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待ち時間と、トラブルと、友人と

さて、安全、安心の他に、電車移動の醍醐味はというと"人間観察"が挙げられる。指定都市までの移動時間はこの地から約2時間半。その間に、向かいに座った乗客や隣に座っている乗客を眺めているのは、とても楽しい。例えば、以前指定都市に赴いた際、向かいに座った紳士がいた。グレーの短い髪の毛に、いかにも高そうなスーツ。いかにも高そうなショルダーバッグ。さながらどこかの大学の教授か、大手企業の重役を思わせる彼。その彼がおもむろにショルダーバッグから取り出したのは、コーヒー牛乳だった。私の偏見かもしれないが、紳士たるやコーヒー(それもブラック)が似合いそうなところを、紙パックのコーヒー牛乳ときたものだから、そのギャップに吹き出しそうになってしまった。まぁ、飲み物は個人の嗜好なので、笑ってはいけない。しかし、この紳士が私を驚かせたのは飲み物だけではなかった。コーヒー牛乳と一緒に取り出した文庫本。これまた偏見であるが、きっと時代小説か、ビジネス文庫か、学術文庫だと思い込んでいたのだが──予想は裏切られるものである。紳士が広げた文庫本、それは"官能小説"だった。それもブックカバーなしである。周囲の視線などお構いなしの強靭な精神力を思わせるこの紳士は、未だに私の記憶から消え失せることはないだろうし、電車に乗車するたび、思い出してしまう。



第2の醍醐味は"車窓からの眺め"である。前作「電車ものがたり」で書いた通り、私が居を構える地方の片田舎は、山と河川と田んぼと家屋がちらほらと散見していて、冬季はそれらに雪が覆いかぶさるだけで、変わり映えが皆無である。そんな風景を見るくらいなら、文庫本を読んでいた方がよっぽど時間が有効に使えるし、人間観察に精を出していた方がよっぽど楽しい。ところが、指定都市行きとなれば話は別である。あぁ、ここは我が地と変わらないなぁ……とか、ここは我が地よりもっと悲惨だなぁ……とか、ここからは海が見えるなぁ……とか、段々ビルが多くなってきてるなぁ……とか。


定刻通り発車した中継駅行きの電車に揺られながら、電車移動の醍醐味を回想していて、隣の座席に座った友人の存在をしばし忘れてた。


友人は背筋をぴんと伸ばして、無言で座席に座っている。友人には失礼だが、まるで仏像の様相である。


まさか電車酔いでもしたのか?少々心配になり、大丈夫か?と声をかける。すると友人、指定都市到着までの約2時間半、何をしていいのかわからなくて悩んでいたという。なんて真面目なんだろうか。いや、友人は電車慣れしていないのだ。ここは電車旅の先輩として、アドバイスしなければならない。


たまに(終電時刻近くが多いのだけれど)ビールだのハイボールを飲みながら、大声でわめく乗客がいるが、公共交通機関である。TPOは遵守しなければならない。車窓からの眺めの変化や、人間観察の面白さを小声で教授する。


どうだ?素晴らしいだろう電車移動。こんなにも楽しい移動時間はないぞ?しかも安心安全なのだ。さぁ、先輩を尊敬したまえ。1人で乗ってる時は、読書にだって集中できちゃうんだぜ?さぁ、2人でこそこそ語りつつ、人間観察をし、変わりゆく景色の感想を語り合おうじゃないか。ところが……。


「そういうの、興味がないんだよなぁ……」


小声だったけれど、電車移動の素晴らしさを懇切丁寧に教授してあげたというのに、先輩の助言を友人はバッサリと切り捨てた。温厚な性格の私であるが、さすがにカチンときた。がしかし、久々の再会だし、1晩を共にする仲である(誤解がないように説明するが我々はストレートである)。こんな小さなことで喧嘩してはならないし、趣味嗜好は各々違って当たり前。


「あ、そっか、いや、興味がないなら仕方ないさ」


私は穏やかに返事をし、リュックから文庫本を取り出して読み始めた。友人も倣ってボストンバッグからハードカバーの新書を取り出した。こんなサイズの本を持ってくるか?かさばるでしょうが。つっこみたかったが、友人は電車と旅に慣れていないのだ。仕方ないのだ。


結局私も友人も、中継駅到着まで大して会話もせず、友人はひたすらに読書、私はいつも通り、読書をしつつ人間観察に精を出し、車窓からの眺めを楽しんだ。


そして、安全、安心の電車は定刻でA駅を出発した1時間半後、やはり定刻通りに中継駅へと到着した。


余談だが、降車のタイミングにも私にはこだわりがあって、最後の乗客になってから降りるのである。たまに我先にと降りていく乗客がいるが、急いだところでさほど時間短縮にはならないし、財布を座席に置いてきたと駆け足で戻ってきた乗客もいた。失敗から学べ、ということで、堂々と最後に、悠然と降りるのを私はモットーにしている。おかげで、これを執筆している現在、足元に置いた傘を忘れて降りてしまった程度で事が済んでいるのは、ひとえに学習と余裕ある降車姿勢のたまものである。


降車した中継駅での待ち時間はおよそ30分。電車内の空調で喉が乾燥してきた私は、自動販売機から水を買って飲もうとした。そのときである。私より10cm以上は上背のある友人の大きな手が、私の肩にどすんと落ちてきた。何事かと友人の顔を見上げると、今回ばかりは本当に顔色が悪い。真っ青……というより、真っ白になっているし、額から汗が流れている。


「ど、どうしたの?具合悪いの?」さすがにこの顔色とこの発汗は心配だ。すると友人は、こう言った。

「トイレ……トイレ、どこ?」


どうやら友人は、中継駅に到着する間、ずっと尿意を我慢していたらしい。これは完全に私のミスだった。電車内にトイレがあることを伝えていなかったのだ。申し訳なさを感じ、急いで友人を連れてトイレに行き、仲良く用足しを済ませる。せめて罪滅ぼしにと、待合室まで運搬を手伝った友人のボストンバッグは、ものすごく重かった。中身が気になる。しかし、それを訊くのは失礼だと思ったので、黙っておく。これが友情ってやつ。トイレ騒動、謝罪、ホームの移動、再度時刻表の確認をし、既に到着している指定都市行きの電車に乗った。さすが指定都市行きの電車である。平日昼間なのに、私たちが乗り込んだ時点で半分以上の座席が埋まっていて、発車時刻には全ての座席は埋まり、立ち乗りの乗客もいる。


中継駅発指定都市行きのここでも、安心、安全の電車は、定刻通りに発車した。


中継駅から終点の指定都市までの約50分は"読書不可能地帯"である。座席と座席の間隔が狭いし、乗客も多いし、話し声がノイズとなって読書に集中できない。したがって、ここは私的電車移動の醍醐味、人間観察をしつつ、段々とビルや家屋が多くなり、いかにも都市に来たぞ、という景観を楽しむのである。ふと横の座席に視線を向けると、男女がいちゃついていた。あぁ、カップルで都会に赴いて、デートを楽しむのか、羨ましいなぁ、こちとら野郎2人だよ、あぁ、見せてくれるな、悲しくなるじゃないか。私が勝手に傷心している中、隣の座席に座っている友人は、雑音だらけのここでもハードカバーの新書を黙々と読んでいた。


もしかして……この友人、とんでもなくメンタルが強いのでは?あるいは鈍感?などとも思いつつ、電車は指定都市へと向かって走る。


指定都市の3つほど手前の駅を通過すると、景色は完全に大都会と化す。山、河川、田んぼ、畑、散見する家屋とはもう、別次元のこの景色。あぁ、都会だよ、自動車などなくても、存分に遊びや買い物を満喫できる都会。18歳の頃は怖くて来れなかった都会。大人になってやっと怖がらずに来れるようになったよ。そびえ立つビル群を眺めるたび、そんなちょっとセンチメンタルな気分になるのである。


──「次は指定都市、指定都市でございます」


アナウンスが流れた。読書を続ける友人に声をかけ、降車準備にかかる。


A駅を出発して約2時間半。目的地指定都市に、安全安心の電車は、やはり定刻通りに到着した。


(4話に続く)


電車内でのマナーは守りましょう。

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