↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『梅咲けば あなたのもとへ 還る春』  作者: もふ森こはく


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/7

第一章「人生の終わりから、始まりへ」

「帰りたい」と思う場所は、ありますか。


そこに、もう会えない人がいたとしても。

 ――いちかけ、にかけ、さんかけて。


 ーーしかけ、ごかけて、ろくをかけ。


 誰もいない部屋に、ひどく掠れた歌声が流れていた。


 窓の外では、冬の名残を含んだ冷たい風が吹いている。暦の上では、もう春の足音が聞こえ始める頃だというのに、大地はまだその訪れを受け入れきれていない。療養所の窓ガラスには薄い曇りが残り、灰色の空から差し込む光も弱く、白い壁にぼんやりとした影を落としていた。


 その静かな一室の窓際に、一台の白いベッドが置かれている。


 横たわっているのは、一人の老婆だった。


 名を、詩《うた》という。


 八十をとうに越えた身体には、長い年月を生きてきた証が刻まれていた。頬は深く痩せ、皮膚は薄く、白くなった髪は枕の上に力なく広がっている。骨ばった腕は布団の上に置かれたまま、指先をわずかに動かすことさえ今の詩には容易ではなかった。


 もう、自分の身体を自由に動かすことはできない。


 寝返りを打つことも、ベッドから起き上がることも、一人ではできない。朝になれば看護師が身体を支えながら上体を起こし、柔らかく煮た食事を少しずつ口へ運んでくれる。それでも最近では、匙が唇に触れても、詩はそれを飲み込むことさえ難しくなっていた。


 かつては自分の足で歩き、誰かのために働き、季節が変われば衣替えをし、庭に咲く花を眺めながら日々を過ごしていた身体も、今ではただ静かに横たわっている。


 名前を呼ばれても、詩はほとんど返事をしなかった。


 何かを尋ねられても、虚ろな瞳を天井へ向けたまま、遠い場所を見つめるような表情を浮かべている。家族が見舞いに訪れた日でさえ、その目の前にいる人が誰なのか、詩自身に分かっているのかどうか、それを確かめることはできなかった。


 けれど――。


 そんな詩にも、最後まで消えなかったものが一つだけあった。


「……いちかけ……」


 今日も、歌っている。


 声はあまりにも細く、少し強い風が吹けば、そのまま掻き消されてしまいそうだった。それでも詩は、乾いた唇をかすかに動かしながら、遠い昔の童歌を繰り返していた。


「……にかけ……さんかけて……」


 ベッドの脇に置かれた小さな机で記録を書いていた若い看護師が、ふとペンを止めた。


 また始まった。


 この歌を聞くのは、もう何度目になるだろう。


 詩は何年も前から、同じ童歌を繰り返していた。誰に教えてもらった歌なのか、いつ覚えた歌なのか。まだ詩が言葉をしっかり話せていた頃に尋ねたこともあったが、詩は答えなかった。ただ遠くを見るような瞳で、どこか懐かしそうに微笑んだだけだった。


 今となっては、その歌について尋ねることさえできない。


 それでも詩は、この歌だけは忘れなかった。


「……しかけて……ごかけて……」


 掠れた声が、静かな部屋の中をゆっくりと漂っていく。


 看護師はペンを置き、詩へ視線を向けた。


 今日の歌声には、いつもとは少し違う響きがあった。


 単に昔の歌を思い出しているようには聞こえない。もっと深いところにある何かを、指先で確かめるような声だった。まるで、長い年月の底へ沈んでしまった記憶を、歌うことで一つずつ手繰り寄せているかのようだった。


「……ろくを……かけ……」


 詩の唇が、そこでゆっくりと止まった。


 看護師は、その続きを知らない。


 詩も、それ以上は歌わなかった。


 いつもそうだった。


 六まで歌うと、まるでその先へ進むことを拒むかのように、静かに口を閉ざしてしまう。


 その先には何があるのだろう。


 誰と歌っていたのだろう。


 そして――なぜ、これほど長い年月が流れても、この歌だけは忘れずにいるのだろう。


 答えは、もう誰にも分からない。


 詩は再び天井を見つめた。


 けれど、その虚ろだった瞳の奥には、ほんのわずかに光が宿っていた。


 今見ているのは、療養所の白い天井ではない。


 無機質な照明も、曇った窓も、薄暗い空も、その瞳には映っていなかった。


 もっと遠い場所。


 もっと古い時間。


 木造の大きな屋敷。


 磨き上げられた長い廊下。


 障子の向こうから差し込む柔らかな春の光。


 庭の隅に立つ一本の梅の木。


 白い花を咲かせた枝の下で、誰かが笑っている。


 小さな男の子だった。


 まだ幼い、あどけない顔。


 その少年が、こちらを見ている。


 何かを話している。


 けれど、その声だけが思い出せない。


 名前も、もうはっきりとは浮かばなかった。


 手を伸ばせば届きそうなのに、記憶は霧の向こうへ逃げていく。


 それでも――。


 その少年が、自分にとってかけがえのない人だったことだけは分かる。


 胸の奥が、懐かしさとも痛みともつかない感情で締めつけられた。


 詩は震える唇を、ほんの少しだけ動かした。


「……ぼっ……ちゃ……」


 声にはならなかった。


 ベッドの脇にいる看護師にも聞こえない。


 けれど詩自身には、確かに聞こえていた。


 ――坊ちゃん。


 その呼び名だけが、長い年月を越えて、胸の奥に残っていた。


 詩はゆっくりと瞼を閉じた。


 もう、疲れていた。


 長い人生だった。


 あまりにも長い時間を生きてきたせいで、自分が何を得て、何を失い、誰を愛し、誰に別れを告げたのか、その境界さえ曖昧になっている。


 大切だった人の顔は、少しずつ記憶の中から薄れていった。


 声も。


 温もりも。


 交わした言葉も。


 それでも、不思議なことに童歌だけは残っていた。


 梅の花だけは忘れなかった。


 そして――あの人のことだけは、完全に忘れることができなかった。


 その日の夕方、詩の呼吸は、それまで以上に弱くなっていた。


 看護師が異変に気づき、静かだった部屋に慌ただしい気配が広がっていく。誰かが名前を呼び、誰かが足音を響かせる。けれど詩には、そのすべてが遠い世界で起きている出来事のように聞こえていた。


 身体が、ゆっくりと沈んでいく。


 深い水の底へ沈んでいくような感覚だった。


 もう何かを考える力も残っていない。


 目を開けることさえ難しい。


 これが最後なのだと、詩自身にも分かっていた。


 不思議と恐怖はなかった。


 ただ、胸の奥に小さな寂しさが残っている。


 長い人生を終えるというのに、最後に思い浮かぶのは、なぜか遠い昔の景色ばかりだった。


 梅の花。


 小さな屋敷。


 春の風。


 そして、誰かの笑顔。


 ――もう一度。


 もう一度だけ、あの場所へ行きたい。


 その願いが、消えかけた意識の奥から静かに浮かび上がった。


 そのときだった。


 ――ことり。


 どこかで、小さな音がした。


 閉じかけていた詩の瞼が、かすかに震える。


 音は窓のほうから聞こえた。


 誰かが窓を開けたのだろうか。


 冷たい風が部屋の中へ入り込み、詩の頬をそっと撫でていく。その風には、療養所の乾いた空気とは違う、どこか懐かしい匂いが混じっていた。


 そして――。


 鳥の声が聞こえた。


 遠くから届いたようでありながら、耳元で囁かれたようでもある、美しい鳴き声だった。


 詩は最後に残された力を振り絞るようにして、ゆっくりと瞼を開いた。


 視界はひどくぼやけている。


 白い壁も、窓も、部屋にいる人の姿も、すべてが滲んで見えた。


 それでも、窓辺に何かがいることだけは分かった。


 一羽の鶯。


 小さな身体を窓枠に止め、丸い瞳で静かに詩を見つめている。


 詩は息を呑んだ。


 初めて見る鳥のはずだった。


 それなのに――。


 その姿を見た瞬間、胸の奥に眠っていた何かが、強く揺さぶられた。


 懐かしい。


 あまりにも懐かしい。


 ずっと昔から知っていたような気がする。


 いや。


 もしかすると、自分が忘れていただけなのかもしれない。


 鶯は逃げなかった。


 人の気配を恐れることもなく、ただじっと詩の瞳を見つめている。


 その丸い瞳を見つめ返した瞬間、詩の中で、途切れていた記憶が一つずつ弾けるように蘇った。


 白い梅の花。


 まだ雪の残る庭。


 春の柔らかな風。


 小さな手。


 土の匂い。


 誰かと並んで歩いた細い道。


 そして――。


 あの少年の声。


『詩』


 胸の奥に、はっきりと響いた。


 忘れていたはずなのに。


 もう二度と聞くことはできないと思っていたのに。


 ずっと探していた声だった。


「……あ……」


 詩の唇が震える。


 虚ろだった瞳に、かつての少女のような光が戻っていく。


 一筋の涙が、深い皺の刻まれた頬をゆっくりと伝った。


 詩は震える唇で、目の前の鶯に向かって言葉を絞り出す。


「……ぼっちゃ……ん……?」


 それは、ほとんど息のような声だった。


 けれど、その一言には、長い年月を越えても消えることのなかった想いが込められていた。


 鶯は答えない。


 ただ、詩を見つめている。


 その瞳は不思議なほど静かで、どこか人の心を知っているようだった。


 やがて――。


 鶯が、静かに羽ばたいた。


 小さな翼が空気を打つ。


 その瞬間、窓の外から眩い光が差し込んできた。


 夕日の光ではなかった。


 白く、柔らかく、それでいて目を開けていられないほど強い光だった。


 光は窓から部屋へ流れ込み、詩の身体を包み込んでいく。


 白い壁が遠ざかる。


 天井が消える。


 ベッドの感触がなくなる。


 点滴の管も、看護師の声も、長年過ごした療養所の気配さえ、すべてが光の向こうへ溶けていった。


 詩は、自分の身体がふわりと浮かび上がるような感覚に包まれた。


 怖くはなかった。


 むしろ、不思議なほど穏やかだった。


 ずっと長い間、忘れていた場所へ帰っていく。


 そんな感覚があった。


 ――帰りたい。


 その思いだけが、胸の奥に残った。


 どこへ帰るのか。


 誰のもとへ帰るのか。


 それすら、もうはっきりとは分からない。


 それでも、帰らなければならない気がした。


 詩は光の中で、かすかに唇を動かした。


「……いち……かけ……」


 最後に歌ったその声は、もう老婆のものではなかった。


 遠い昔の、幼い少女の声だった。


 澄んでいて、柔らかく、春の風のように軽やかな声。


 そして――世界が、白く弾けた。


     ◇

 「ホーホケキョ」


 鳥の声が聞こえる。


 それは、先ほどまで聞いていた鶯の声とよく似ていた。


 詩はゆっくりと瞼を開いた。


「……?」


 最初に目へ飛び込んできたのは、青空だった。


 雲一つない空が、どこまでも広がっている。


 頬を撫でる風は冷たい。けれど、それは療養所の窓から入り込んできた乾いた隙間風とはまるで違っていた。


 土の匂いがする。


 草の匂いがする。


 湿った大地の匂い。


 遠くからは、水が流れる音が聞こえてくる。


 詩はしばらく、その景色を理解できないまま見つめていた。


 やがて、ゆっくりと身体を起こそうとする。


 その瞬間だった。


「……え?」


 身体が動いた。


 詩は驚いて、両手を地面についた。


 軽い。


 あまりにも軽かった。


 つい先ほどまで鉛のように重く、指先一つ動かすことさえ難しかった身体が、嘘のように自由に動く。


 詩は恐る恐る片手を持ち上げた。


 そこにあったのは、長い年月を生きた老婆の手ではなかった。


 小さな手。


 細い指。


 柔らかな肌。


 皺も、染みもない。


 詩はその手を見つめたまま、しばらく何も言えなかった。


「……なに……これ……」


 ようやく漏れた声も、自分のものとは思えないほど幼かった。


 詩は慌てて自分の身体を見下ろす。


 身につけているのは、粗末な白いシャツと濃紺のスカート。ところどころ繕った跡の残る、使用人の子どもが着るような服だった。足元には小さな革靴があり、その靴に収まった足も、驚くほど小さい。


 詩は震える手で、自分の頬へ触れた。


 柔らかい。


 温かい。


 そこには老いの痕跡が何一つない。


「……私……?」


 自分の声を聞いても、信じられなかった。


 ゆっくりと立ち上がる。


 足に力が入った。


 膝も痛まない。


 腰も重くない。


 胸いっぱいに息を吸い込むことができる。


 空気が肺の奥まで入ってくる感覚が、あまりにも新鮮だった。


 詩は無意識に、もう一度深く息を吸った。


 冷たい風が肺を満たす。


 思わず目を閉じるほど、心地よかった。


 ――歩ける。


 その当たり前だったはずのことが、今の詩には奇跡のように感じられた。


 詩は一歩、足を踏み出した。


 土が靴底を受け止める。


 もう一歩。


 身体は何の苦痛もなくついてくる。


 走ることさえできそうだった。


 その事実に驚きながら、詩は周囲を見回した。


 そして――視線が、一つの建物で止まった。


 そこには、大きな屋敷が建っていた。


 白い壁。


 深い木の色をした屋根。


 広々とした庭。


 整然と並ぶ石畳。


 立派な門。


 庭を囲む塀。


 その佇まいには、長い年月を経た屋敷特有の静かな重みがあった。


 なのに、詩にはそれが恐ろしく感じられなかった。


 むしろ――懐かしかった。


 胸の奥が、理由もなく締めつけられる。


 そして、その屋敷の庭の隅に――一本の梅の木が立っていた。


 まだ冷たい風の中で、枝いっぱいに白い花を咲かせている。


 花びらが風に揺れるたび、淡い香りが辺りへ広がっていく。


 詩は、吸い寄せられるようにその梅の木へ歩み寄った。


「……梅……」


 その言葉が自然に口からこぼれた。


 瞬間。


 胸の奥が、大きく震えた。


 知っている。


 この場所を知っている。


 この庭も。


 この屋敷も。


 そして、この梅の木も。


 けれど――いつ、どこで見たのかが思い出せない。


 記憶を探ろうとすると、頭の奥に薄い霧がかかる。


 何かがある。


 確かにここには、自分の人生を変えた何かがある。


 それなのに、手を伸ばせば届きそうな記憶ほど、指の間からこぼれ落ちてしまう。


 詩は梅の花を見上げたまま、眉を寄せた。


 胸の奥が痛い。


 悲しいのか。


 嬉しいのか。


 懐かしいのか。


 それすら分からない。


 ただ、ここに来たことがある。


 そして、ここで誰かと出会った。


 その確信だけが残っていた。


 そのとき――。


「詩!」


 背後から、幼い少女の声が響いた。


 詩が振り返る。


 そこには、同じような使用人服を着た少女が立っていた。


 十歳にも満たないほどの幼い少女で、頬を赤くしながら息を切らしている。髪も少し乱れていて、どうやら屋敷の中から詩を探して、急いで走ってきたらしい。


「こんなところで何をしているの? 早く戻って!」


 少女はそう言いながら、肩で息をしていた。


 詩は答えられない。


 目の前の少女も、何もかもが分からない。


 けれど、その少女が自分を「詩」と呼んだことだけは、はっきり聞こえた。


「……え?」


 詩が戸惑ったように声を漏らすと、少女は不思議そうに眉を寄せた。


「どうしたの? ぼんやりして。お屋敷の中、大変なんだから。早くしないと怒られるよ」


 その言葉には、幼いながらも使用人として身につけた緊張感が滲んでいた。


 詩は少女の顔を見つめたまま、何かを確かめるように尋ねる。


「……ここ……どこ?」


 少女は、きょとんとした顔をした。


「何言ってるの?」


 まるで、どうしてそんな当たり前のことを尋ねるのか理解できないという表情だった。


「ここは旦那様のお屋敷でしょう?」


「……旦那様……?」


 その言葉が耳に入った瞬間、詩の胸がざわめいた。


 旦那様。


 お屋敷。


 使用人。


 そして――。


 坊ちゃん。


 胸の奥に、先ほどの記憶がかすかに浮かび上がる。


 梅の木の下。


 笑っていた少年。


 自分を呼ぶ声。


 けれど、あと少しというところで記憶はまた霧の中へ沈んでしまった。


「詩?」


 少女が心配そうに顔を覗き込んだ。


「大丈夫? 顔が真っ青だよ」


 詩は答えられなかった。


 大丈夫ではない。


 自分が誰なのか。


 なぜここにいるのか。


 ここがいつの時代なのか。


 何も分からない。


 それなのに――。


 この場所から離れてはいけない。


 そんな不思議な感覚だけが、胸の奥に残っていた。


 少女はしばらく詩の顔を見つめていたが、やがて小さく息を吐くと、その手を取った。


「とにかく戻ろう。みんな探してるんだから」


 握られた手は、小さくて温かかった。


 詩はその温もりに触れた瞬間、胸の奥に何とも言えない感情が込み上げるのを感じた。


 懐かしい。


 この手も。


 この温もりも。


 どこかで知っている。


 けれど、思い出せない。


「……待って」


 詩は足を止めた。


 少女が振り返る。


「何?」


 詩は答える代わりに、もう一度だけ梅の木を見た。


 白い花が風に揺れている。


 その向こうに広がる青空が、妙に眩しかった。


 療養所で最後に見た光景と、どこか繋がっているように思える。


 そのとき――。


 一枚の花びらが枝から離れた。


 風に乗って、ゆっくりと空へ舞い上がっていく。


 詩は、その花びらを目で追った。


 花びらは枝の上を通り、その先に止まっていた小さな鳥の近くまで舞い上がった。


 そして、鳥が羽を震わせる。


 ――鶯。


 詩は目を見開いた。


 鶯は逃げなかった。


 ただ静かに、詩を見つめている。


 その瞳を見た瞬間――。


 胸の奥に、懐かしい声が響いた。


『詩』


 詩は息を呑んだ。


 どこから聞こえたのか分からない。


 けれど、確かに聞こえた。


 あの声だった。


 療養所の窓辺で鶯を見たとき、胸の奥に蘇った、あの少年の声。


「……あなた……」


 詩の唇が、無意識に動く。


 少女が不思議そうに見つめる。


「どうしたの?」


「……ううん」


 詩は小さく首を振った。


 まだ、何も分からない。


 鶯が何者なのかも。


 少年が誰なのかも。


 なぜ自分がここへ戻ってきたのかも。


 けれど、鶯の瞳を見ていると、胸の奥にあった不安が少しだけ薄れていく。


 まるで――。


 ずっと自分を待っていた誰かに、ようやく見つけてもらったような気がした。


 少女がもう一度、詩の手を引く。


「行こう、詩。早くしないと、本当に怒られるよ」


 詩は今度は抵抗しなかった。


 少女の手を握り返し、ゆっくりと歩き始める。


 石畳の感触。


 春の風。


 土の匂い。


 梅の香り。


 どれも、長い人生の中で忘れていたはずのものだった。


 それなのに、今の詩には一つ一つが妙に鮮明に感じられた。


 療養所の白い壁に囲まれ、身体を動かすことさえできなくなっていた老婆の自分とは、あまりにも違う。


 足取りは軽い。


 息も苦しくない。


 世界が、こんなにも広い。


 詩は歩きながら、自分の胸に手を当てた。


 心臓が、確かに動いている。


 強く。


 若々しく。


 これから何かを始める者のように。


 その鼓動を感じながら、詩はふと思った。


 もしかすると――。


 自分は死んだのではないのかもしれない。


 死んだのではなく。


 戻ってきたのだ。


 人生の終わりから、始まりへ。


 そう考えた瞬間、胸の奥に一つの言葉が浮かんだ。


 ――旅。


 詩は、その言葉の意味をまだ知らない。


 けれど今、自分が歩いているこの道が、ただ屋敷へ戻るための道ではないことだけは分かっていた。


 これはきっと、自分の人生をもう一度辿るための旅なのだ。


 失ったものを探す旅。


 忘れてしまったものを思い出す旅。


 そして――。


 もう一度、誰かに会うための旅。


 詩は歩みを止めず、屋敷を見上げた。


 大きな門が、少しずつ近づいてくる。


 その向こうに、何が待っているのかは分からない。


 けれど、なぜか怖くなかった。


 梅の花が、風に揺れている。


 枝の上では、鶯が静かに詩を見つめていた。


 その瞳には、長い年月を越えてきた者だけが持つような、深い静けさが宿っている。


 詩はまだ知らない。


 この鶯が、なぜ自分を見守っているのか。


 この屋敷で、誰と出会うことになるのか。


 そして――。


 これから出会うことになる小さな「坊ちゃん」が、いつか自分の人生にどれほど大きな意味を残すことになるのか。


 何も知らない。


 それでも、詩は一歩ずつ進んでいく。


 長い人生の果てに辿り着いた場所は、知らない土地ではなかった。


 そこは、ずっと昔に置き去りにしてきた、自分の人生の始まりだった。


 そして、その始まりには――。


 梅の花が咲いていた。


 童歌があった。


 鶯がいた。


 そして、まだ名前さえ思い出せない、大切な人が待っている。


 詩は小さな手を握り直した。


 少女に引かれるまま、屋敷の門へ向かって歩いていく。


 遠い遠い昔。


 まだ何も知らなかった、小さな少女として。


 人生の最後から始まった、不思議な旅の最初の一歩を踏み出すために。


 梅の花が咲く、この場所から。


 ――すべての始まりへ向かって。

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。


もしこの物語が少しでも心に残りましたら、

作品への「評価」や「ブックマーク」で応援していただけると、とても嬉しいです。


いただいた評価は、これから物語を書き続けていく励みになります。


最後まで、詩の旅を見届けていただけたら嬉しいです。


どうぞよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。