第二章「梅の木の下の少女」
少女に手を引かれ、詩は屋敷へ向かって歩いていた。
石畳の上を、小さな革靴がこつ、こつ、と規則正しく鳴っている。その音を聞くたびに、詩は不思議な気持ちになった。
つい先ほどまで、自分は療養所の白いベッドに横たわっていたはずなのだ。
身体はとうに自分の意思では動かせなくなり、誰かに名前を呼ばれても返事をすることさえ億劫で、長い年月の底に沈んだ記憶を、掠れた童歌に変えて繰り返していた。
それなのに今は、自分の足で歩いている。
しかも、その身体は驚くほど軽かった。
足を一歩踏み出すたびに、地面から身体がふわりと持ち上がるような感覚がある。
膝も痛くない。腰も重くない。呼吸をするだけで胸が苦しくなることもなく、春の風が頬を撫でるたび、その冷たささえ嬉しく感じられた。
詩は何度も足元へ視線を落とした。
そこには、皺ひとつない小さな手と、まだ細く柔らかな腕、そして自分のために用意されたものらしい小さな革靴がある。
老いた自分の手を、何十年も見つめてきた記憶が残っているからこそ、その手が幼い少女のものになっていることが、どうしても現実とは思えなかった。
詩はそっと息を吸った。
春の空気が肺の奥まで流れ込み、胸が大きく膨らむ。
こんなにも深く息を吸えたのは、いつ以来だっただろう。
思い出そうとしても、記憶は霞の向こうへ逃げてしまう。それでも、身体だけは知っているようだった。この風を知っている。この道を知っている。この土の匂いも、木々のざわめきも、どこか懐かしい。
隣を歩く少女は、そんな詩の様子を不思議そうに見ながらも、握った手を離そうとはしなかった。
「ほら、急いで。もうすぐお昼の支度が始まるんだから」
振り返った少女が、少しだけ歩調を速める。
その声には子どもらしいあどけなさがある一方で、屋敷で働く者としての気遣いも滲んでいた。
詩は引かれるまま足を速めながら、ふと少女の横顔を見つめる。
「……お昼?」
思わず聞き返すと、少女はきょとんと目を丸くした。
「そうよ。今日はお客様が来るんだから、いつもより忙しいの。詩までいなくなったら、みんな困るでしょう?」
叱っているような口調なのに、その言葉の奥には、詩がどこかへ消えてしまったのではないかと心配していた気持ちが残っている。
詩は小さく頷きながら、胸の中で「お客様」「お屋敷」「使用人」という言葉を一つずつ転がした。
どれも、知っている。
確かに知っているはずなのに、いつの記憶なのかだけが分からない。
頭の中に浮かぶ景色は、まるで古い写真を水の中から眺めているようだった。
輪郭は見える。色も分かる。春の光がどの方向から差していたのかさえ、なぜか感じ取れる。
それなのに、その景色の中にいた人々の顔だけが、どうしてもはっきりしなかった。
詩は歩きながら、ふと後ろを振り返った。
先ほどまで自分が立っていた場所に、一本の梅の木が見える。
白い花をいっぱいにつけた枝が青空へ広がり、風に揺れるたび、花びらがかすかに光を弾いていた。
その光景を目にした瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
懐かしい。
ただそれだけではない。
胸の奥深くにしまい込んでいた何かが、梅の花を見たことで突然目を覚ましかけているようだった。
どうして、この木を見ているだけで泣きたくなるのだろう。
どうして、知らないはずの場所を、こんなにも知っているように感じるのだろう。
詩は無意識に小さな胸へ手を当てた。
そこでは心臓が、確かな鼓動を刻んでいる。
どくん。
その音を感じた瞬間、詩はほんの少し目を見開いた。
生きている。
その当たり前だったはずの感覚が、今の詩には奇跡のように思えた。
「どうしたの?」
少女が振り返る。
「……ううん」
詩は慌てて首を横に振った。「なんでもない」と答えた声は、あまりにも幼く、自分のものとは思えないほどだった。
少女は少しだけ眉を寄せたものの、それ以上は何も聞かなかった。
「じゃあ、行こう。早く戻らないと、本当に怒られるよ」
再び手を引かれ、詩は歩き出した。
やがて、木々の向こうに大きな門が見えてくる。
太い柱には長い年月を経た木の艶が残り、門の向こうには広い庭と、その奥に堂々と佇む屋敷があった。瓦屋根の形、庭へ続く石畳、植えられた木々の配置。その一つひとつが、詩の中に眠っていた記憶を静かに揺らしていく。
胸の奥で、何かが疼いた。
知っている。
ここを、自分は知っている。
けれど、いつ、どこで見たのかは思い出せない。
足が自然と止まりかけた。
「どうしたの?」
少女が不思議そうに振り返る。
「……ううん」
詩はもう一度首を振った。「なんでもない」と答えながら、目の前の屋敷を見つめる。
その瞬間、自分の口から漏れた声に、詩自身が驚いた。
あまりにも幼い。
まるで、遠い昔に置き去りにしてきた少女の声だった。
少女は少しだけ首を傾げたが、すぐに詩の手を握り直した。
「ほら、早く。みんな待ってるよ」
詩は促されるまま、門をくぐった。
その瞬間だった。
胸の奥で、何かが小さく揺れた。
――帰ってきた。
そんな言葉が、どこからともなく浮かび上がった。
帰ってきたのだろうか。
それとも、自分は今、初めてここへ来たのだろうか。
詩にはまだ分からない。
ただ一つだけ確かなのは、この屋敷が自分の記憶のどこか深い場所に繋がっているということだった。
そして、その記憶の向こうには――自分が長い人生の中で、決して忘れることのできなかった誰かがいる。
そのことだけは、なぜか分かっていた。
◇
詩がこの町へ来たのは、まだ幼い頃だった。
あの日も、春だった。
けれど、今のような穏やかな春ではない。
空には黒い煙が立ち上り、遠くから絶え間なく轟音が響いていた。町を行き交う大人たちは皆、どこか焦ったような顔をしていて、普段なら聞こえてくる子どもたちの笑い声さえ、あの日はほとんど聞こえなかった。
幼い詩には、何が起きているのか分からなかった。
ただ、父と母がいつもより強く自分の手を握っていることだけは覚えている。
母の手は温かかった。
その温もりに包まれている限り、何も怖くない。たとえ空から聞き慣れない轟音が響いても、道の向こうに黒い煙が立ち上っていても、父と母が一緒なら大丈夫だと、幼い詩は疑うことなく信じていた。
「詩、もう少しだからね」
母がそう言って笑った。
けれど、その笑顔にはいつもの穏やかさがなかった。
「どこへ行くの?」
詩が見上げると、母は一瞬だけ父と顔を見合わせ、それから幼い娘の目線に合わせるように腰を落とした。
「お父さんとお母さんが昔住んでいた町よ」
「おうち?」
「そう。しばらく、そこで暮らすの」
母の指が、詩の髪を優しく撫でる。
「おじさんたちが預かってくださるから、大丈夫よ」
詩には、その言葉の意味を深く考えることができなかった。ただ母が「大丈夫」と言ったから、大丈夫なのだと思った。
やがて辿り着いたのが、この町だった。
父と母の故郷。
そして、二人が昔から知っている人の暮らす屋敷。
詩はそこで預かってもらうことになった。
「しばらく、この子をお願いします」
父が深く頭を下げる。
母はその隣で、詩の髪を何度も撫でていた。
「すぐに戻ってくるからね」
「……すぐ?」
詩が小さな顔を上げる。
「うん。少しだけ待っていて」
母は笑った。
その笑顔を、詩はじっと見つめていた。
「お父さんとお母さんが帰ってくるまで、いい子にしてる」
「偉いね」
母が詩を抱きしめる。
柔らかな身体。
温かな体温。
胸元から聞こえる、母の心臓の音。
詩はその温もりに頬を寄せながら、これからもずっと、この人のそばにいられるのだと思っていた。
父も笑っていた。
「いい子で待っているんだぞ」
「うん!」
詩は元気よく頷いた。
両親は、ほんの少しだけ都へ戻るのだと言った。
必要な荷物を取りに行かなければならない。
それが終われば、またここへ戻ってくる。
だから、待っていればいい。
幼い詩にとっては、それだけの話だった。
父と母が町を出ていく朝、詩は門のところまで二人を見送りに行った。
「行ってくるよ」
父が手を振る。
「うん」
詩も小さな手を振り返す。
母は何度も振り返りながら微笑んでいた。
そして、父がふと思い出したように足を止める。
「詩」
「なあに?」
「寂しくなったら、お母さんに教えてもらった歌を歌うといい」
詩が母を見る。
母は少しだけ笑って頷いた。
「そうね。あの歌を歌えば、すぐに寂しくなくなるわ」
「うん!」
詩は元気よく頷いた。
それが、両親と交わした最後の言葉になった。
父と母は都へ向かった。
けれど――二人が戻ってくることはなかった。
帰る途中で爆撃に遭ったのだと、後になって大人たちから聞かされた。
幼い詩には、その言葉の意味が分からなかった。
爆撃。
死。
どれも、幼い心にはあまりにも遠い言葉だった。
ただ、待っても、待っても、二人が帰ってこなかった。
夕方になっても。
夜になっても。
次の日になっても。
その次の日になっても。
「お父さんは?」
「お母さんは?」
何度尋ねても、大人たちは困ったような顔をした。
誰も、詩の目を真っ直ぐ見ようとはしなかった。
その沈黙が、幼い詩には何よりも怖かった。
やがて、両親の墓が作られた。
屋敷から少し離れた場所。
小高い丘のようになった場所に、二人は静かに眠ることになった。
その墓のすぐそばには、一本の梅の木が立っていた。
春になると、枝いっぱいに白い花を咲かせる木だった。
風が吹くたび、花びらがかすかに揺れ、淡い香りが辺りへ広がっていく。
詩は、その場所へ通うようになった。
そこにいると、両親が近くにいるような気がしたからだ。
小さな鞠を抱えて、屋敷から少し離れた丘まで歩く。墓の前に座り、鞠をつく。
ぽん。
跳ね上がった鞠を受け止める。
また、つく。
ぽん。
ぽん。
ぽん。
誰もいない場所では、その小さな音だけが妙にはっきりと響いた。
「今日はね……」
詩は墓に向かって話しかける。
「ご飯をいっぱい食べたよ」
返事はない。
「それから、お掃除をしたの」
風が吹く。
梅の枝が揺れ、白い花びらが一枚、墓石のそばへ落ちた。
「あとね……」
詩は小さな頭を一生懸命働かせ、その日にあったことを探す。
転んだこと。
叱られたこと。
庭に咲いた花のこと。
誰かに褒めてもらったこと。
そんな些細な出来事を、まるで父と母が目の前に座って話を聞いてくれているかのように、一つひとつ伝えていく。
けれど、どれだけ話しかけても返事はなかった。
風が吹くだけだった。
梅の枝が揺れるだけだった。
それでも詩は通い続けた。
もしかしたら、今日帰ってくるかもしれない。
明日なら帰ってくるかもしれない。
そんな小さな期待を、完全には捨てられなかったのだ。
そして、ある日。
詩は初めて理解した。
お父さんも。
お母さんも。
もう帰ってこない。
その事実は、幼い胸にはあまりにも大きかった。
詩は梅の木の下に座り込んだ。
膝を抱え、俯く。
泣いてはいけないと思った。
泣いたら、本当に二人が帰ってこなくなるような気がしたからだ。
だから、ずっと我慢していた。
けれど、涙は意思とは関係なく頬を伝っていった。
「……会いたいよ……」
小さな声が、梅の木の下に落ちる。
「お父さん……」
涙が頬を伝った。
「お母さん……」
両手で顔を覆う。
「……会いたいよ……」
何度呼んでも、返事はない。
その静けさが、かえって詩の胸を苦しくさせた。
詩はしばらく泣いていた。
やがて袖で涙を拭うと、母に教えてもらった童歌を、小さな声で歌い始めた。
「……いちかけ、にかけ……」
声が震える。
「さんかけて……」
鞠をつく。
ぽん。
「しかけて……」
ぽん。
「ごかけて……」
ぽん。
「ろくをかけ……」
そこで、歌が止まった。
詩は鞠を両手で受け止めたまま、しばらく動かなかった。
なぜか、その先だけは歌えなかった。
母が歌っていたはずなのに。
何度も聞いたはずなのに。
その先へ進もうとすると、胸の奥が苦しくなる。
まるで、その先に何か大切なものが隠されていて、それに触れてしまえば、今よりもっと寂しくなってしまうような気がした。
だから詩は、いつもそこで歌を止めた。
そして、また最初から歌う。
「いちかけ、にかけ……」
ぽん。
「さんかけて……」
ぽん。
歌っている間だけは、寂しさを忘れられた。
歌っている間だけは、母がすぐそばにいるような気がした。
その声が、春風に乗って自分のところまで届いているような気がした。
だから詩は、毎日のように梅の木の下へ通った。
誰にも知られないように、屋敷の仕事が終わったあと、夕暮れになる前の短い時間を見つけて、小さな鞠を抱え、両親の墓へ向かう。
梅の木の下に座る。
鞠をつく。
歌う。
それだけが、幼い詩にとって、失った両親と繋がっているための小さな方法だった。
◇
その日も、詩は梅の木の下にいた。
春の風が頬を撫で、白い花が枝いっぱいに咲いている。空は青く、雲はほとんどなかった。それなのに、詩の胸の中だけは、どこか曇っているようだった。
詩は鞠をつきながら、いつものように歌っていた。
「いちかけ、にかけ……」
ぽん。
「さんかけて……」
ぽん。
「しかけて……」
ぽん。
「ごかけて……」
ぽん。
「ろくをかけ……」
最後の言葉を口にしたところで、詩は鞠を両手で受け止めた。
それ以上は歌わない。
歌えない。
詩は鞠を胸元へ抱き寄せたまま、しばらく俯いていた。
今日は、いつもより寂しかった。
春だというのに風が冷たく感じられる。梅の花はあんなにも綺麗なのに、その白さを見ていると、胸の奥にぽっかりと開いた穴ばかりが大きくなっていくようだった。
詩はゆっくりと墓へ視線を向ける。
「……お母さん」
返事はない。
「……お父さん」
やはり、返事はない。
唇をきゅっと噛む。
泣かないようにしていたのに、視界が滲んだ。
「……会いたいよ……」
その声は、風に消えてしまいそうなほど小さかった。
けれど――。
「その歌を、僕にも教えてくれないか?」
背後から、不意に声がした。
詩の身体がびくりと震えた。
慌てて振り返る。
そこに、一人の少年が立っていた。
年は、詩とそう変わらない。
けれど、その身なりは明らかに違っていた。
上質な着物。
きちんと整えられた髪。
泥一つついていない履物。
屋敷で見かける大人たちが、その姿を見ればすぐに背筋を伸ばし、丁寧に頭を下げる少年だった。
詩も、その姿を知っていた。
屋敷の――。
坊ちゃん。
詩は慌てて立ち上がった。
抱えていた鞠を胸元へ寄せると、反射的に頭を下げる。
「ぼ、坊ちゃん……」
少年はそんな詩を見て、少し困ったように笑った。
「そんなに驚かなくてもいいよ」
優しい声だった。
それでも詩は戸惑いを隠せなかった。
「でも……ここは……」
使用人の子どもが、坊ちゃんと二人きりで話している。
それだけで、何かいけないことをしているような気がしたのだ。
少年はそんな詩の緊張を察したのか、それ以上近づこうとはしなかった。ただ、頭上に広がる梅の枝へ視線を向ける。
「綺麗だね」
白い花を見つめる少年の瞳には、屋敷の中で見せるものとは少し違う穏やかさがあった。
詩はその横顔を見つめ、それから自分も梅の花を見上げた。
「……はい」
短い返事だった。
少年はしばらく黙っていた。
春風が二人の間を通り抜け、枝先の花を揺らしていく。
やがて少年は、先ほどまで詩が歌っていた歌のことを思い出したように、詩へ視線を戻した。
「さっき歌っていた歌」
「……歌?」
「うん。鞠をつきながら歌っていたでしょう?」
少年の視線が、詩の手元にある鞠へ落ちる。
「僕にも教えてくれないか?」
詩は目を瞬いた。
「……私が?」
「うん」
「でも……」
詩は戸惑った。
坊ちゃんに、自分が歌を教える。
そんなことをしていいのだろうか。
屋敷の中では、自分はただの使用人の子どもだ。坊ちゃんに気軽に話しかけることさえ、本来なら許されることではない。
少年は、そんな詩の迷いを感じ取ったのか、少しだけ首を傾げた。
「嫌かな?」
その一言には、ほんの少しだけ不安が混じっていた。
詩は慌てて首を横に振る。
「嫌じゃありません」
「本当?」
「はい……」
答えると、少年の表情がふっと明るくなった。
「じゃあ、お願い」
その笑顔を見た瞬間、詩の胸の奥にあった固いものが、ほんの少しだけほどけた。
詩は鞠を両手で抱え直し、少年を見る。
「……簡単な歌ですよ?」
「それでいい」
「本当に?」
「うん。本当に」
少年はそう答えると、梅の木の下へ腰を下ろした。
詩も、少し迷ったあと、その隣へ座った。
屋敷の中では、決してこんなふうに並んで座ることなど許されない。
坊ちゃんと使用人。
それが二人の立場だった。
けれど、ここには誰もいない。
聞こえるのは、春風が枝を揺らす音と、遠くで鳴く鳥の声。それから、二人のすぐそばへ落ちてくる梅の花びらが、草の上に触れるかすかな音だけだった。
詩は小さく息を吸った。
「……いちかけ」
「いちかけ」
少年が真似をする。
「にかけ」
「にかけ」
「さんかけて」
「さんかけて」
少年の歌声は、どこか不器用だった。
詩は思わず口元を緩めた。
その変化に気づいた少年が、不思議そうに詩を見る。
「今、笑った?」
「……だって、坊ちゃん、少し違います」
「え?」
「歌い方が」
少年は少し恥ずかしそうに眉を下げた。
「そうなの?」
「はい」
「じゃあ、もう一度教えて」
詩は頷いた。
「はい」
今度は、少年が詩の声をよく聞きながら歌う。
鞠が、ぽん、と跳ねる。
白い花びらが風に舞う。
二人の小さな歌声が、梅の木の下で重なっていく。
「いちかけ、にかけ……」
詩が歌う。
「いちかけ、にかけ……」
少年が続ける。
その声を聞きながら、詩は不思議な感覚を覚えていた。
いつも一人で歌っていた歌が、今日は少し違って聞こえる。
同じ歌なのに、寂しくない。
母を思い出しても、胸が締めつけられるだけではない。
隣に誰かがいる。
ただそれだけのことが、こんなにも温かいものだとは、詩は知らなかった。
少年もまた、静かに笑っていた。
屋敷ではいつも大人たちに囲まれている。
先生から学問を教えられ、書を習い、文芸を学び、音曲を覚える。何をするにも「跡取りとして恥ずかしくないように」と言われ、周囲の期待に応えることが当たり前になっていた。
けれど、この梅の木の下では違った。
この少女は、自分が坊ちゃんだから話しかけているのではない。
立派な跡取りになることも、勉強ができることも、家柄がどうであることも知らない。
ただ、一緒に歌っている。
それだけだった。
少年にとって、それは不思議なほど心地よかった。
◇
それから、詩は時々、梅の木の下へ行くようになった。
少年もやって来た。
二人が会うのは、決まって屋敷の外だった。
屋敷の中では、二人は決して親しく話さない。
廊下ですれ違えば、詩はきちんと頭を下げる。
「坊ちゃん、おはようございます」
少年も、何事もなかったように頷く。
「ああ。おはよう」
それだけだった。
その短いやり取りの中には、二人だけが知っている秘密があった。
屋敷の外へ出れば、また会える。
梅の木の下へ行けば、いつものように話せる。
それを知っているだけで、詩は少しだけ一日を頑張ることができた。
そして少年もまた、屋敷の長い廊下を歩きながら、ふと窓の外へ視線を向けることが増えていった。
梅の木が見える。
白い花が見える。
その下に、あの少女がいるかもしれない。
そう思うだけで、胸の奥に小さな灯りがともった。
ある日の夕方。
詩が梅の木の下へ向かうと、少年はすでにそこへ来ていた。
「今日は遅かったね」
待っていた少年がそう言うと、詩は小さく息を弾ませながら頭を下げた。
「お仕事が終わらなかったんです」
「僕もだよ」
少年は苦笑しながら答えた。
「坊ちゃんも?」
「うん。今日は先生が三人も来たんだ」
そう言って少年は、まるで疲れを吐き出すように小さく息をついた。それから梅の枝を見上げながら、今日一日のことを話し始める。
「朝から漢学を習って、昼は書を習って、それから文芸の先生が来て……夕方からは三味線」
「三人……」
詩は目を丸くした。
まだ幼い自分には想像もつかないほど、一日の中にたくさんの勉強が詰め込まれている。
少年は肩を落とした。
「大変でしょう?」
詩が尋ねると、少年は少しだけ黙った。
普段なら、大人たちの前でそんなことは言わないのだろう。
けれど、ここには詩しかいない。
だから少年は、ほんの少しだけ素直になった。
「うん。疲れた」
その言葉を聞いた詩は、少し驚いた。
屋敷の中で見かける少年は、いつも背筋が伸びていて、大人たちの前では決して弱音を吐かない。先生に何を言われても真面目に頷き、言われたことを一つずつこなしている。
そんな少年が、自分の前では「疲れた」と言った。
詩はその言葉を胸の中で何度か繰り返してから、隣に座る少年の横顔を見つめた。
何かしてあげたい。
けれど、自分にできることなど何もない。
そう思いながらしばらく考え、やがて詩は小さな声で言った。
「じゃあ……ここでは、休んでください」
少年が詩を見る。
「ここで?」
「はい」
「……どうして?」
詩は少し不思議そうに瞬きをした。
「だって、疲れているんでしょう?」
それは詩にとって、ごく当たり前のことだった。
「だから、少しだけ休めばいいと思います」
少年は目を丸くした。
誰かに「休んでいい」と言われたのは、もしかすると初めてだったのかもしれない。
屋敷の中では、いつも「もっと学びなさい」「もっと立派になりなさい」と言われる。できたことより、できていないことを数えられる。
けれど、この少女は違った。
何かを求めるわけでもなく、ただ疲れているのなら休めばいいと言う。
少年はしばらく詩の顔を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「……そうだね」
風が吹き、白い梅の花が揺れる。
「じゃあ、少し休もうかな」
「はい」
二人は並んで座った。
しばらく、何も話さなかった。
けれど、不思議と気まずくはなかった。
ただ春の風を感じ、梅の香りを嗅ぎ、遠くから聞こえてくる鳥の声に耳を傾ける。
それだけでよかった。
詩は隣にいる少年をちらりと見た。
少年は目を閉じている。
その表情は、屋敷で見るものよりずっと幼く、年相応だった。
詩はその顔を見ながら、ふと、自分もここでは力を抜いていいのかもしれないと思った。
父と母を失ってから、ずっと胸の中に抱えていた寂しさ。
誰にも言えなかった悲しみ。
それを忘れることはできない。
けれど、忘れなくてもいいのかもしれない。
悲しいままでも、誰かと一緒に笑うことはできる。
泣きながらでも、誰かと歌うことはできる。
そのことを、詩はまだ幼いながら、少しずつ覚え始めていた。
少年のほうも、同じだった。
ここへ来ると、胸の奥に溜まっていた重たいものが少しずつ軽くなる。
先生たちの前では見せられない顔をしてもいい。
疲れたと言ってもいい。
何も話さず、ただ梅の花を眺めていてもいい。
それを許してくれる少女が、そこにいる。
二人にとって、この場所はいつしか、屋敷のどこよりも心を休められる場所になっていた。
誰も知らなかった。
屋敷の裏手にある細い道を抜ければ、梅の木の下に二人がいることを。
少年が詩の話を聞いていることを。
詩が少年の話を聞いていることを。
そして、その時間が二人にとって少しずつ、かけがえのないものになっていくことを。
春の風が吹いていた。
白い梅の花が、枝の先で揺れている。
詩は鞠を膝の上に置き、花を見上げた。
その横で、少年もまた空を見上げていた。
「ねえ」
少年がぽつりと声をかける。
「はい?」
「また、歌ってくれる?」
詩は少年を見た。
「……童歌ですか?」
「うん」
少年は少し照れたように笑う。
「君の歌、好きだから」
その言葉に、詩の胸が小さく跳ねた。
両親を失ってから、あの歌は寂しさと一緒にあった。
母を思い出すための歌であり、ひとりでいることを忘れるための歌だった。
けれど今は、その歌を聞いてくれる人がいる。
詩は少しだけ頬を赤くしながら、鞠を手に取った。
「……じゃあ、歌います」
「うん」
詩が鞠をつく。
ぽん、と小さな音が響く。
「いちかけ、にかけ……」
少年も、すぐ隣で声を重ねる。
「いちかけ、にかけ……」
ぽん。
「さんかけて……」
「さんかけて……」
二人の声が重なるたび、梅の枝が風に揺れた。
白い花びらが一枚、二人の間をゆっくりと落ちていく。
詩はそれを目で追いながら、胸の奥に生まれた小さな温かさを感じていた。
両親を忘れたわけではない。
父も母も、今でも恋しい。
それでも、ひとりで抱えていた寂しさを、ほんの少しだけ誰かと分け合える。
そのことが、詩には嬉しかった。
少年にとっても同じだった。
屋敷では「坊ちゃん」と呼ばれる。
ここでは、ただ一人の少年でいられる。
その違いが、いつしか二人にとって大きな意味を持つようになっていった。
まだ二人は知らない。
この出会いが、自分たちの人生を大きく変えることになるなんて。
この梅の木の下で交わした何気ない歌声が、何十年という時を越えて、再び二人を結びつけることになるなんて。
そして、いつか二人がこの場所から遠く離れ、幾度もの別れを経験し、失い、傷つき、それでもなお、心のどこかでこの場所を探し続けることになるなんて。
そんな未来を、幼い二人はまだ知らない。
ただ、この日の二人は笑っていた。
詩が鞠をつく。
ぽん、と小さな音が響く。
その音に合わせるように、少年が歌う。
白い花びらが風に運ばれ、二人の肩へ静かに落ちる。
少年がそれに気づいて笑い、詩もつられるように笑った。
やがて二人の視線が重なる。
どちらからともなく、また笑う。
そして、二人の小さな歌声が、春の空へ静かに溶けていった。
「いちかけ、にかけ――」
まだ、その歌は途中までしか知らない。
けれど、このときの二人には、それで十分だった。
失ったものをすべて取り戻せなくても。
未来に何が待っているのか分からなくても。
ただ今、この瞬間に隣に誰かがいる。
その温もりだけで、幼い詩の胸にあった寂しさは、ほんの少しだけ薄れていた。
白い梅の花が、風に揺れる。
その枝の向こうでは、青い空がどこまでも広がっている。
まだ、二人は知らなかった。
この春の日が、自分たちの長い旅の始まりになることを。
何度、別れを経験することになるのかも。
何度、失ったものを胸に抱えながら、それでも生きていくことになるのかも。
そして――いつか、もう一度この梅の花の下へ帰ってくることになるのかも。
ただ、白い梅の花だけが、幼い二人を静かに見守っていた。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
もしこの物語が少しでも心に残りましたら、
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