第三章「坊ちゃんと童歌」
梅の花が散り始めても、二人は変わらず梅の木の下へ通い続けた。
春の風が吹くたび、枝に残っていた白い花びらが一枚、また一枚と地面へ落ちていく。満開だった頃には空を覆うほど咲き誇っていた花も、日を追うごとにその数を減らし、やがて枝の隙間から覗く青空のほうが目立つようになっていた。
それでも、詩にとって、この場所が特別であることに変わりはなかった。
ここには、両親の墓がある。
母から教えてもらった童歌を、初めて誰かと一緒に歌った場所でもある。そして何より、両親を失ってから長いこと一人だった詩が、初めて心を許せる少年と出会った場所だった。
だから、梅の花が少なくなっていくことには寂しさを覚えながらも、詩はこの木が白い花を咲かせていた季節を、いつまでも忘れたくないと思っていた。
花びらの下で聞いた少年の声も、不器用に童歌を真似ようとする姿も、隣に座ったときに伝わってくる温かな気配も、その一つ一つが、両親を失ってから初めて胸の中に生まれた新しい記憶だった。
少年にとっても、おそらく同じだった。
屋敷の中では、朝から晩まで大人たちに囲まれ、先生たちの言葉を聞き、家の跡取りとして振る舞うことを求められている。けれど、一日の終わりにこの場所へ来れば、胸の奥に積もっていた重たいものが、少しずつほどけていく。
先生の厳しい声も、大人たちの期待も、跡取りなのだから立派であれという言葉も、ここへ来るとほんの少しだけ遠くなる。
だから二人は、申し合わせることさえなく、自然と梅の木の下で会うようになっていた。
屋敷の中では、相変わらず二人の間には明確な距離がある。
詩は使用人の子どもとして働き、少年はこの屋敷の跡取りとして、大人たちに囲まれて暮らしている。廊下ですれ違うときには、詩はきちんと足を止め、少しだけ頭を下げる。
「坊ちゃん、おはようございます」
少年もまた、周囲に人がいるときには何事もないように頷くだけだった。
「ああ。おはよう」
それ以上の言葉は交わさない。
けれど、ほんの一瞬だけ視線が重なる。
その瞬間だけは、言葉にしなくても分かるものがあった。
――今日も、あとで梅の木の下で。
誰にも知られてはいけない、二人だけの小さな約束だった。
ある日の夕方、詩が仕事を終えて裏手の細い道へ入ると、梅の木の下にはすでに少年が来ていた。
日はまだ沈みきっておらず、傾き始めた光が庭の木々を柔らかく照らしている。春の終わりを感じさせる風が草むらをゆっくりと撫で、わずかに残った白い花びらを枝の上で揺らしていた。
少年は木の根元に座り、何をするでもなく空を眺めていたが、詩の足音に気づくと顔を上げた。
「遅かったね」
その声を聞いた瞬間、詩の胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。
「ごめんなさい。今日はお掃除が長引いてしまって」
詩は小走りになっていたこともあり、少し息を弾ませながら答えた。
少年はそんな詩の様子を見ると、ふっと表情を緩める。
「そんなに急がなくてもよかったのに」
「でも……」
詩はそこで言葉を止めた。
なぜ自分がこんなに急いでいたのか、本当は分かっている。
早く会いたかった。
ただ、それをそのまま口にするのは、まだ少し恥ずかしかった。
視線を落とした詩に、少年は何も尋ねなかった。ただ、自分の隣を少しだけ空けるように身体をずらす。
「ここ、座る?」
「……はい」
詩は小さく頷き、その隣へ腰を下ろした。
肩と肩が触れ合うほど近いわけではない。それでも、初めて会った頃よりも、二人の距離がほんの少し縮まっていることを、詩は何となく感じていた。
風が吹く。
枝先に残っていた白い花びらが一枚、二人の間へゆっくりと落ちてきた。
詩はそれを拾い上げ、掌の上でそっと眺める。
「もう、梅も終わりですね」
その言葉に、少年も枝を見上げた。
「うん。少し寂しいね」
その声には、本当に寂しそうな響きがあった。
詩は少年の横顔を見る。
坊ちゃんが梅の花そのものを好きなのか、それとも、この木の下で過ごす時間を好きなのか、詩にはまだ分からない。
ただ、梅の花がなくなってしまえば、この場所まで少し寂しくなってしまうような気がした。
「来年も咲きますよ」
詩がそう言うと、少年は少し驚いたようにこちらを見た。
「来年も?」
「はい。梅は、毎年咲くから」
詩は当たり前のことを言うように笑った。
少年はしばらく何も言わず、掌の上に落ちてきた花びらを見つめていたが、やがて、その表情をゆっくりと和らげた。
「……そうか」
そして、ほんの少し照れたように視線を逸らしながら続ける。
「じゃあ、来年もここに来よう」
何気ない言葉だった。
けれど、その一言は詩の胸の奥へ、不思議なほど深く残った。
「はい」
詩も頷いた。
そのときの二人は、まだ知らなかった。
その約束が、ただの「来年」という季節の約束ではなく、やがて二人の人生の奥深くに残り続けるものになることを。
◇
少年の毎日は、詩とはまるで違っていた。
詩が屋敷の中で掃除や洗濯、細かな手伝いを覚えながら日々を過ごしていく一方で、少年には朝から晩まで、次から次へと学ぶことが待っていた。
朝になれば先生がやって来る。
漢学を学び、書を習い、文芸を教わり、礼儀作法を身につける。それが終われば、今度は音曲の稽古が待っている。
少年は、まだ幼い。
けれど、この家の跡取りとして生まれた以上、年齢など関係なかった。
立派な人間にならなければならない。
家を継ぐ者として恥ずかしくないようにしなければならない。
大人たちは当然のことのように、そう言った。
少年も、それが自分の務めなのだと思っていた。
だから机の前に座れば姿勢を正し、先生の言葉を一つも聞き逃さないように耳を傾ける。間違えれば叱られ、できれば褒められる。けれど、褒められたからといって休めるわけではない。
次にはまた、新しい課題が待っている。
そうして一日が終わり、また翌朝になれば同じことが繰り返される。
それが少年にとっての当たり前だった。
ある日の午後も、三味線の稽古場には乾いた音が何度も響いていた。
「坊ちゃん、もう一度お願いします」
師匠の声に、少年は背筋を伸ばして頷いた。
「はい」
三味線を膝の上へ置き、撥を握る。細い弦へ指を添え、教えられた通りに音を鳴らしていく。
けれど、師匠はすぐに首を横へ振った。
「違います。もう一度」
「はい」
少年は素直に返事をして、もう一度弾いた。
それでも、師匠の表情は変わらない。
「力が入りすぎています。もっと音をよく聞きなさい。自分で鳴らそうとするのではなく、三味線がどんな音を返しているのかを聞くのです」
「はい」
少年は頷き、再び弦へ指を置く。
何度目の稽古だっただろう。
繰り返すうちに、指先がじんじんと痛み始めた。幼い指には弦が食い込み、赤くなった皮膚が熱を持っている。
それでも、少年は手を止めなかった。
跡取りなのだから。
この家を背負う者なのだから。
そう言われて育ってきた。
だから弱音を吐かなかった。
少なくとも、大人たちの前では。
ようやく稽古が終わったとき、少年は三味線を丁寧に置き、誰にも見られないように自分の指先を見つめた。赤くなった皮膚を、そっと曲げてみる。
ぴり、とした痛みが走った。
少年はわずかに眉を寄せたが、それ以上の表情は見せなかった。
痛いと言ったところで、稽古がなくなるわけではない。
疲れたと言ったところで、明日になればまた先生はやって来る。
だから言わない。
そうやって、自分の中だけで片づけることに、少年はいつの間にか慣れていた。
少年は三味線を置いたまま部屋を出ると、長い廊下を歩き、庭へ続く縁側を通り過ぎた。いつものように自分の部屋へ戻るつもりだったのに、ふと足が止まる。
窓の向こうに、梅の木が見えた。
もう花はほとんど残っていない。
それでも、その木を見た瞬間、少年の脳裏には自然と詩の顔が浮かんだ。
あの少女なら、何と言うだろう。
疲れたと言えば、「ここでは休んでください」と言うだろうか。
指が痛いと言えば、心配そうに眉を寄せるだろうか。
そんなことを考えている自分に気づいて、少年は小さく笑った。
そして、今日もまた、梅の木の下へ向かった。
◇
「今日は、少し遅かったですね」
詩は少年の姿を見つけると、いつものように近づいていった。
少年は木の根元に座ったまま、詩を見上げる。
「うん」
返事はいつもより短かった。
詩は足を止め、少年の顔をじっと見つめた。いつもならもう少し笑っているのに、今日はどこか疲れている。目元にも、幼い顔には似つかわしくない陰が落ちていた。
「また三味線ですか?」
「分かる?」
少年が苦笑すると、詩も小さく笑う。
「はい。いつもより疲れている顔をしています」
「そんなに?」
少年は自分の頬へ手を当て、少し不思議そうにする。
「顔に出てるのかな」
「少しだけです」
「そっか」
少年は困ったように笑い、それから木の根元へ視線を落とした。
詩も隣へ腰を下ろす。
二人の間には、しばらく静かな時間が流れた。春の終わりの風が枝を揺らし、残り少ない花びらが頭上から静かに落ちてくる。
やがて少年は、自分の手を見つめるようにして、ぽつりと呟いた。
「……痛い」
あまりにも小さな声だったため、詩は一瞬、聞き間違いかと思った。
「え?」
「ここ」
少年が手を差し出す。
その指先は赤くなっていた。幼い手には少し痛々しく見えるほど、皮膚が擦れている。
「痛そう……」
「うん」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫。これくらい」
そう答えながら指を曲げた瞬間、少年の眉がほんのわずかに動いた。
詩は、それを見逃さなかった。
「痛いんじゃないですか」
少年はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……少し」
「だったら、ちゃんと言えばいいのに」
詩は心配そうに、その赤くなった指先を見つめる。
少年は手を引っ込めることもせず、ただ梅の木を見上げた。
「言っても、稽古は終わらないから」
その言葉を聞いた瞬間、詩は何も返せなくなった。
少年は笑っている。
けれど、その笑顔の奥には、まだ幼い子どもには似合わない諦めがあった。
仕方がない。
そう思うことでしか、耐えられないものがあるのだろう。
詩には、その気持ちが少しだけ分かった。
「坊ちゃんは……大変ですね」
ぽつりと零した詩の言葉に、少年はわずかに肩を竦めた。
「うん」
「嫌じゃないんですか?」
問いかけると、少年はすぐには答えなかった。
しばらく梅の枝を見上げたあと、ようやく静かに口を開く。
「嫌なこともあるよ」
「……そうなんですね」
「でも、仕方ないんだ」
少年の声は幼いながらも妙に大人びていた。
「僕がこの家の子だから」
その言葉を聞いた瞬間、詩の胸の奥が小さく痛んだ。
自分も、両親がいなくなってから何度も「仕方ない」という言葉を聞いてきた。
戦争だから仕方がない。
帰ってこないのだから仕方がない。
泣いていても仕方がない。
大人たちは、そうやって悲しみを受け入れさせようとしていた。
けれど詩には、今でも納得できない。
大切な人が帰ってこないことを、「仕方がない」の一言で終わらせることなど、本当はできるはずがない。
だから少年の「仕方ない」という言葉が、ひどく寂しく聞こえた。
詩は少しだけ俯き、自分の掌を見つめてから、静かに顔を上げた。
「……ここでは、仕方なくなくてもいいですよ」
少年が振り向く。
「え?」
「ここでは、嫌なら嫌って言ってもいいと思います」
少年は戸惑うように詩を見る。
「……でも」
その声には、そんなことをしてもいいのか分からないという迷いが滲んでいた。
詩は少し照れたように笑う。
「私しか聞いていませんから」
その言葉に、少年は目を丸くした。
しばらく何も言わずに詩を見つめていたが、やがて、その表情がゆっくりとほどけていく。
「君って、不思議だね」
「そうですか?」
「うん」
少年は、どこか確かめるように詩を見る。
「君と話していると、なんだか変な感じがする」
「変?」
「うん。でも……嫌じゃない」
詩は少しだけ目を伏せ、それから少年につられるように笑った。
「私もです」
その言葉を最後に、二人の間へ春の終わりの風が静かに通り抜けていった。
梅の花はもうほとんど残っていない。
それでも、花がなくなったからといって、この場所で二人が積み重ねてきた時間まで消えるわけではなかった。
◇
そんな日々が、少しずつ積み重なっていった。
詩は少年の話を聞き、少年は詩の話を聞いた。好きなもの、嫌いなもの、苦手なこと、まだ誰にも話したことのない小さな夢。屋敷の中では決して口にしないようなことまで、二人は少しずつ言葉にするようになっていった。
詩は、自分が以前より笑うようになったことに気づいていた。
両親を失った悲しみが消えたわけではない。墓の前に立てば今でも胸が痛むし、母の声を思い出せば涙が出ることもある。それでも、悲しみだけが一日のすべてではなくなっていた。
少年がいる。
それだけで、明日が少しだけ待ち遠しくなる。
少年も同じだった。
屋敷の中でどれほど疲れる一日を過ごしても、詩に会えば自然と笑うことができた。大人たちの前では言えないことも、詩の前なら言葉にできる。疲れたと言えば、詩は責めることなく聞いてくれる。痛いと言えば、心配そうに手を見てくれる。
だから二人は、いつの間にか互いを探すようになっていた。
朝、目を覚ませば、今日は会えるだろうかと考える。
廊下で姿を見かければ、周囲に気づかれないようにほんの一瞬だけ視線を交わす。
そして夕方になれば、どちらからともなく梅の木の下へ向かう。
それが、いつしか二人にとって当たり前になっていた。
けれど二人とも、それをまだ「特別な感情」とは呼ばなかった。
ただ、会いたい。
話したい。
隣にいてほしい。
それだけだった。
◇
ある日の夕方、詩がいつものように梅の木の下へ向かうと、少年はまだ来ていなかった。
いつもなら、詩より先に来ていることのほうが多い。
今日はまだ仕事が終わっていないのだろうか。
そう思いながら、詩は木の根元へ腰を下ろした。
風が吹き、草が揺れる。空は少しずつ夕暮れの色へ変わっていく。それでも、少年は来なかった。
詩は何度も屋敷のほうを振り返った。
けれど、誰も来ない。
「……どうしたのかな」
小さく呟いてみても、答えてくれる人はいなかった。
翌日も、その翌日も、少年は来なかった。
屋敷の中で少年を見かけることはあった。けれど、使用人の子どもである詩が、周囲に人のいるところで親しげに話しかけることはできない。
廊下ですれ違えば、いつも通り頭を下げる。
「坊ちゃん、お疲れさまです」
「ああ」
それだけだった。
本当なら、どうして来ないのか聞きたかった。
具合が悪いのか。
忙しいのか。
何かあったのか。
けれど、聞けない。
屋敷の中では、二人の間に許された距離が決まっている。
だから詩は、何も聞けないまま、また梅の木の下へ向かった。
そして待った。
それでも来ない。
次第に、胸の奥がざわつき始めた。
もしかしたら、自分と会いたくなくなったのではないだろうか。
そんな考えが頭をよぎった瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
理由など何も分からないのに、不安だけが大きくなっていく。
そして三日目の夕方。
いつもの場所へ向かうと――そこに、少年がいた。
「……坊ちゃん」
思わず声が漏れる。
少年が振り返った。
その顔には、いつもより濃い疲れが残っていた。それでも詩の姿を見つけると、どこか安心したように目元を緩める。
「来たんだね」
「はい……」
詩は少年のところまで歩み寄りながら、少しだけ俯いた。
「ずっと来なかったから……」
責めるつもりはなかった。
ただ、心配だった。
その気持ちが、そのまま声に滲んでしまった。
少年は申し訳なさそうに笑った。
「ごめん」
「……何かあったんですか?」
「三味線の稽古が長くて」
「そうだったんですか」
「うん。それに、父上が来ていて……」
少年はそこで言葉を濁した。
詩は、それ以上聞かなかった。
ただ少年の顔を見る。
いつもより疲れている。
そして、手には三味線の撥が握られていた。
「……弾いていたんですか?」
「うん」
「どんな歌を?」
少年は少し考えるように視線を落とした。
「母上が好きだった曲を」
「お母様が?」
「うん」
その言葉を口にしたとき、少年の表情がほんの少しだけ変わった。
手の中の撥へ視線を落としながら、静かに続ける。
「今日も稽古で弾いたんだ」
詩は、その横顔を見つめた。
母上。
その言葉を口にした少年の顔には、ほんの少しだけ寂しさがあった。
「……聞いてみたいです」
少年が顔を上げる。
「え?」
「坊ちゃんが弾く三味線」
詩は小さく笑った。
「聞いてみたいです」
少年はしばらく詩を見つめていた。
やがて、少しだけ照れたように頷く。
「分かった」
◇
翌日の夕方、少年は梅の木の下へ三味線を持ってきた。
それを見た詩は、思わず目を丸くする。
「本当に持ってきたんですね」
「約束したから」
少年はそう言って笑った。
二人はいつものように梅の木の下へ並んで座る。
もう枝には、ほんのわずかな花しか残っていない。けれど、その白い花を見上げれば、満開だった頃の景色がまだ胸の中に浮かぶようだった。
少年は三味線を膝へ置く。
その手つきには、これまで積み重ねてきた稽古の時間が滲んでいた。
詩は黙って、その姿を見つめる。
少年が撥を持ち、弦へ指を触れた。
最初の音が、静かな夕暮れへ流れ出した。
低く、柔らかな音だった。
春の終わりを迎えた空気の中へ、三味線の音がゆっくりと溶けていく。
詩は、ただ少年が弾く音を聞いていた。
そう思っていた。
けれど――次の音が重なり、その旋律が続いた瞬間、詩の表情がふっと変わった。
「……え?」
息が止まる。
知らない曲のはずだった。
少年がこの曲を弾くのを聞くのも初めてだった。
それなのに――知っている。
この旋律を、詩は知っていた。
ずっと遠く、記憶の底へ沈んでいたものが、ゆっくりと水面へ浮かび上がってくる。
夕暮れ。
障子の向こうから差し込む柔らかな光。
畳の上に座る母。
その膝元へ寄り添う幼い自分。
母が三味線を抱えている。
細い指が弦へ触れ、静かな音が部屋の中へ流れていく。
そして母が、こちらを振り返って笑う。
『詩、よく聞いてね』
優しい声だった。
温かな声だった。
それは、もう二度と聞くことのできない声だった。
けれど今、その旋律が目の前にある。
少年の指が、母と同じ音を奏でている。
「……お母さん……」
詩の唇から、かすかな声が漏れた。
少年の指が止まる。
「……え?」
詩は胸元を両手で押さえていた。
息がうまくできない。
胸の奥へ閉じ込めていたものが、一気に押し寄せてくる。
母の笑顔。
膝の上に乗せてもらったときの感触。
髪を撫でてくれた手。
三味線の音。
夕暮れの光。
そして、何よりも忘れたくなかった母の温もり。
忘れていたと思っていた記憶が、堰を切ったように溢れ出してくる。
そのときだった。
どこからともなく、一羽の鶯が飛んできた。
鶯は梅の枝へふわりと舞い降り、まだわずかに残っている白い花のそばで、首を傾げるようにして二人を見下ろしていた。
やがて、静かな夕暮れの中へ澄んだ声を響かせる。
「ホーホケキョ」
三味線の余韻に重なったその鳴き声は、どこか遠い記憶を呼び覚ます合図のようだった。
詩は顔を上げ、枝の上の鶯を見つめる。
なぜだろう。
初めて見るはずなのに、どこかで会ったことがあるような気がした。
その小さな黒い瞳を見つめていると、胸の奥から説明のつかない懐かしさが込み上げてくる。
けれど、その理由を思い出すことはできなかった。
「……お母さん……」
目から涙が落ちた。
一滴、頬を伝い、膝の上へ落ちる。
続いて、また一滴。
それでも詩は涙を拭おうとしなかった。いや、拭うことさえできなかった。
「詩?」
少年が心配そうに呼びかける。
けれど詩は答えられない。
声を出そうとすれば、胸の奥から嗚咽が込み上げてくる。
「……お母さん……」
両手で顔を覆う。
「……会いたい……」
言葉が、途切れ途切れに零れていく。
「会いたいよ……お母さん……」
母に会いたい。
もう一度、あの温かな手に触れてほしい。
もう一度、あの声で名前を呼んでほしい。
幼い詩の胸の奥に押し込めていた願いが、堰を切ったように溢れ続けていた。
鶯は、しばらく枝の上にいた。
泣き続ける詩を静かに見つめるように、首を傾げている。
やがて、小さく羽を震わせると梅の枝を離れ、夕暮れの空へ舞い上がった。
その姿は、木々の向こうへ静かに消えていった。
少年は、どうしていいのか分からなかった。
詩が泣いている。
しかも、今まで見たことがないほど激しく泣いている。
何を言えばいいのか分からない。
慰める言葉も思いつかない。
ただ、このまま一人で泣かせてはいけないということだけは分かった。
少年は三味線をそっと脇へ置き、少し迷ったあと、詩のすぐそばへ座り直した。
「……ごめん」
詩が涙で濡れた顔を上げる。
「どうして……謝るんですか……?」
「泣かせるつもりじゃなかった」
「違います……」
詩は涙を拭いながら、何度も首を横へ振った。
「坊ちゃんのせいじゃ……ありません」
「でも……」
少年の声には、戸惑いが滲んでいた。
詩は胸元を押さえたまま、何度か呼吸を整えようとする。それでも涙は止まらない。
「この曲が……」
震える声で、ようやく続けた。
「お母さんが、昔……弾いていたんです」
少年は息を呑んだ。
「そうだったんだ……」
「忘れていたんです……」
詩の声が震える。
「忘れていたと思っていたのに……聞いたら、全部思い出して……」
また涙が頬を伝う。
「お母さんの手も……声も……匂いも……」
詩は自分の胸元へ手を当てる。
「全部……そこにあったみたいに……」
少年は何も言えなかった。
ただ、詩の言葉を聞いていた。
今まで知っているつもりだった。
詩には両親がいない。
だから寂しいのだろう。
そう思っていた。
けれど、今、目の前で泣いている詩を見て、少年は初めて知った。
寂しい、という言葉だけでは足りないほどの悲しみを、この少女はずっと一人で抱えていたのだ。
その悲しみを、自分が消してあげることなどできない。
母親を失った痛みを、自分が代わってあげることもできない。
それが悔しかった。
けれど、それでも何かしたかった。
少年はしばらく黙って考えていたが、やがて静かに三味線へ手を伸ばした。
「……じゃあ」
詩が涙に濡れた顔を上げる。
「もう一度、弾こうか」
「え……?」
「君のお母さんが弾いていた曲なら……」
少年は少しだけ笑った。
「僕が覚えている限り、何度でも弾くよ」
詩は目を見開いた。
涙で濡れた瞳が、少年をまっすぐ見つめる。
「……いいんですか?」
「うん」
「何度も?」
「何度でも」
少年は三味線を抱え直す。
「君が聞きたいなら」
その言葉を聞いた瞬間、詩の胸の奥がまた熱くなった。
しばらく何も言えなかった。
やがて、涙を拭いながら小さく頷く。
「……ありがとうございます」
かすかな声だった。
けれど、その声には確かな温もりがあった。
少年は撥を持つ。
そして、もう一度、ゆっくりと弦を弾いた。
同じ旋律が流れ始める。
詩は静かに目を閉じた。
梅の香りがする。
春の終わりの風が頬を撫でている。
遠くから鳥の声が聞こえる。
そして、その隣には少年がいる。
母の記憶は、もう苦しみだけではなかった。
母が確かに自分を愛してくれていたこと。
抱きしめてくれたこと。
歌を教えてくれたこと。
そのすべてが、少年の奏でる音によって、もう一度胸の中へ戻ってきた。
涙は頬を伝っていた。
それでも、詩の表情は先ほどより穏やかだった。
少年はそんな詩を、黙って見つめていた。
泣いている。
それでも、さっきより少しだけ安心したような顔をしている。
その姿を見ていると、胸の奥が不思議なほど温かくなる。
守ってあげたい。
泣いているなら、そばにいたい。
悲しいなら、その悲しみを少しでも軽くしてあげたい。
そんな気持ちが、少年の中へ静かに芽生えていた。
それが何という感情なのか、まだ少年には分からない。
ただ、一つだけ分かることがある。
詩が泣いていると、自分まで胸が痛くなる。
詩が笑えば、自分も嬉しい。
だから、できることなら、この少女には笑っていてほしい。
それだけだった。
やがて、三味線の音が静かに止まった。
夕暮れの空は、薄い茜色に染まっていた。
詩はしばらく俯いたまま涙を拭っていたが、やがて顔を上げ、少年へ向き直る。
「……今日は、ありがとうございました」
少年は柔らかく笑った。
「ううん。僕のほうこそ」
「どうして?」
詩が不思議そうに首を傾げる。
少年は少しだけ照れたように視線を逸らし、それから小さく笑った。
「君が少し笑ってくれたから」
詩は一瞬、何を言われたのか分からず、目を瞬いた。
やがて、その言葉の意味が胸へ届くと、頬がほんのり赤くなる。
「……変なの」
「そうかな」
「はい」
二人は顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく笑った。
その笑い声は、さっきまで流れていた涙の名残を、静かに溶かしていった。
梅の花は、もうほとんど残っていない。
けれど、その木の下には、二人だけの大切な時間が確かに残っていた。
詩はまだ知らなかった。
今日、少年が奏でてくれた旋律が、この先何十年という年月を越えて、自分の胸の奥に残り続けることを。
少年もまだ知らなかった。
今、目の前で涙を流し、そして最後には笑ってくれた少女の存在が、やがて自分の人生そのものと深く結びついていくことを。
ただ、この日の二人はまだ幼かった。
だから、それを恋と呼ぶことはできなかった。
会いたい。
隣にいたい。
笑っていてほしい。
そんな小さな願いが、まだ名前を持たないまま、二人の心の中へ静かに根を張り始めていた。
梅の木の下には、夕暮れの風が吹いている。
詩は小さな鞠を抱え、少年は三味線を抱えていた。
二人はいつものように並んで座っている。
しばらくして、詩が小さな声で尋ねた。
「……坊ちゃん」
「うん?」
少年が振り向く。
「また、明日も来ますか?」
その問いに、少年は少しだけ驚いたように詩を見た。
けれど、その声に含まれている小さな不安には、すぐに気づいたのかもしれない。
少年は迷うことなく笑った。
「もちろん」
その一言に、詩の表情がふっと緩む。
「じゃあ、私も来ます」
「ああ。待ってる」
白い花びらが、二人の間を静かに舞った。
もうすぐ梅の季節は終わる。
それでも、二人の時間はまだ始まったばかりだった。
この先、どれほど長い年月が待っているのか。
どれほど多くの出会いと別れが二人を待っているのか。
幼い二人には、まだ何も分からない。
ただ――梅の木の下で交わした小さな約束だけは、その日、確かに二人の胸へ残った。
そして、誰にも知られない二人の時間は、季節が変わっても、静かに続いていった。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
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