第3話 賽銭という立派な制度がある
山の中にある神社っていうのは、朝に来ると余計にボロく見える。
いや、別に神社そのものを悪く言いたいわけじゃない。実際、爺ちゃんからは「神社や寺に向かって軽々しく罰当たりなことを言うな」と耳にタコができるくらい言われて育ったし、今でもそういう場所に入る時は自然と背筋が伸びる。ただ、現実問題として、和茶の家は本当に年季が入っていた。賽銭箱は苔と埃で渋い色になってるし、石段はところどころ欠けてるし、手水舎なんていつから水が止まっているのかわからない有様で、神様の住まいってもっとこう、なんというか、清浄で荘厳で、空気までピカピカしてるような場所なんじゃないのかとここへ来るたびに思う。
「おい、何をきょろきょろしている」
「いや、お前ん家、朝見るとほんとに廃墟だなって」
「口を慎め童。歴史があると言え」
「歴史がある建物と倒壊寸前の建物は、わりと近くて遠い言葉なんだよ」
鳥居をくぐった瞬間から、空気が少し変わる。
これを言葉で説明するのは難しい。ひんやりするとか、空気が澄むとか、そういう観光パンフレットみたいなことを言いたいわけじゃなくて、もっと、膜が一枚ある感じだ。山の中の自然と地続きではあるのに、ここだけは別の規則で切り取られているような違和感がある。見た目はただの神社だし、実際ほとんどの人にとってはただの神社なんだろうけど、俺にとっては違った。ここは和茶の家で、職場で、縄張りで、ついでに言えば、現世とあっち側を繋ぐための“穴”みたいな場所でもある。
神にはそれぞれ土地がある。
土地って聞くと、不動産屋が説明してくるような固定資産税の匂いがして夢がないが、実際のところ、意味はそこまで外れていない。神は自分の力が届く範囲を持っていて、その範囲の中でなら現世に姿を保つことができるし、逆にそこから外へ出ると、存在の輪郭が急に曖昧になる。人間で言えば、肺の代わりに透明な膜で呼吸しているようなもので、必要な空気が満ちている場所では普通に立っていられるのに、外へ出ると途端に息苦しくなるらしい。
この、神の力と密接に結びついた領域のことを、“神域”と呼ぶ。
偉そうに説明しているが、全部和茶から聞いた受け売りだ。俺が最初にこの単語を聞いた時は、「へえ、テリトリーってこと?」と軽い調子で返したせいで、「犬猫と一緒にするな」と額を小突かれた。心外だ。言い方を変えただけで意味はほとんど合っていたはずなのに、神様っていうのは妙なところでプライドが高い。
「今日は実体を保てそうか」
「誰に向かって言っている。ここは私の神域だぞ?」
「そういう自信満々なやつに限って、あとで『賽銭が足りん……』とか言い出すんだよな」
「貴様、そろそろ一発殴られたいのか?」
和茶は拝殿の前で腕を組み、いつものように偉そうに顎を上げていた。
神社の中にいる時のこいつは、外にいる時より存在感が濃い。いつもなら俺にしかはっきり見えないし、他の人間が近くを通っても、変な気配がするだとか、視線の端に人影が揺れた気がするだとか、その程度で済むことがほとんどだ。それが鳥居の内側に入ると事情が変わる。和茶は周囲の人間にも見えるように、自分の姿を現世側へ押し出せるようになる。初めて出会った時に俺が屋根の上の少女を見たのも、ここが彼女の神域だったからだ。
手に触れることもできるし、声だってちゃんと届く。
最初はそこがいちばん意味不明だった。神だの霊だの言いながら、触ったらちゃんと温度があるし、叩かれたら痛いし、賽銭が入って喜ぶ時なんて、俗っぽさまで人間と大差ない。神秘とか威厳とか、そういうものを期待していたわけじゃないが、少しくらいは「おお……」ってなる雰囲気を見せてくれてもいいと思う。今のところ見せてくるのは、ドヤ顔と説教と金への執着ばかりだった。
「さっさと準備しろ。街へ出る」
「わかってるよ。朝飯食ってすぐ山登りしてきたんだから、もうそれだけで十分えらいだろ、俺」
「その程度で褒めろと言うなら、幼子と同じ扱いになるぞ」
「それで優しくしてくれるなら、今日はそれでもいい」
「気色悪いな」
ひどい言われようである。
準備と言っても、本当に大げさなものじゃない。
刀を研ぐわけでもないし、鎧を着込むわけでもないし、秘密基地みたいな場所で作戦会議をするわけでもない。やることと言えば、鳥居の内側で和茶が実体を安定させ、俺がそれに合わせて体と意識を整えるくらいのものだ。神が悪霊を祓う仕事をしていると聞くと、もっとこう、陰陽師めいた儀式だとか、護符が乱れ飛ぶ派手なやつを想像するかもしれないが、現場の大半は地味で、地味なくせに妙に命懸けで、終わったあとだけやたら疲れる。
鳥居には、境界を示す役割がある。
これも昔から知識としては聞いたことがあった。神域と外界を分ける門であり、神聖な場所への入口であり、人が頭を切り替えて足を踏み入れるための印だとか何とか。和茶と関わるようになってから、その意味がやけに具体的になった。この鳥居を越えた内側は和茶の力が行き渡る場所で、外側はそうじゃない。鳥居はただの目印じゃなくて、神の側から見れば、自分の領分がどこまでかを現世に示す杭みたいなものだった。
逆に言えば、鳥居をくぐることは、神様の縄張りに入るってことでもある。
観光で来た人に向かって「侵入者め」とか言い出したら完全に営業妨害だが、和茶の感覚ではそんなところらしい。
「お前そのうち、参拝客にも通行料とか言い出しそうだよな」
「賽銭という立派な制度がある」
「そこを迷わず肯定するのが怖いんだって」
「願いに対価が必要なのは当然だろう。世の理だ」
「その理を、もっと神々しく説明できないのか?」
「金は大事だ」
「一周回って清々しいな」
風が鳴る。
山の木々を抜けてくる自然の風とは少し違う、意志を帯びた流れだった。
和茶がふっと息を吐くたびに、境内の空気が彼女を中心に円を描く。足元に落ちていた枯れ葉が巻き上がり、拝殿の前に積もっていた細かな砂がさらさらと渦を作る。こういう時だけは、ああ、こいつ本当に神なんだなと認めざるを得ない。普段があまりにも普段なので忘れがちになるが、風を操るなんて、人間の延長線上にある芸当じゃない。
和茶の神号は、志那都比古神。
風を司る神のひとつで、この土地ではあいつがその名を背負っている。
神号っていうのは、神に与えられる称号みたいなもので、日本中に無数に存在している。海や山、炎や雷、豊穣や学問や縁結びみたいに、人間が古くから畏れたり願ったりしてきた自然現象や概念の数だけ神の名があると思えば、たぶんそこまで外れていない。和茶はその中でも風の系統に属していて、神社の中ではかなり自由にその力を扱える。
「立て」
「見りゃわかるだろ、立ってる」
「余計な口を閉じろという意味だ」
「毎回思うけど、お前、命令の解像度が荒いんだよ」
言い返しながら、拝殿の前に立つ。
ここからが本番だった。
俺は肩の力を抜き、ゆっくり息を吸って、ゆっくり吐く。目を閉じて、耳の奥に残っている家の生活音や、学校のことや、昨日のデートのことや、返信の文面に一時間も悩んだ情けない自分のことを、ひとつずつ追い出していく。集中しなきゃいけない場面で余計なことを考えるなと、爺ちゃんにも書道部の顧問にも何度も言われてきた。その教えが、まさか神との仕事で役立つ日が来るとは思っていなかった。
「……おい、まだ先輩のことを考えているだろう」
「考えてねえよ」
「動揺で呼吸が浅い」
「観察眼だけ無駄に鋭いなお前」
「無駄ではない。神だからな」
「便利な言葉だよな、“神だから”って」
和茶が一歩前へ出る。
白い和袖が、朝の風にふわりと揺れた。額にかかった大きなゴーグルがきらりと光って、後ろで束ねたオレンジ色の髪がふわっと浮く。神様の装いとして正しいのかどうか、いまだによくわからない格好だったが、似合っているのが妙に腹立たしい。こいつ、自分が目立つ見た目をしている自覚があるのかないのか、たまに判断に困る。
「行くぞ」
その一言とともに、風圧が境内を走る。
和茶の声が、いつもの軽口とはまったく違う響きを帯びた。高いとか低いとか、綺麗だとかそういう単純な話じゃない。耳から入ってくるのに、皮膚の上も滑っていくような、妙な広がり方をする声だった。神が“言葉”を使う時っていうのは、たぶんこういうことを言うんだろう。
『風の満ち渡る刹那よ、翳りし影の縁を捉えよ』
解言。
神が自分の力を解き放つための言葉であり、契約した相手を呼び起こすための合図でもある。
こいつの能力は風だ。見えないものを運び、散らし、切り裂き、包み込む。その力の一部を受け取っている俺は、この言葉を聞くたびに、体の内側に別の呼吸が流れ込んでくる感覚を覚える。最初は気持ち悪かった。自分の体なのに自分だけのものじゃなくなる感じがして、皮膚の下にもう一人分の輪郭が重なるみたいで、何度経験しても慣れるもんじゃないと思っていた。六年も付き合わされている今でも、好きか嫌いかで言えば、たぶん嫌い寄りだ。
伸ばした俺の手のひらの上で、空気が渦を巻く。
目を閉じているのに、風の動きがわかった。
回転しながら集まってくる圧力が、掌から腕へ、腕から肩へ、肩から胸へと滑り込んでくる。冷たいわけじゃない。熱いわけでもない。無色透明の水を一気に飲み込んだ時みたいに、内側だけがすっと重くなる。和茶が俺に預けている神力は、いつも最初に肺のあたりへ沈む。そこから全身に広がって、筋肉の繊維の一本一本に細い風が入り込んでくる。
ゴオッ、と境内の空気が鳴いた。
半径数メートルの範囲で突風が立ち上がり、木の葉がいっせいに舞い上がる。拝殿の軒先にぶら下がっていた古い注連縄が揺れ、鈴がかすかに鳴った。その音を合図にするみたいに、和茶が俺の正面へ立つ。
「力を抜け」
「抜いてる」
「嘘をつくな、肩が上がっている」
「こういうのって、毎回もうちょい優しくできないのか?」
「優しくしたら、お前は余計なことを考える」
「その評価は否定しづらいな……」
和茶が俺の胸元に指先を当てる。
触れた場所から、ふっと風が潜った。
こいつは自分の力の半分を、契約した人間に渡すことができる。その“半分”がどれくらいの比率を指しているのか、俺にはいまだにわからない。単純にエネルギー量が半分という意味なのか、権能の機能の一部を割り振っているのか、神様の会計システムは雑そうでいて意外と複雑で、そのへんを真面目に聞くと和茶も説明に詰まり始めるから、最近は深追いしないことにしている。わかっているのは、力を分け与えられた人間は、神と“繋がる”ことができるということだけだった。
その繋がりを強くするために必要なのが、融合。
名前だけ聞くとロボットアニメみたいで少しわくわくするが、体験としてはもっと切実だ。俺の感覚と和茶の感覚が一時的に重なり、視界や聴覚や平衡感覚が少しだけ拡張される。遠くの風の流れが読めるようになり、悪霊の気配が人の匂いみたいにわかるようになり、身体能力も底上げされる。代わりに、慣れないうちは酔う。初めてやった時なんて、その場で盛大に吐いて神社の石段を汚し、「罰当たりにもほどがある」と真顔で怒られた。反省はした。状況が状況だったので心の底から謝る余裕はなかった。
「……来るぞ」
「毎回その言い方、怖いんだよ」
「怖くて結構だ。軽く考えるな」
和茶の瞳が近い。
オレンジ色の、妙に生き生きした目だった。
普段は偉そうで、面倒くさくて、余計なおせっかいの塊みたいなやつなのに、この瞬間だけは完全に仕事の顔になる。俺はそれが少し苦手で、少しだけ安心もする。こいつが本気で集中している時は、少なくとも遊び半分じゃないってことがわかるからだ。
「ヒロ」
名前を呼ばれる。
その一言で、胸の奥に沈んでいた風が一気に持ち上がった。
息を吸う。肺の中身が空気じゃなくなったみたいな感覚が広がる。背筋を冷たい線が駆け上がって、耳鳴りのような高い音が頭の奥で震える。視界の輪郭がわずかに揺れて、閉じていたまぶたの裏に、青白い線が幾重にも走る。書道で言えば、紙に筆を下ろす寸前に世界が細くなる感覚に近かった。余計なものが削ぎ落とされて、一本の線だけが見える瞬間。爺ちゃんの絵を見ていて、わけもわからず息を呑んだ時の感じにも似ている。
風が、俺の中へ落ちてくる。
和茶の力が、声が、意識が、輪郭だけこちらへ滑り込んでくる。
「っ……」
膝が少し笑う。
踏ん張る。ここで崩れたらあとが面倒だ。以前、融合の途中で俺がよろけたせいで、和茶まで巻き込んで賽銭箱に頭をぶつけたことがある。神様が「痛っ!」って言いながら賽銭箱に突っ込む光景は、神秘の対極にある。俺は笑いをこらえるのに必死だったし、和茶は本気で怒っていた。
「集中しろ」
「してる……してるって……」
「先輩の胸のことを考えるな」
「考えてねえよ! 何を読み取ってんだお前は!」
「本当に最低だな」
「冤罪にもほどがある!」
集中すべき場面でこんなやり取りをしている時点で緊張感が迷子だが、これもいつものことだった。
和茶との融合は、きっちり儀式めいているくせに、合間合間でこいつが人の思考を勝手に覗いては茶化してくるせいで、妙な雑味が入る。こっちは命懸けの準備をしているつもりなのに、向こうはわりと平然としているから腹が立つ。いや、平然としているように見せているだけで、実際は神なりに消耗しているのかもしれないが、少なくとも俺に対する態度に遠慮というものが存在しない。
風が全身を巡る。
腕が軽い。足裏の感覚が変わる。呼吸が深くなるというより、空気の方が勝手に体へ入ってくる。耳を澄ませなくても、木々の擦れる音が何層にも重なって聞こえる。山を下りる車のエンジン音、遠くの畑で鳴いた鳥の羽音、神社の裏手の草むらを横切る小さな獣の足音まで、ばらばらの線で頭の中に入ってきた。
この状態になると、和茶がどこを見ているかも少しわかる。
視界を共有しているわけじゃない。目の前の景色はあくまで俺のものだし、和茶の頭の中が丸見えになるわけでもない。ただ、風の流れに含まれた情報のどこへ意識を向けるべきか、その“向き”だけが自然と一致する。人間一人分の感覚しか持っていなかった頃には、世界ってずいぶん平面だったんだなと、この瞬間だけ思い知らされる。
「よし」
和茶が短く息を吐く。
それで終わりだった。
派手な光が走るわけでも、衣装が変わるわけでもない。残念ながら俺は変身ヒーローじゃないので、服の上から謎の装甲が出てきたりはしない。見た目の変化なんて、せいぜい目つきが少し鋭くなるとか、体の周りの空気が揺れて見えるとか、その程度だ。本人としては中身がかなり変わっているんだが、外から見れば「なんかちょっと雰囲気が変わった?」くらいにしか思われないらしい。もっとわかりやすく格好よくなってもよくないか。労働意欲に関わるぞ、そういうの。
「終わったぞ」
「わかってる。毎回思うけど、この“終わったあとの平常運転”がいちばん怖いんだよ」
「何がだ」
「人間って、もっと儀式っぽい余韻が欲しくなる生き物なんだよ」
「贅沢だな。動けるなら十分だろう」
たしかにその通りではある。
拳を握る。指先の感覚が澄んでいた。
地面を蹴った時の反発がいつもより明確にわかる。足首の角度を少し変えるだけで、どっちへどれだけ飛べるかが読める。見えない追い風が、最初から体の使い方を教えてくれているみたいだった。この感覚は嫌いじゃない。気持ち悪さや面倒くささを差し引いても、力が自分の輪郭を広げてくれる感じは、ちょっとだけ中毒性がある。
「街中へ行くんだったな」
「うむ」
「本当にやるのか?」
「何度も同じことを言わせるな」
「いや、確認は必要だろ。相手はこの前取り逃したΔなんだろ? しかも人型。管轄を越える。報告だけならもう上に上げてる。普通はそこで終わりだ」
「普通ならな」
「普通じゃないことをする時にいちばん揉めるの、だいたい後処理なんだよ。始末書って知ってるか? あれを書くの、俺なんだぞ?」
「字が上手いから適任だ」
「そこを褒め言葉みたいに使うな」
和茶は鳥居の方へ歩き出す。
神社の中にいる時のこいつは、やっぱり少し重みがある。足音までちゃんと現実に乗っているし、石段を下りる背中にも質量がある。鳥居の内側に満ちている神力が、和茶の姿をこの世へ押し留めているんだと考えれば、まあ理屈としてはわからなくもない。神社っていうのは神が鎮座する場所であり、現世へ通じるための道でもある。その境目を形にしているのが鳥居だ。人間にとっては入口で、神にとっては橋脚みたいなものなんだろう。
鳥居の前で、和茶が振り返る。
「行くぞ、ヒロ」
「わかってるよ」
返事をしながら、ほんの少しだけ息を整えた。
鳥居の外へ出れば、和茶はこの神社の中ほどには安定して姿を保てなくなる。実体は薄れ、力も落ちる。それでも外へ出なければ仕事にならない。悪霊は神社の都合なんて考えずに湧くし、街にだって平気で入り込む。縄張りだの規則だのと言っているうちに死人が出たら、それこそ笑えない。
俺は神なんて信じていなかった。
今でも、信じるっていう言葉がしっくりくるのかはわからない。
目の前に和茶がいて、風が俺の中を巡っていて、これから人外の化け物を追いに行くという現実がある以上、いないと言い張るのもさすがに無理がある。ただ、それでも思う。神だろうが何だろうが、仕事っていうのはつくづく面倒くさいし、俺みたいな一般高校生を巻き込まずにもう少し上手く回してほしい。
「何をぶつぶつ言っている」
「労働環境の改善について考えてた」
「殊勝なことだ。まずは賽銭を増やせ」
「結局そこに戻るのかよ」
「資金は全てを解決する」
「お前、ほんとに神か?」
「神だ」
迷いなく言い切りやがった。
その自信だけは見習いたくない。
鳥居の向こうには、山を下りる道が続いている。
街へ出れば、人がいて、車が走っていて、学校があって、先輩がいて、和茶のことなんて知らない普通の毎日が広がっている。その普通の景色のどこかに、人型のΔが潜んでいるらしい。しかも、よりによって隣の管轄に半分足を突っ込んだあたりでだ。嵐山豪鬼の顔を思い出すだけで胃が重くなる。あのリーゼントと鉢合わせたら、たぶん面倒くさいことになる。すでに十分面倒くさいのに、その上さらに面倒くさいが上乗せされる未来しか見えない。
「……帰って寝たい」
「まだ何もしていないだろう」
「準備の時点で疲れたんだよ」
「軟弱だな」
「神と違って、こっちは睡眠と糖分で動いてるんだよ」
「帰ったら団子でも買ってやる」
「本当か?」
「賽銭の入り次第だ」
「信用できねえ……」
そんなやり取りをしながら、俺たちは鳥居をくぐった。
風が、少しだけ質を変える。
和茶の輪郭がわずかに薄れ、代わりに俺の中を巡る力が一段強く意識される。融合を済ませた状態で外へ出る時は、この感覚の変化がはっきりわかる。神社の中では和茶自身が中心に立っていたのに、外へ出た瞬間から、俺の体が前提になる。神の力を抱えた人間として動くしかなくなるわけだ。つくづく、ろくでもない役回りを押しつけられていると思う。
それでも、足は止まらない。
止めたところで、和茶はたぶん一人で行く。そうなったら後味が悪いし、いちおう契約してしまっている以上、完全に無関係を決め込めるほど器用でもない。自分で自分のことを現実主義者だと思っているくせに、こういうところだけは非合理だよなと、たまに嫌になる。
山道を下りながら、和茶が小さく笑った。
「顔に出ているぞ」
「何が」
「面倒だと思っている顔だ」
「当たり前だろ。面倒以外の何物でもない」
「そうやって文句を言いながら、結局ついて来る」
「そこを美談に変換するな。契約の強制力って言葉を知ってるか?」
「つべこべ言うな。仕事だ」
仕事、ね。
高校生の朝としては、だいぶ終わっている。
制服じゃなく動きやすい私服で、山の神社から下界へ下り、神と一緒に悪霊退治に向かう。昨日は観覧車で先輩相手に一言もうまく喋れなかった男の生活じゃない。俺の青春、どこで分岐を間違えたんだろうなと本気で思う。たぶん中一のあの日、賽銭を持たずにあの神社へ入った時点で、何かが決定的に狂ったんだろう。
和茶が前を向いたまま言う。
「見つけたら、今日は逃がさん」
その声だけは、妙に低かった。
軽口も茶化しもない、狩る側の声だった。
俺は無意識のうちに、拳を握り直していた。
風が指の隙間をすり抜け、街の方角から、わずかに嫌な気配を運んでくる。
どうやら本当に、仕事らしい。




