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『梅咲けば あなたのもとへ 還る春』  作者: もふ森こはく


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4/7

第四章「梅の花が散る日」

 翌日も、詩は梅の木の下へ向かった。


 その翌日も、その次の日も。


 けれど、季節は二人を待ってはくれなかった。


 枝いっぱいに咲いていた白い花は、春の風に揺られるたび、一枚、また一枚と散り、淡い花びらは土の上へ静かに降り積もっていく。ついこの間まで空を覆うように咲いていた白が少しずつ薄れていくのを、詩は梅の木の下から見上げていた。


 花が散ってしまえば、二人の時間も終わってしまうような気がして、幼い頃の詩は何となく寂しかった。


 けれど少年は、そんな詩の不安など知らないまま、いつものように隣へ座った。


 梅の花がなくなったあとも、二人はそこへ通った。


 青々とした葉が枝を覆う季節になれば、蝉の声が頭上から降り注ぎ、秋になれば乾いた風が庭を渡って、落ち葉が足元を埋めていく。冬が来れば吐く息は白くなり、指先は冷たくかじかんだ。


 それでも少年は時間を見つけて梅の木の下へやって来たし、詩もまた、仕事の合間を縫うようにしてそこへ向かった。


 話をする日もあれば、ほとんど何も話さない日もあった。


 少年が学校や先生のことを話し、詩が屋敷で起きた小さな出来事を話す。


 庭で見つけた花のこと、誰かが失敗した料理のこと、町で聞いた噂話。そんな、とりとめのない話をしているうちに、夕暮れが近づいてくる。


 時には、ただ隣に座っているだけの日もあった。


 それでも、不思議と気まずくはなかった。


 言葉がなくても、隣に相手がいる。


 それだけで、二人には十分だった。


 幼かった少年は、少しずつ背を伸ばしていった。


 詩もまた、少女から娘へと変わっていく。


 顔立ちが変わり、声が変わり、幼い頃には似合っていた服が少しずつ窮屈になっていった。


 それでも梅の木の下へ来れば、二人の間に流れる時間だけは、不思議なほど変わらなかった。


 あの日、少年が口にした言葉も、二人の胸の奥にはずっと残っていた。


『じゃあ、来年もここに来よう』


 来年も。


 その言葉は、いつしか二人にとって当たり前の約束になっていた。


 ただ、二人が成長するにつれて、周囲の世界は少しずつ変わり始めていた。


 少年には、跡取りとして求められるものが増えていった。


 幼い頃から続いていた漢学や書の稽古に加え、礼儀作法や音曲まで、その内容は年を追うごとに厳しくなっていく。屋敷へ出入りする大人たちの数も増え、父親から呼ばれることも多くなった。


 家を継ぐ者として何を学ぶべきか。


 誰と付き合うべきか。


 どのような人間にならなければならないのか。


 幼い頃には見えなかったものが、少しずつ少年の前に姿を現していた。


 ある夕暮れのことだった。


 稽古を終えた少年が廊下を歩いていると、奥の書院から父親の声が聞こえた。


「春真」


 少年は足を止めた。


「はい」


 返事をして、襖の前に立つ。


「こちらへ来なさい」


 少年は静かに襖を開け、父親の前へ座った。


「今日の先生から話は聞いている。学問も作法も、まだ足りないところがあるそうだ」


「……はい」


「これから先、お前はこの家を背負うことになる。自分の好き嫌いだけで物事を決めることはできない。人の上に立つ者には、それ相応の責任がある」


 少年は黙って父親の言葉を聞いていた。


 昔なら、疲れたと言えただろう。


 嫌だと言えただろう。


 けれど、もう子どもではない。


 自分が何者として育てられているのか、その意味を少しずつ理解し始めていた。


「分かりました」


 少年――春真は、静かに頭を下げた。


 書院を出たあと、廊下の向こうに庭が見えた。


 その先に、梅の木がある。


 あの木の下へ行けば、詩がいる。


 そこでは誰も自分を跡取りとして見ない。


 「春真様」と呼ばれることもない。


 ただ、昔と同じように「坊ちゃん」と呼ばれる。


 その呼び方が、今では不思議なほど心地よかった。


 春真は小さく息を吐き、誰にも気づかれないように庭へ向かった。


 梅の木の下では、詩が先に来ていた。


 春真の姿を見つけると、詩は嬉しそうに微笑む。


 その笑顔を見るだけで、胸の奥に張りつめていたものが少しずつほどけていく。


 屋敷の中では、二人の立場は変わらない。


 詩は使用人。


 少年は、この家の跡取り。


 だから、人の目がある場所では、昔と同じように距離を置いていた。


 けれど、梅の木の下だけは違った。


 そこでは、春真はただの少年でいられた。


 詩もまた、使用人ではなく、ただの詩でいられた。


 そうして、何年もの時間が過ぎていった。


     ◇


 梅の花が咲く頃になると、詩はいつも、あの日のことを思い出した。


 初めてこの場所へ来た日のこと。


 両親の墓の前で、ひとり童歌を歌っていた自分に、少年が声をかけてくれた日のこと。


 あの頃は、両親を失った悲しみだけで胸がいっぱいだった。


 明日が来ることさえ怖かった。


 けれど、少年と出会ってから、少しずつ変わっていった。


 悲しい日に、会いたいと思える人がいる。


 嬉しいことがあった日に、話したいと思える人がいる。


 ただそれだけのことが、詩にとっては、生きていくための小さな灯りになっていた。


 だから梅の花を見るたびに、詩は思った。


 この花が咲く限り、きっと自分はここへ戻ってこられる。


 この木の下へ来れば、あの人に会える。


 そう信じていた。


 けれど、その年の春だけは、何かが違っていた。


 梅の花が咲き始めた頃から、屋敷の中にはどこか落ち着かない空気が流れていた。


 大人たちの話し声が増え、廊下を行き交う人の表情も硬い。使用人たちの仕事も以前より増え、食事の内容さえ少しずつ変わっていった。


 町の様子も変わっていた。


 戦争の影が、人々の暮らしへ近づいている。


 食べ物は手に入りにくくなり、物の値段は上がっていく。以前なら当たり前のように手に入ったものが、少しずつ手の届かないものになっていた。


 詩には、何もできなかった。


 ただ働き、与えられた仕事をこなし、いつもの時間になると梅の木の下へ向かう。


 それだけだった。


 その日も、少年は先に来ていた。


 けれど、いつもとは様子が違った。


 梅の木の下に立ったまま、少年は枝を見上げている。白い花が風に揺れるたび、その横顔に淡い影が落ちていた。


「坊ちゃん?」


 声をかけると、少年はゆっくり振り返った。


「ああ……詩か」


 返事はしたものの、その声にはいつもの明るさがなかった。


 詩は少年の隣まで歩き、同じように梅の枝を見上げた。


 今年も白い花が咲いている。


 何年経っても変わらない景色だった。


「綺麗ですね」


「うん」


「今年も咲きました」


 詩がそう言って微笑むと、少年も梅の花を見上げたまま、しばらく黙っていた。


「……うん。今年も咲いたね」


 その声には、妙な寂しさが混じっていた。


 詩は横顔を見つめる。


 聞きたいことはあった。


 何かあったのか。


 どうしてそんな顔をしているのか。


 けれど、聞いてはいけないような気もした。


 少年が背負っているものは、年を重ねるほど増えている。


 昔のように、嫌なら嫌だと言えるわけではない。


 この家を継ぐ者として生きていく未来には、詩の知らない約束や責任がいくつも結びついている。


 それでも、ここにいる間だけは。


 この梅の木の下にいる間だけは。


 昔と同じでいてほしかった。


「……また、来年もここに来られますか?」


 気づけば、詩はそう尋ねていた。


 少年が振り向く。


 一瞬だけ、その目が驚いたように見開かれた。


 けれど、すぐに柔らかな笑顔が戻ってくる。


「もちろん」


 昔と同じ答えだった。


 その一言を聞いただけで、詩の胸を覆っていた不安が少しだけほどけた。


「……よかった」


 詩は小さく笑った。


 少年も笑った。


 そのときの二人は、まだ知らなかった。


 その約束が、果たされることはないのだと。


     ◇


 それは、本当に突然だった。


 詩が屋敷へ戻ったある日の夕方、女中頭から呼び止められた。


「詩」


「はい」


 振り返ると、女中頭はいつもより硬い表情をしていた。


「少し、話があります」


 その声を聞いた瞬間、詩の胸に小さな不安が生まれた。


「……何でしょうか?」


 尋ねても、女中頭はすぐには答えなかった。何かを言い出すことをためらっているようにも見えた。


 やがて、静かに口を開く。


「あなたは、ここを出ることになりました」


「……え?」


 意味が分からなかった。


「ここを……出る?」


「そうです」


「どういう……ことですか?」


 詩は思わず一歩、女中頭へ近づいた。しかし、その表情から何かを読み取ろうとしても、女中頭は目を伏せたままだった。


「決まったことです」


「どこへ……?」


 しばらく沈黙があった。


 そして、女中頭は苦しそうに答えた。


「花街です」


 その言葉を聞いた瞬間、詩の身体から力が抜けた。


「……私が?」


「そうです」


「どうして……?」


 声が震えた。


「私は……何か失敗したんでしょうか?」


「違います」


「じゃあ、どうして……」


 詩の目に涙が滲む。


 女中頭はしばらく黙っていたが、やがて苦しそうに言った。


「この御屋敷の事情です。あなた一人では、どうにもならないことなのです」


 その言葉を聞いた瞬間、詩は何も言えなくなった。


 御屋敷の事情。


 昔から、そうだった。


 自分にはどうすることもできないことが起こるたび、大人たちはそう言った。


 戦争だから。


 両親は帰ってこない。


 仕方がない。


 そして今度もまた――仕方がないのだという。


 詩は唇を噛みしめた。


 胸の奥が、ゆっくりと冷たくなっていく。


「……坊ちゃんは?」


 ようやく出てきた声は、自分でも驚くほど小さかった。


「坊ちゃんには……会えますか?」


 女中頭は答えなかった。


 その沈黙だけで、詩には十分だった。


「……そう、ですか」


 視線が落ちる。


「いつ……出るんですか?」


「明日です」


「明日……」


 その言葉を繰り返した瞬間、詩の胸が大きく締めつけられた。


 明日になれば、この屋敷を出なければならない。


 梅の木の下へ行っても、もう自分はいない。


 少年はそこにいるかもしれない。


 けれど、自分はいない。


 その事実が、何よりも苦しかった。


「……最後に、会わせてもらえませんか?」


 女中頭は困ったように詩を見る。


「坊ちゃんには、何も話さないようにと言われています」


「どうしてですか?」


「それも……御屋敷の事情です」


 また、その言葉だった。


 詩は何も言えなくなった。


 ただ、胸の奥で何かが、音もなく崩れていくのを感じていた。


     ◇


 その夜、詩は眠れなかった。


 布団に横になって目を閉じても、梅の木が浮かんでくる。


 幼い頃、両親の墓の前で歌ったこと。


 少年と初めて言葉を交わしたこと。


 隣に座って、何でもない話をしたこと。


 三味線の音を聞いて、母を思い出して泣いたこと。


 泣いている自分を、少年が何も言わずに見守ってくれたこと。


 笑ったこと。


 約束したこと。


 そのすべてが、明日になれば自分の手の届かない場所へ置き去りにされてしまう。


 詩は布団の中で声を殺して泣いた。


 何度も涙を拭った。


 けれど、涙は止まらなかった。


 翌朝、まだ空が薄暗いうちに、詩は荷物をまとめた。


 持っていけるものは、ほんのわずかだった。


 その中に、幼い頃から大切にしていた小さな鞠を入れた。


 両手で包み込むように握ると、あの日の記憶が胸に蘇る。


 梅の木。


 両親の墓。


 童歌。


 そして、少年。


 屋敷を出る前に、どうしても行きたい場所があった。


 梅の木の下だった。


 誰にも見つからないよう、詩は裏手の細い道を歩いた。朝の光はまだ弱く、庭には薄い霧が残っている。


 梅の木には、今年も白い花が咲いていた。


 風が吹く。


 花びらが一枚、詩の肩へ落ちた。


 詩はそれを指先でそっと拾い上げた。


「……お父さん」


 両親の墓の前へしゃがみ込む。


「お母さん……」


 声が震える。


 けれど、今日は泣いている時間さえ惜しかった。


 詩は墓へ手を合わせ、それからゆっくり顔を上げて梅の木を見つめた。


「……来年も、咲くよね」


 返事はない。


 それでも、詩はしばらく梅の木を見つめていた。


 そして、あの日の約束を思い出す。


『じゃあ、来年もここに来よう』


 あの少年の声が、胸の奥で鮮やかに蘇った。


「……約束したのに」


 頬を、一筋の涙が伝う。


「来年も……って」


 もう一度だけ、この場所へ戻ってきたい。


 もう一度だけ、あの少年に会いたい。


 そう願った。


 けれど、今の詩には、その願いを叶える力がなかった。


 遠くから人を呼ぶ声が聞こえる。


 詩は慌てて涙を拭い、立ち上がった。


 最後に、梅の木の幹へそっと手を触れる。


 幼い頃から何度も寄りかかった幹。


 泣いたときも、笑ったときも、ここにいた。


「……さようなら」


 それが梅の木へ向けた言葉なのか。


 両親へ向けた言葉なのか。


 それとも、少年へ向けた言葉なのか。


 詩自身にも分からなかった。


 ただ、もう行かなければならない。


 詩は小さな鞠を胸に抱き、振り返った。


 その背中を、白い梅の花が静かに見送っていた。


     ◇


 それから、長い年月が過ぎた。


 花街での暮らしは、詩が思っていた以上に厳しかった。


 朝が来ても自由にはなれない。夜になれば、人前で歌い、三味線を弾き、客を楽しませることを求められる。笑いたくない日にも笑い、疲れている日にも人前へ出なければならない。


 故郷へ帰りたい。


 梅の木の下へ戻りたい。


 何度そう思ったことだろう。


 けれど、そんな願いを口にできる場所ではなかった。


 日々を生きることだけで精いっぱいだった。


 それでも、詩は母から教わった童歌を忘れなかった。


 夜が更け、ようやく一人になった部屋で、声を出さずに唇だけを動かすことがある。


 いちかけ、にかけ。


 さんかけて――。


 その歌を心の中で繰り返すたび、胸の奥に梅の木が浮かんだ。


 白い花。


 小さな墓。


 幼い自分。


 その隣に座っていた少年。


 そして、あの日の約束。


 ――来年もここに来よう。


 何年経っても、その言葉だけは消えなかった。


 少年がどうしているのかは分からない。


 もう自分のことなど忘れてしまったかもしれない。


 家を継ぎ、立派な大人になり、自分とはまったく違う世界で生きているのかもしれない。


 そう考えるたび、胸の奥が痛んだ。


 それでも、完全に忘れることはできなかった。


 あの梅の木の下で、自分を「詩」として見てくれた少年だけは。


 自分が何者なのかも、どこから来たのかも問わず、ただ隣に座ってくれた人だけは。


 詩にとって、あの少年との時間は、遠い過去ではなかった。


 生きていくために胸の奥へしまい込んだ、小さな灯りだった。


     ◇


 ある春の夜。


 花街の通りには、柔らかな風が吹いていた。


 梅の花が咲く季節になると、詩はどうしても故郷を思い出す。


 この日も、いつものように客の前で歌を披露していた。


 三味線の音が静かに響き、童歌とは違う、大人のための曲が部屋を満たしていく。


 そのときだった。


 部屋へ通された一人の客を見た瞬間、詩の指が止まった。


 胸の奥で、何かが大きく鳴った。


 理由は分からない。


 ただ、その人が部屋へ入ってきた瞬間から、ひどく懐かしい気配を感じた。


 少年だった頃の面影は、もうほとんど残っていない。


 背は高くなり、肩幅も広くなっている。顔つきも大人び、幼い頃のあどけなさは消えていた。


 それでも、その人がふと顔を上げた瞬間、詩の中で何かが重なった。


 白い梅。


 夕暮れの庭。


 小さな鞠。


 そして、あの声。


「……詩?」


 名前を呼ばれた瞬間、時間が止まったように感じた。


 ずっと忘れたことなどなかった。


 けれど、その声を聞いたのは何年ぶりだろう。


「……坊ちゃん……?」


 その呼び方が、自然に唇から零れた。


 男は息を呑んだ。


 そして、目の前にいる詩をじっと見つめた。


 やがて、その瞳がわずかに揺れる。


「……やっぱり、君だった」


 その声を聞いた瞬間、詩の目から涙が落ちた。


「どうして……」


 それ以上、言葉にならない。


 男もまた、何かを言おうとして口を開き、それから閉じた。


「君こそ……どうして、ここに……」


 その問いに、詩は答えられなかった。


 長い年月の間に、どれほどのことがあったのか。


 どれほど帰りたいと思ったのか。


 どれほど、もう二度と会えないと思ったのか。


 そのすべてを、一言で話せるはずがなかった。


 ただ、目の前にいる人が、あの日の少年だということだけは分かった。


 梅の木の下で、自分の童歌を聞いてくれた少年。


 痛いと言えなかった自分に、何度でも三味線を弾いてくれた少年。


 「また、明日も来ますか」と尋ねた自分に、「もちろん」と答えてくれた少年。


 その人が、今、目の前にいる。


 長い年月を越えて。


「……久しぶり」


 男がようやく口にした。


 詩は涙を拭いながら、小さく笑った。


「……はい」


 その笑顔は、幼い頃と変わらなかった。


 男はその笑顔を見つめたまま、しばらく何も言えなかった。


 やがて、静かに尋ねる。


「……ここから、出たい?」


 詩の胸が震えた。


 自由になりたい。


 そう思わなかった日は、一日もなかった。


 けれど、その願いを口にすることさえ、いつの間にか諦めていた。


 だから詩は、ただ俯いた。


 その仕草を見て、男の胸に、遠い日の感情が蘇った。


 梅の木の下で、自分の隣に座っていた少女。


 母の旋律を聞いて泣いた少女。


 泣いているのに、大丈夫だと言って笑おうとした少女。


 あの頃、自分は何もできなかった。


 守りたいと思っても、どうすればいいのか分からなかった。


 けれど、今は違う。


 自分には、この人をここから連れ出すだけの力がある。


「……僕が、ここから出す」


 詩が顔を上げる。


「え……?」


「君を自由にする」


「そんな……無理です」


 詩は反射的に首を横へ振った。


「無理じゃない」


「でも……」


「僕が決めた」


 静かな声だった。


 けれど、その言葉には、幼い頃にはなかった強さがあった。


 男は詩の目をまっすぐ見つめた。


「もう、君を一人にしない」


 その言葉に、詩の胸が大きく震えた。


 昔、梅の木の下で交わした小さな約束。


 来年もここへ来よう。


 その約束を果たせないまま離れた二人が、長い年月を越えて、今ようやく再び向き合っている。


 詩の目から、また涙が落ちた。


「……本当に……?」


「ああ」


「私を……ここから出してくれるんですか?」


「ああ。必ず」


 その返事を聞いた瞬間、詩は両手で顔を覆った。


 泣き声を押し殺そうとしても、肩が小さく震える。


 男は何も言わなかった。


 ただ、そこにいた。


 昔と同じように。


 詩が泣き終わるまで、静かに隣にいる。


     ◇


 けれど、約束は、その場ですぐに現実になったわけではなかった。


 翌日、男は花街の管理を担う者を訪ねた。


 詩を自由にしてほしい。


 そう告げると、相手は驚いたように眉を上げ、それから薄い笑みを浮かべた。


「お気持ちは分かりますが、そう簡単な話ではありません」


「分かっている」


 男は静かに答えた。


「だから、必要なものを教えてほしい」


「身請けには、それ相応の金が必要です。それに、本人のこれまでの契約もあります。明日から自由に、というわけにはいきません」


 男は黙って相手の話を聞いていた。


 提示された金額は、決して小さなものではなかった。


 けれど、それ以上に問題だったのは金ではない。


「……詩本人は?」


「本人がどうこうという問題ではありません」


 その言葉を聞いた瞬間、男の指先がわずかに強く握られた。


 詩の人生を、本人の意思とは関係のないところで決める。


 それは、幼い頃から何も変わっていない。


「彼女の意思を確認したい」


「お立場のある方が、そこまで一人の女に入れ込むのは、あまり感心しませんな」


 男は顔を上げた。


 その瞳から、先ほどまでの穏やかさが消えていた。


「……僕が誰を迎えるかは、僕が決める」


 低い声だった。


「ですが――」


「必要な金額と手続きを、すべて教えてほしい」


 それ以上、男は感情を露わにしなかった。


 ただ、必要なことだけを聞き、静かに立ち上がった。


 外へ出ると、春の風が頬を撫でた。


 けれど、胸の内には重いものが残っていた。


 詩を連れ出す。


 そう口にしたのは簡単だった。


 けれど、詩が生きてきた年月は、言葉一つで消えるものではない。


 自分が家を継ぐ立場であること。


 花街との契約。


 必要な金。


 そして、自分の家がそれをどう受け止めるか。


 乗り越えなければならないものは、いくつもあった。


 それでも、春真は足を止めなかった。


     ◇


 屋敷へ戻った春真を待っていたのは、父親だった。


「春真。話がある」


 その声を聞いた瞬間、春真には何の話なのか分かった。


 書院へ入る。


 父親はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。


「花街へ行ったそうだな」


「はい」


「何のために?」


 春真は答えなかった。


 父親の視線が鋭くなる。


「昔の使用人の娘だそうだな」


 その言葉に、春真の胸がわずかに痛んだ。


「……詩です」


「名など聞いている」


 父親は冷静だった。


「お前が何を考えているのかもな」


 春真は静かに父親を見つめ返した。


「彼女を身請けします」


 父親の眉がわずかに動いた。


「……何?」


「詩を、花街から出します」


「それがどういう意味か分かっているのか」


「分かっています」


「お前は、この家を継ぐ人間だ。自分の感情だけで動けば、家にも迷惑がかかる」


 春真は拳を膝の上で静かに握った。


 幼い頃から何度も聞いてきた言葉だった。


 責任。


 家。


 跡取り。


 仕方がない。


 けれど、今度だけは、その言葉の前で黙ることができなかった。


「感情だけではありません」


「では、何だ」


 春真はしばらく黙った。


 幼い頃の梅の木が、胸の奥に浮かんだ。


 白い花。


 母の旋律に泣いた詩。


 何も言わず隣に座った自分。


 そして、何もできなかった自分。


「……僕が、あの人に救われたからです」


 父親が黙る。


「僕がまだ何も持っていなかった頃、あの人だけは、僕を跡取りとして見なかった。ただの僕として見てくれた」


 春真の声は静かだった。


 けれど、その一言一言には、長い年月の重みがあった。


「だから今度は、僕があの人を守ります」


「春真」


 父親の声が低くなる。


「お前は、この家を背負う人間だ」


「分かっています」


「ならば、なぜそこまで――」


「分かっているからです」


 春真は父親の言葉を遮った。


 普段なら決してしないことだった。


 けれど、その目には迷いがなかった。


「この家を背負うなら、自分の選んだことから逃げるつもりはありません。もし詩を迎えることが、この家にとって問題になるのなら、その責任も僕が負います」


 書院に沈黙が落ちた。


 庭から風の音が聞こえる。


 しばらくして、父親が静かに息を吐いた。


「……本気なのだな」


「はい」


「一時の情ではないと?」


 春真は答えるまでに、少しだけ時間を置いた。


「一時の情なら、こんなに長く覚えていません」


 父親は何も言わなかった。


 やがて、目を伏せる。


「身請けに必要なものは、自分で用意しなさい」


 春真が顔を上げる。


「……父上」


「家の金を勝手に使うことは許さない。ただし、お前自身の財から出し、正式な手続きを踏むのであれば、私は止めない」


 それは、完全な賛成ではなかった。


 けれど、反対でもなかった。


「ありがとうございます」


 春真は深く頭を下げた。


 父親はそんな息子を見つめたあと、ふと窓の外へ目を向けた。


 庭の梅の木には、今年も白い花が咲いている。


「……あの木の下の娘か」


 春真は顔を上げた。


 その問いに、静かに頷く。


「はい」


 父親はそれ以上何も言わなかった。


     ◇


 身請けの話が進み始めても、すぐには詩を連れ出すことはできなかった。


 必要な金を用意し、契約を確認し、花街側との話を何度も重ねる。


 春真は何度も足を運んだ。


 そのたびに詩は、少し離れた場所からその姿を見つめていた。


 けれど、詩自身は、まだ現実を信じられなかった。


 ある日、二人きりになったとき、詩は俯いたまま言った。


「……坊ちゃん」


「うん?」


「本当に……私を連れて帰るつもりなんですか?」


「そのつもりだよ」


「どうして……?」


 春真は少しだけ眉を寄せた。


「どうしてって?」


「私は、もう昔の私じゃありません」


 詩の指が膝の上で震えていた。


「子どもの頃みたいに、何も知らないわけじゃない。ここで長く生きてきました。いろんなことを見てきました。……もう、あの頃の詩ではないんです」


 春真はしばらく黙っていた。


 やがて、詩の前へゆっくり腰を下ろす。


「僕だって、あの頃の僕じゃないよ」


 詩が顔を上げる。


「昔は、何もできなかった。君がいなくなったときも、追いかけることさえできなかった」


 その声に、悔しさが滲んだ。


「だから、今度は違う」


 春真は詩の目をまっすぐ見つめた。


「僕は、今の君を迎えに来たんだ」


 詩の唇がわずかに震えた。


「昔の君を取り戻したいんじゃない。昔の思い出だけを抱えているわけでもない」


 春真の声は穏やかだった。


「長い時間を生きてきた今の君を、もう一度、僕の隣に迎えたい」


 詩は何も言えなかった。


 目の奥が熱くなっていく。


 そして、とうとう耐えきれなくなったように俯いた。


「……怖いんです」


 小さな声だった。


「何が?」


「幸せになるのが……怖い」


 その言葉に、春真は息を止めた。


 詩は涙をこぼしながら続ける。


「昔も、幸せだと思ったら……なくなりました。お父さんも、お母さんも。梅の木の下で、坊ちゃんと過ごした時間も……突然、全部なくなって」


 肩が小さく震える。


「だから、また幸せになったら……また失うんじゃないかって」


 春真はしばらく何も言わなかった。


 簡単な言葉では、詩の恐怖を消せないことが分かっていた。


 だから、ただ静かに答えた。


「……それでも、僕は君を迎えに行く」


 詩が顔を上げる。


「怖いままでいい」


 春真は穏やかに微笑んだ。


「無理に幸せだと思わなくてもいい。すぐに昔みたいに笑えなくてもいい。それでも、僕は君の隣にいる」


 詩の頬を涙が伝った。


「だから、一緒に帰ろう」


 その言葉を聞いた瞬間、詩は目を閉じた。


 胸の奥に、遠い日の梅の木が浮かんだ。


 そして、あの日と同じように、誰かが自分を待っている。


 今度は、もう子どもの約束ではない。


 大人になった二人が、自分自身の意思で交わす約束だった。


     ◇


 そして、ようやくその日が来た。


 春の風が、花街の通りを静かに抜けていく。


 詩の荷物は、幼い頃から大切にしていた小さな鞠と、わずかな身の回りの品だけだった。


 それだけで十分だった。


 長い年月を生きてきた詩にとって、本当に大切だったものは、荷物として持ち運べるものではなかったからだ。


 門の外に、春真が立っていた。


 詩が姿を現すと、春真は一瞬だけ目を細めた。


 長い年月を越えて、ようやくここまで来た。


「……行こう」


 春真が手を差し出す。


 詩はその手を見つめた。


 幼い頃、梅の木の下で隣に座っていた少年の手。


 今は、大人の手になっている。


 少し迷ってから、詩はその手に自分の手を重ねた。


「……はい」


 二人は歩き始めた。


 背後に花街の町が遠ざかっていく。


 詩は一度だけ振り返った。


 そこには、長い年月があった。


 苦しかった日々も。


 忘れたかった夜も。


 それでも、生きてきた時間そのものだった。


 詩は小さく息を吐き、前を向いた。


 もう振り返らない。


 隣には、あの日の少年がいる。


 今度こそ、自分の意思で迎えに来てくれた人がいる。


     ◇


 屋敷へ戻る道すがら、春真はほとんど何も言わなかった。


 詩もまた、窓の外へ流れていく景色を静かに見つめていた。


 長い年月が過ぎた。


 町も変わった。


 道も変わった。


 自分自身も変わった。


 それでも、胸の奥に残っているものだけは、何も変わっていなかった。


 やがて、見慣れた門が見えてきた。


 詩は思わず息を呑んだ。


 昔と同じ場所に建っている。


 門も、庭も、縁側も。


 記憶の中に残っていた景色が、時間の向こう側から静かに姿を現してくる。


 そして、その奥に――。


 梅の木が見えた。


 白い花が咲いている。


 その瞬間、詩の目から涙が零れた。


「……まだ、あった」


 春真が詩を見る。


「覚えてたんだね」


「忘れるわけ……ありません」


 詩は窓の外を見つめたまま答えた。


「ずっと……覚えていました」


 春真は何も言わなかった。


 ただ、詩と同じように梅の木を見つめていた。


 その視線には、幼い頃から今日まで積み重なった年月が、すべて詰まっているようだった。


 昔は、ただ来年も会おうと思った。


 今はもう、二人とも子どもではない。


 それぞれが長い時間を生きてきた。


 それでも梅の花を見ると、あの日の約束が胸の奥から蘇ってくる。


 ――来年もここに来よう。


 ――ああ。待ってる。


 梅の花は、今年も咲いていた。


 散ってしまった年月を取り戻すように、白い花が静かに枝を覆っている。


 けれど、帰ってきたからといって、すぐに昔へ戻れるわけではなかった。


 詩は屋敷の中へ足を踏み入れた瞬間、自分の身体が強張るのを感じた。


 昔は当たり前だった廊下。


 使用人たちの声。


 畳の匂い。


 障子越しに差し込む光。


 すべてが懐かしいのに、同時に遠かった。


 もう自分は、ここで働く少女ではない。


 けれど、何者としてここにいるのかも、まだ分からない。


 そんな詩の様子を、春真はすぐに気づいた。


「……大丈夫?」


 詩は一瞬だけ迷ってから、微笑んだ。


「はい」


「無理してない?」


「……少しだけ」


 正直に答えると、春真はわずかに目を細めた。


「そうだよね」


 それ以上、無理に何かを言わせようとはしなかった。


 ただ、詩の歩幅に合わせるように、ゆっくり歩いた。


 その優しさが、詩にはありがたかった。


 帰ってきたのだ。


 けれど、ここからまた新しい時間を始めなければならない。


 昔へ戻るのではなく、今の自分として生きていく。


 詩はそう思いながら、静かに前を向いた。


     ◇


 屋敷へ戻ってからしばらくして、詩は自分の身体に以前とは違う変化があることに気づき始めた。


 花街を出る頃から、身体が重い。


 以前なら気にも留めなかった匂いに気分が悪くなり、朝になっても身体が起き上がらない日がある。


 最初は、長い年月の疲れが残っているのだと思っていた。


 けれど、日が経つにつれて、その違和感ははっきりしていった。


 ある朝、詩は縁側に座ったまま、そっと自分の腹へ手を添えた。


 まだ、外から見て分かるほどの変化はない。


 それでも、胸の奥では、何かが静かに確信へ変わっていった。


 詩はしばらく動けなかった。


 嬉しい。


 怖い。


 信じられない。


 いくつもの感情が胸の中で重なり、目の奥が熱くなる。


 自分の中に、新しい命がいる。


 その事実が、怖いほど嬉しかった。


 けれど同時に、詩の胸には一つの不安が生まれた。


 こんな幸せを、自分は本当に受け取っていいのだろうか。


 また失うのではないか。


 そんな恐怖が、遠い日の記憶と一緒に蘇る。


 その夜、詩は春真にそのことを告げた。


 春真は驚いたように目を見開いた。


 すぐには言葉が出なかった。


 やがて、詩の前へ静かに座る。


「……そうか」


 低く、柔らかな声だった。


 詩は不安そうに春真を見つめる。


「……ごめんなさい」


「どうして謝るの?」


「私……」


 言葉が続かない。


 春真は、そんな詩の手をそっと握った。


「謝らなくていい」


 その手には、確かな温もりがあった。


「大丈夫」


 春真は詩の目を見つめた。


「今度こそ、ちゃんと守るから」


 その言葉を聞いた瞬間、詩の目から涙がこぼれた。


 昔、梅の木の下で少年が抱いていた「守りたい」という気持ち。


 それは長い年月を越えて、大人になった今も消えていなかった。


 ただ今度は、言葉だけではない。


 二人の間には、これから生まれてくる小さな命がいる。


 詩はそっと腹へ手を添えた。


 胸の奥に、かすかな温もりが広がっていく。


 長い旅の果てに帰ってきた場所で、詩は初めて、自分の未来を思い描いた。


 この家で生きていく。


 この人と一緒に。


 そして、この子と。


     ◇


 それからの日々は、静かに過ぎていった。


 まだ正式な夫婦ではない。


 けれど、春真は詩を以前のような使用人として扱うことはなかった。


 やがて子どもが生まれたら、きちんと夫婦になる。


 そう約束していた。


 詩にとって、それは遠い夢のようだった。


 幼い頃、梅の木の下で願った「来年も」という約束が、今度はもっと大きな未来へつながっている。


 そして、詩はまだ知らなかった。


 これから自分の人生に、もう一度、大きな幸せが訪れることを。


 その幸せが、やがて再び戦争によって奪われることも。


 ただ今は、帰ってきた。


 長い旅をして、ようやく戻ってきた。


 幼い頃に残してきた、梅の木の下へ。


 詩は庭へ出ると、梅の木を見上げた。


 白い花が風に揺れている。


 あの日と同じように、花びらが一枚、静かに舞った。


 詩は目を閉じ、胸の中であの日の童歌をそっと口ずさむ。


 いちかけ、にかけ。


 さんかけて――。


 風が頬を撫でていく。


 その向こうで、春真が静かに微笑んでいた。


 まだ、二人の間に失われた年月を埋めるには、あまりにも長い時間が残っている。


 けれど、もう急ぐ必要はなかった。


 離れていた年月を、一日ずつ取り戻していけばいい。


 あの日、叶えられなかった「来年も」という約束を、これから先の年月で一つずつ繋いでいけばいい。


 梅の花は、散る。


 どれほど美しく咲いても、やがて風にさらわれ、枝から離れていく。


 けれど、花が散ったからといって、木そのものがなくなるわけではない。


 季節が巡れば、また蕾をつける。


 そして、もう一度咲く。


 詩はまだ知らなかった。


 自分の人生にも、これから幾度となく、花が咲き、そして散っていくことを。


 幸せも。


 悲しみも。


 出会いも。


 別れも。


 すべてが、長い旅の途中にあることを。


 ただ、この瞬間だけは。


 詩は帰ってきた。


 幼い自分が両親の墓の前で泣いていた場所へ。


 少年と初めて出会った場所へ。


 何度も笑い、何度も泣き、明日を待つことを覚えた場所へ。


 梅の木の下へ。


 そして、その隣には、あの日の少年がいる。


 もう少年ではない。


 けれど、詩にとっては、今も変わらない。


「……坊ちゃん」


 小さく呼ぶと、春真が振り返った。


「うん?」


 その声に、詩は微笑んだ。


「……何でもありません」


「そう?」


「はい」


 それだけだった。


 けれど、それで十分だった。


 風が吹く。


 白い花びらが、二人の間を静かに舞っていく。


 梅の花が散り始める季節に、一度離れた二人は、再び梅の花の咲く場所へ戻ってきた。


 そして詩はまだ知らない。


 この帰還が、人生の終わりではなく――もう一つの旅の始まりになることを。


 ただ今は、もう離れない。


 その言葉を口にする必要さえないほど、二人は同じ場所に立っていた。

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。


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最後まで、詩の旅を見届けていただけたら嬉しいです。


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