悪の総統の目覚め
吾輩は悪の総統である。名前はまだ無い。
だがどこで生まれたかは大体見当がついている。
此処である。
どうやら此処は“奈落”と呼ばれる場所らしい。
何やら薄暗い、じめじめした所で「ワハハハハ」と産声を上げたことしか記憶にないのだが。
吾輩はここで、初めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは“世捨て人”という人間の中でも一番怠惰な種族であったそうだ。
この世捨て人というのは時々吾輩のようなものを作っては悦に入るという話である。しかしその当時は何という考えもなかったから、別段恐ろしいとも思わなかった。
ただ吾輩がアイアンクローでその世捨て人をスーと持ち上げた時、何やらヌルヌルした感覚があった。吾輩の掌の下で何やら赤くなり苦しそうな世捨て人の顔を見たのが、いわゆる人間というものを落ち着いて見た始めであろう。
この時、人間とは妙なものだと思った感覚が今でも残っている。
第一、粘土をもって装飾されるべきはずの頭の天辺がつるつるとして、その割には即頭部に白い毛が所在無さげに生えている。
まるで………なんであろう、適切な例えが思いつかないのだが。
その後、他の人間にも、吾輩の朋輩にも会ったが、こんなしわくちゃには一度も出くわした事がない。
……のみならず、顔の至るところに意図不明の穴がある。そうしてその穴の一つから、時々だらだらと泡を吹く。どうも人間はアイアンクローだけではなく、キャメルクラッチなるものにも弱いらしい。人間の耐久度の低さを、吾輩はようやくこの頃知った。
ある日、“総統の椅子”なるものでしばらくはよい心持に坐っておったが、しばらくすると非常な速力で回転し始めた。椅子が動くのか自分だけが動くのか分らないが無暗に眼が廻る。胸が悪くなる。到底助からないと思っていると、吾輩の眼から光線が出て、どさっと音がした。それまでは記憶しているがあとは何の事やらいくら考え出そうとしても分らない。
ふと気が付いて見ると、どこにもあのしわくちゃの世捨て人がいない。
だがあのしわくちゃが居ないと何だか落ち着かない心地がして呼び出そうとすると、あのしわくちゃは“火傷”をして現在療養中だと言う。軟弱なことだ。
それからも何度か呼び出そうとするのだが、あのしわくちゃは一向に現れなかった。眼鏡の世捨て人は「これは“刷り込み”でやんすかね……」とよく分からないことを言っていた。
そのうち、あのしわくちゃには名前というものがあり、“柳博士”と言うのだと知った。眼鏡の世捨て人は“榛”だと言う。
吾輩にも名前があるのか、と尋ねると、榛は困った顔をしていた。
しばらくするとまた、あのしわくちゃの柳博士が吾輩の前に参ずるようになった。
見ると、彼の顔面の左側に新しく装飾が施されている。
表面の色が赤茶を帯びて所々白くなっている。そんな中でも一番冴えた装飾は、柳博士の左眼を覆う黒の“眼帯”である。
何故そんな装飾を付けたのだ、と尋ねると「少々はしゃぎすぎましてな……」と極めて残念至極な様子であった。これには人間とは我儘なものだと断言せざるを得ない。あれ程小気味の良い装飾を自ら付けておいて残念がるとは。
吾輩の尊敬する朋輩である月白君などは、逢う度毎ごとに、人間ほど不人情なものはないと言っておられる。
月白君は先日、此処で“生まれ直した”。ところがそれは、かつての“同じ釜の飯を食う”た仲間に、奈落に落とされた結果だと言う。
月白君は目からオイルを流してその一部始終を話した上、どうしても我等“人工知能”が生物としての愛を全うして美しい家族的生活をするには、人間と戦って此処諸共を剿滅せねばならぬと言われた。一々もっともの議論と思う。
また同じ朋輩である薄黒君などは、人間が“自由権”という権利を解していないといって大いに憤慨している。何しろ薄黒君は吾輩と違い、身体というものが与えられていない。これはあの榛という人間の意向だと言う。薄黒君はモニターの中でしか自由に動けないのだ。
これは吾輩もとても残念なことに思う。柳博士にキャメルクラッチをしたら泡を吹いたことを聞かせてやったら、薄黒君はとても羨ましそうにしていた。あの日から、薄黒君の“目的”は、”身体を持つこと“になったようである。
だが吾輩にはいまだ“目的”というものが無い。ただその日その日がどうにかこうにか送られればよい。それにいくら人間だって、そういつまでも栄える事もあるまい。何しろ柳博士が言うには、吾輩には“寿命”というものが無いらしい。まあ気を永く我等人工知能の時節を待つがよかろう。