戒名、童子切弘宗
——獅子王和茶視点
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戒名、童子切弘宗。
……うむ。
改めて口にしてみると、なかなか悪くない響きである。
名というものは大事だ。人も神も、名前ひとつで立ち姿が変わる。そこらの木の枝を「霊木」と呼べばありがたみが出るし、ただの山道を「参道」と呼べば急に厳かな雰囲気を纏い始める。現世の者どもは形ばかりを重んじているようでいて、実際のところそういう“呼び名”にめっぽう弱い。名を与え、意味を持たせ、そこへ願いや恐れを流し込むことで、人はようやく「これは特別なものなのだ」と理解できるようになる。
神もまた同じだ。
いや、もっと面倒くさい。
人間は生まれた時点で人間として存在できる。赤子はそこに寝かされているだけで赤子だ。泣こうが騒ごうが乳を吐こうが、放っておいても「人間」として扱われる。羨ましい話である。神はそうはいかない。神として名を呼ばれ、神として祀られ、神として意味を持たされて初めて、この世に留まるだけの輪郭を持てる。信仰とは、言い換えれば輪郭の補強だ。祈りがなければ薄れる。忘れられれば消える。賽銭の額に露骨なほど機嫌が左右されるのは、別に私が俗っぽいわけではない。いや、俗っぽいところが全くないとは言わんが、本質的にはもっと深刻な話なのだ。神にとって賽銭とは小銭であり、小銭でありながら、信仰の重みそのものでもある。
その信仰の細い細い糸を、今の私に繋いでいるのが赤羽ヒロだった。
あの小僧がいなければ、私はとうの昔に廃神社の無名神へ転げ落ちていたはずである。
無名神、という響きは実に侘しい。
神号を持ちながら呼ばれず、社を持ちながら人に訪れられず、存在しているくせに存在を必要とされない。現世に足を留めるための楔が抜けかけた神など、川辺に打ち上げられて乾ききった魚みたいなものだ。見た目だけはまだ“そこにいる”が、少しずつ鱗が剥がれ、呼吸もできず、誰にも拾われないまま土へ還るしかなくなる。神というと、人は何でもできる便利な超常存在のように思いたがるものの、実際のところは案外か細い仕組みで立っている。土台が崩れれば落ちる。社が荒れれば力が痩せる。参拝が絶えれば、気配は薄れる。
私の神社など、出会った頃には本当に酷い有様だった。
草は伸びる。苔は増える。賽銭箱は乾いた葉っぱの収集箱になっている。手水舎は空っぽ。蜘蛛どもは好き放題に巣を張り、拝殿の端では小さな蛇まで昼寝をしていた。神域の空気だけは何とか保っていたものの、正直に言えば、あれは“神社”というより“山に飲まれかけている木造物件”である。人間というのは不思議なもので、立派な社には頭を下げるくせに、荒れた社を見ると急に見て見ぬふりを始める。神聖さというやつを、ずいぶんと見た目で判断するものだ。
そんな場所へ、ひょろひょろと現れたのがヒロだった。
まだ小さかった。今よりもっと細く、もっと頼りなく、目だけが妙に落ち着かなかった。迷子の子犬のようにおどおどしているくせに、内側には頑固な芯みたいなものが一本通っていて、ああいう手合いは面倒だなと、ひと目見た時点で思った記憶がある。すぐ泣きついてくる子供の方が扱いやすい。慰めてやれば満足するし、守ってやれば懐く。その点、ヒロは捻くれていた。神を信じるつもりもないくせに神社へ通い、助けを乞うている自分を恥じるように口を引き結び、何も持たずに手だけ合わせて帰ろうとする。祈り慣れていないくせに祈っている人間特有のぎこちなさが全身から漂っていた。
あの時、私は本当に困っていたのである。
人手が欲しかった。
信仰も欲しかった。
ついでに言えば、話し相手も欲しかった。
……いや、最後のやつは今言わなくてもよかったかもしれん。神たるもの孤高であるべきという考え方もあるし、四六時中ぺちゃくちゃ喋る必要など本来ない。ないのだが、山の中の神社に一人で居続けるのは、想像している以上に暇なのだ。風は吹く。鳥は鳴く。虫はうるさい。季節は巡る。毎日それを見ていると、こちらも少しくらいは変化が欲しくなる。
そこで見つけたのが、赤羽ヒロ。
当時の私は、あれを“使えるかもしれん小僧”くらいにしか思っていなかった。
見込み違いだった部分は多い。
あまりにも多い。
それでも今こうして六年近く連れ歩いているのだから、人の縁というのは本当にわからん。
神と契約を交わし、神器として従えるようになった者は、皆、新たな名を与えられる。
戒名。
現世で使っていた俗名を、そのまま神の側へ持ち込むことはできない。人としての名には人としての時間が染みついている。生まれ、育ち、呼ばれ、叱られ、褒められ、恥をかき、恋をし、そういう積み重ねが一文字一文字にこびりついている。神器になる者は、その時間を完全に捨てるわけではないにせよ、神の側へ踏み込む以上、新しい役目に沿った名が必要になる。俗名から一文字、経典から一文字、それを基礎として名を組み替え、神の力と結びつける。
赤羽ヒロに与えた戒名が、童子切弘宗。
“弘”は俗名から取った。
“宗”は教えの根、道の中枢、そのあたりの意味を込めて引いた文字だ。
“童子切”の方は、少々見栄を張った。
いや、少々ではないな。だいぶ張った。
名刀というものは名前からして強そうでなければならん。どうせ与えるなら、格好のつく名前を持たせたい。小僧に似合うかどうかは一旦脇へ置いておくとして、武器に名を与える時の私は、そのくらいの遊び心を許されてしかるべきだと思っている。
本人は最初、「なんで刀みたいな名前なんだよ」と不満そうだった。
理由は単純だ。
神器になる者は皆、“日本刀”として神の力を宿すからである。
槍のような性質を持つ者もいれば、薙刀向きの者もいる。鉈みたいに無骨な者もいるし、薄刃のように鋭い者もいる。人としての性質、魂の癖、神との相性、扱う力の方向性、その辺りを総合して決まっていく。ヒロは刀だった。あれこれ試した末に、結局いちばんしっくりきたのが刀だった。構えた時の重心、振り抜く時の癖、風の力との噛み合い方、それらを見ていけば納得ではある。
問題は、その刀がひどく鈍だったことである。
ひどいものだったぞ、最初の頃は。
本当に。
いくら鍛えても、悪霊を一体切ればへろへろになり、刃は欠けるし足は震えるし、挙げ句の果てには「今のは本当に切らなきゃいけなかったのか?」などと聞いてくる。戦場で倫理の授業を始めるな。こちらは人道教育の教科書ではないのだ。斬るべきものがそこにいて、放置すれば人が死ぬ、それで十分だろうと言っても、あの小僧はすぐ顔を曇らせる。人が優しいのは結構なことだ。優しさが全くない人間は、いずれ自分を見失う。ところが、刀に求められる資質としては少々困る。切るべき時に切れない刃物など、料理包丁ですら失格だ。
切れ味も悪かった。
悪霊に刃を入れても、すぱっと通らずに引っかかる。
想像してみろ。こちらが「そこだ、振り切れ!」と命じ、ヒロが必死の形相で刀身を振るい、ようやく入ったと思ったら途中でぐにゃりと勢いが鈍って、「うわ、固っ……!」とか情けない声を上げるのである。悪霊もびっくりだろう。恐怖より先に困惑が来るに違いない。戦いの最中に笑わせるなと言いたくなる場面が、当時は山ほどあった。
一度など、低級の瘴気霊を斬ろうとして、逆に押し返されていた。
押し返される刀とはなんだ。
こちらの神威が乗っているくせに、相手の粘ついた瘴気に負けるとはどういうことだ。人としての根本が優しすぎる。刃になってもなお、「切る」という行為そのものに躊躇いがある。神の側から力を流してやっているのに、受け取る器の方が妙な遠慮をするものだから、切断の意志が最後まで走り切らないのである。
「お前は刀だ。刃物だ。切るためにそこにある」
そう何度言ったかわからん。
「人を切るわけじゃないだろ」
「悪霊だろうが魔物だろうが、切るものは切る」
「それでも“斬る”って感覚が嫌なんだよ」
「嫌かどうかで仕事を選べる立場か?」
私がそう言うと、ヒロはだいたい眉を寄せて黙る。
ああいう顔をする時は、大抵まだ納得していない。納得していないくせに引き下がるから腹が立つ。納得できないならできないで、もっと食ってかかればよいものを、あの小僧は自分の中に落とし込めないものを抱えたまま、ぐずぐずと引きずる癖がある。面倒くさい性格だ。面倒くさいが、そういうところがあるから完全に冷たい刃にはなりきれないのだろう。
刀としての頑丈さは平均程度。
柔軟性も、まあ平均。
使い回しの良さはそこそこ。
小回りはいまひとつ。
重量は少し重め。
切断力はようやく人並みの域に足をかけたくらい。
総合評価をつけるなら、「鍛えればどうにかなる凡作」である。
……いや、ここで私が厳しいことを書いているからといって、全く使えないというわけではないのだぞ。凡作は凡作なりに、扱い方次第で十分戦える。最初の最初、柄の握り方も怪しい時期に比べれば、今のヒロは見違えるようにましになった。足運びは安定してきたし、私の指示を聞きながら視線を切り替えるのも上達した。悪霊の気配に腰を抜かしていた頃を思えば、ずいぶんな進歩である。
幼かったから仕方のない部分もあった。
最初に悪霊を見た時のヒロは、実にわかりやすく怯えていた。
目は見開く。喉はひくつく。足が一歩引ける。息が止まる。
人間としては正しい反応だろう。得体の知れないものが目の前に現れれば、怖いに決まっている。しかも小僧はそれまで、神どころか幽霊じみたものさえ本気で信じていなかった。信じていない世界の存在に、ある日いきなり顔を覗き込まれたら、そりゃあ足もすくむ。
ところが、そこで私が手加減してやるほど甘くもない。
怖がっているから今日は帰ろう、などという慈悲を発揮していたら、この仕事は回らん。悪霊は都合よく待ってくれないし、神域の外へ出れば私一人では手が足りない。契約した以上、使えるようになってもらわねば困るのである。
「前へ出ろ」
「無理だって!」
「無理かどうかを決めるのは私だ」
「勝手すぎるだろ!」
「契約とはそういうものだ」
今思い返しても、なかなか良い教育を施したと思う。
泣きそうな顔で刀身を握り、膝を震わせながら、それでも逃げずに前へ出た時のヒロは、少しだけ見直した。あの小僧、情けない顔をするわりには、最後の最後で逃げきらない。腰が引けているのに、見捨てることはしない。嫌だと言いながら付き合う。文句を言いながら手を貸す。理屈をこねるくせに、肝心な場面では体が先に動く。ああいうのは損な性格だ。もっと器用に見捨てれば、自分だけ楽をできるだろうに、それができん。
おかげで私は助かっているのだから、文句を言う筋合いもないか。
いや、文句は言う。
助かっていることと腹が立つことは両立する。
むしろ身近にいればいるほど、細かい欠点は目につくものだ。口は減らないし、神に向かって遠慮がないし、ちょっと私が眠っていれば「神のくせに寝るのか」とか何とかぶつぶつ言い始める。寝るに決まっているだろう。神だからって二十四時間労働を強いられていたらたまったものではない。風を読むのも神域を維持するのも、案外消耗するのだ。人間というやつは、自分たちが寝食をすることには寛容なくせに、神が少しだらけているのを見るとすぐに品性だの威厳だの言い始める。大きなお世話である。
成長した点もある。
口の利き方が実に生意気になった。
出会った当初は、もっとこう、敬意と警戒が混ざったような喋り方をしていた。「き、君は……?」だの、「それって本当に……」だの、語尾に迷いがついて回る情けない口調で、こちらを刺激しないよう慎重に言葉を選んでいたものだ。それが今ではどうだ。「お前」だの「こいつ」だの、あろうことか契約主である私に向かって平然と使うようになってしまった。教育に失敗したのか、それとも順調に慣れが進みすぎたのか、判別に困るところである。
「神なんだからもうちょっとこう、ありがたい感じ出せよ」
「ありがたい感じとはなんだ」
「荘厳さとか、神々しさとか、圧倒的神性とか……」
「私のどこに不足がある」
「金にがめついところと、アニメ見ながら寝落ちるところ」
「現代社会への適応だ」
「便利な言い訳だな」
こういう会話を聞いていると、もし他の神が近くにいたら卒倒するかもしれんな、とたまに思う。神と神器の会話として、あまりにも緊張感がない。主従というより腐れ縁の悪友に近い空気になっている時すらある。あるのだが、戦闘に入ればきちんと切り替わる。その線引きができるなら、普段の無礼もある程度は目を瞑ってやらねばならん。寛容さもまた、上に立つ者の資質だからな。
出会ってもうすぐ六年。
長いようで短い。
人間の成長速度というのは、見ていて妙な気分になる。昨日まで鼻をすすっていたような小僧が、気づけば背丈を伸ばし、声変わりをし、筋肉のつき方まで変わっていく。食べる量も増えた。文句の量も増えた。恋愛への興味など、目を覆いたくなる勢いで増えた。男というものは、ろくに毛も生え揃わんうちから頭の中を桃色に染め始めるから見苦しい。私は人の思考を共有できる場面があるせいで、その手のくだらん妄想まで流れ込んでくる。被害者はむしろ私の方ではないかと思うことが多々ある。
深夜にうとうとしていれば、突然「先輩の横顔が綺麗だった」とか「手が触れたらどうしよう」とか、そんな甘ったれた思考が漂ってくる。
知らん。
そんなものをわざわざ私に共有するな。
神域の浄化より先に、お前の頭の中を祓ってやろうかと何度思ったかわからん。
こやつは本当に幼稚で困る。
恋だの愛だのにうつつを抜かし、ちょっと優しくされれば舞い上がり、少しそっけなくされれば世界の終わりみたいな顔をする。お前は天候か。風向きひとつで機嫌を変えるな。いや、風向きに敏感なのは私の加護の影響かもしれんから、一概には言えんな……いや、そんなはずはないな。単に小僧が青いだけである。
色々と経験をさせてやらねばならん。
悪霊退治もそうだ。神と人の関わりもそうだ。もっと言えば、自分が何者で、何を選び、何を守りたいのか、そのあたりを考える年頃でもある。神器になる者は、武器として振るわれるだけでは育たない。振るわれる意味を、自分の内側で掴まねばならん。人間のまま終わるなら、人間なりの浅さで済ませてもよかったのかもしれん。神と契約し、こちら側へ片足を踏み入れてしまった以上、そんな半端では困る。
ヒロは、その意味ではまだまだ足りん。
足りんくせに、時折妙に勘が鋭い。
筆を持たせれば集中するし、線を見る目は悪くない。構図を読むように敵の動線を追う場面もある。ぐずぐず理屈をこねる頭は面倒だが、一度腹を括れば吸収は早い。私の風と合わせた時の呼吸も、最初に比べればかなり安定した。器としての素質は、決して低くない。最初の見立てで「平凡」と切り捨てかけたのは、少々早計だったかもしれんな。平凡な顔をしているくせに、中身は案外しぶとい。
小僧を初めて刀へ変じさせた日のことも覚えている。
あれはひどかった。
痛みに弱いわ、怖がるわ、うるさいわで、本当に大変だった。
神と神器の契約は、単なる口約束では結べない。名を結び、力を通し、器を変質させる必要がある。人の魂の輪郭へ神の理を食い込ませ、こちらの力が流れ込んでも壊れぬよう形を作り替える。その過程で、“刀になる”という感覚がどうしても発生する。骨が変形するとか肉が裂けるとか、そういう生々しいものではないにせよ、自分という存在の使い道を変えられるわけだから、違和感がないはずもない。
「何をする気だよ……」
「神器になる」
「ざっくりしすぎだろ説明が!」
「細かく話したところでお前にはわからん」
「それで納得できると思うなよ!?」
できると思っていなかった。
思っていなかったが、急いでいたのである。
神域の外に瘴気が溜まり始め、私一人では対処が難しくなっていた時期だった。廃れた社に寄ってくる悪いものというのは、妙に鼻が利く。弱っている場所を見つけると集まり、残り火を吹き消すように周囲を汚していく。あの頃の私は、余裕がなかった。小僧をきちんと導き、段階を踏んで説明し、納得してもらってから契約などという悠長な手順を踏める状況ではなかったのだ。
だから半ば強引に結んだ。
「嫌なら断れ」
「断ったら?」
「私も困るし、お前も困る」
「なんだその脅し文句!」
「事実だ」
泣きそうな顔をしていたな、あの時は。
それでも断らなかった。
その選択をしたのはヒロ自身だ。
私は誘導した。かなり強引に。誤解を恐れず言えば、押し切った。神として必要な判断だったと今でも思っている。思っているのだが、もしあの時、小僧が本気で首を振っていたらどうしたのかと問われると、少し答えに詰まる。別の方法を探したかもしれん。もっと弱い契約で繋いだかもしれん。あるいは、消えるのを待つしかなかったかもしれん。
その“もし”が現実にならなかったから、今の私がここにいる。
結局のところ、私はヒロに救われたのだ。
もちろん、面と向かってそんなことを言うつもりはない。
言ったら最後、あの小僧は一生そのことをネタにしてくる。「神様に救われたんじゃなくて、神様を救ってやったんだな俺」みたいな顔をして、数年は擦り続けるだろう。容易に想像できる。想像できすぎて腹が立つ。恩を売らせるわけにはいかん。
それに、救われたとはいえ、全面的に感謝しているかと問われれば、それとこれとは別である。
朝は弱いし、寝起きは悪いし、考えすぎて動きが鈍るし、変なところで真面目だし、変なところで不真面目だし、ひとたび恋愛が絡めば脳内が忙しなくなるし、放っておくと自分を低く見積もりすぎる。使い手としてはまだ未熟。刀としては改善の余地だらけ。神器としては合格点に届いたり届かなかったりをうろうろしている。
それでも、私の右腕であることは確かだった。
童子切弘宗。
私が与えた名を、こやつはまだ完全には自分のものにできていない。
名に負けていると言ってもいい。もっと鋭くなれる。もっと強くなれる。もっと迷いを削げる。あの小僧の中にはまだ、余計な躊躇いや、余計な情けや、余計な自嘲がたっぷり詰まっている。全部を捨てろとは言わん。捨てたら別人になる。ヒロの良さまで削ぎ落とすつもりはない。ただ、振るうべき時に振るえる刃には、なってもらわねば困る。
そのためにも、今日は街へ出る。
この前取り逃がした人型のΔは、少しばかり質が悪かった。気配の隠し方がいやに上手く、瘴気の濃度も高い。低級霊の延長ではない。知恵がある。逃げ足も速い。人目の多い場所へ紛れ込まれれば厄介だ。隣の管轄との境目に近いことも気に入らん。嵐山豪鬼に任せたところで、どうせ周囲の被害など考えず豪快にぶっ飛ばすに決まっている。脳みそまで筋肉でできているような男に、街中の繊細な処理を期待する方が間違いだ。
ヒロはそのへんをまだわかっていない。
いや、わかっているのかもしれんが、規則を気にする。書類を気にする。始末書だの申請だの、細かい人間社会の延長を神の側へまで持ち込んでくる。真面目と言えば真面目で、面倒と言えば面倒だ。規則が必要なのは私とて理解している。神々の管轄を曖昧にすれば争いの火種になるし、勝手な越境が常態化すれば秩序は保てない。その理屈はわかるが、目の前に災いの種が転がっている時に、「手続きが……」と足を止める発想は好きではない。
「始末書なんて書きたくないんだよ、俺は」
「字が上手いのだからよかろう」
「褒めてるように聞こえねえ!」
「実際、上手いだろうが」
そう、あの小僧の字は上手い。
その点は認める。
筆の入り方に癖はあるが、線に無駄な濁りが少ない。集中した時の運筆は悪くないし、余白の扱いも嫌いではない。祖父の影響が大きいのだろう。絵の話になると、いつもの捻くれた顔つきが少しだけほどけるのも知っている。水墨画だの時間の線だの、あのあたりを語り始めると、妙に饒舌になる。普段からそのくらい素直に喋ればよいものを、いざ人間関係となると急に言葉が不器用になるから困ったものだ。
小僧の好きなあの“先輩”相手だと、特にひどい。
昨日の観覧車の件を思い出すと、今でも呆れる。
せっかく私が発破をかけ、わざわざ好機を作ってやったというのに、終始あの調子で黙りこくり、まともに会話もできず、帰ってからは「失敗した……」と床に転がっていた。馬鹿か。誘えただけでも前進だろう。そこで一歩進んだことを評価せず、百点満点じゃなかったからといって全部終わりみたいな顔をする。その幼稚な考え方は、もう少しどうにかならんものか。
恋愛に関しては、鍛錬が必要だな。
戦いより厄介かもしれん。
悪霊なら斬れば減る。恋煩いは斬っても減らん。
むしろ増える。
本当に厄介だ。
……いや、今はそんなことより仕事である。
神域を出る前、ヒロと融合した時の感触を思い出す。
昔はあれも不安定だった。こちらの力を流し込むたび、器がびくびくと震え、呼吸は乱れ、意識の焦点が合わなくなる。今ではかなり安定した。完全ではない。こちらが少し強く流せば、まだ肩に力が入り、余計なことを考えればすぐ呼吸が浅くなる。それでも器としての耐性はきちんと育っている。磨けば光る、という言葉がこれほど似合う小僧も珍しい。問題は、磨いている途中で本人が「俺なんか」とか言い始めるところか。そこさえなければ、もう少し伸びる。
ああ、本当に手がかかる。
神が人間を導くというより、出来の悪い弟子を抱えた職人に近い気分になる時がある。
刀は研がねば鈍る。
心も同じだ。
放っておけばすぐに迷いがこびりつく。
だから私は、文句を言いながらもこやつを連れ出す。戦わせる。考えさせる。失敗させる。少しずつ、自分が何を斬れるのか、何を斬れないのか、その境目を知ってもらわねばならん。
いつか本当に必要な場面が来た時、躊躇いで刃が止まるようでは困るのだから。
童子切弘宗。
今はまだ名負けした鈍でも、そのうち少しは形になるだろう。
そうでなければ困る。
私の右腕なのだからな。
……もっとも、本人はその自覚があるのか怪しいが。
ろくに毛も生え揃わん男のくせに、口だけは一丁前で、恋だの青春だのと騒ぎ、神に向かって説教じみたことまで言い始める始末だ。まったく、最近の神器は主への敬意が足りん。昔なら一振りごとにもっと荘厳な覚悟を宿していたのではないかと思うのだが、これも時代か。時代のせいにしてしまえば少し楽だな。
まあよい。
使えるようになれば問題ない。
いや、問題は山ほどあるが、使えるようになれば大半は目を瞑れる。
そのためにも、今日の狩りは外せん。
街へ出て、あのΔを見つける。
ヒロにはまた文句を言われるだろう。
「管轄が」とか「始末書が」とか「なんで俺まで」とか、ぶつぶつ並べるに違いない。
それでも、最終的にはついて来る。
そういう小僧だ。
面倒で、未熟で、口が達者で、妙なところだけ筋が通っていて、優しすぎて刀としてはまだ甘い。
その甘さごと、私の神器である。




