3
アテナに婚約者があてがわれたのは、まだ五歳の頃だった。
王女として生まれたアテナにとって、それはあまりにも早い婚約だった。
けれど当時のガート王国には、そうするだけの事情があった。
将来、王太子となることが決まっていた兄リアムは、いずれ『番の旅』へ出ることになっていた。
獣人族にとって、番は絶対的な存在だ。
番と出会えば、どれほど愛する者が他にいたとしても、その相手を捨ててまで番を選ぶ。
それが獣人族の本能なのだと、幼いアテナでさえ何度も聞かされていた。
だからリアムには婚約者候補こそいたものの、正式な婚約者はなかなか決まらなかった。
一方、姉ニーナには父である国王から深い愛情が注がれていた。
可愛くて仕方がない娘。
そんなニーナに婚約者をあてがうことさえ、父は嫌がった。
貴族たちから婚姻を求められても、「まだ早い」「もう少し待て」そう言って、ことごとく退け続けていたのだ。
その結果、王家の娘でありながら、兄にも姉にも婚約者が決まらないという状況になった。
貴族たちにとって、それは面白い話ではない。
次代の王となるリアムには、番という不確定要素がある。
そして父に溺愛されているニーナには、婚約者すら決まらない。
ならばせめて、第三王女であるアテナを早いうちに有力貴族へ嫁がせ、王家との繋がりを求める者たちを納得させよう。
そんな思惑もあったのだろう。
そしてまだ幼い五歳のアテナに、最初に婚約者が決まった。
「アテナ様、初めまして。黒豹獣人のノワールと申します」
初めて会った少年は、アテナよりずっと大きかった。
黒豹獣人の特徴でもある艶やかな黒髪。
整った顔立ちに、柔らかなヘーゼル色の瞳。
まだ少年と呼ばれる年齢だというのに、その姿にはすでに将来の美貌を予感させるものがあった。
そんなノワールを見上げ、アテナは目を輝かせた。
「ノワール……?」
「はい」
「私の婚約者なの?」
「そうです」
「ずっと一緒にいるの?」
「……はい。アテナ様が嫌でなければ」
その言葉を聞いた瞬間、アテナの顔に満面の笑みが広がった。
「嫌じゃないわ!」
五歳のアテナには、婚約という言葉の意味など分からなかった。
政略結婚という言葉も知らない。
ただ、これから自分のそばにいてくれる人ができる。
それだけが嬉しかった。
黒豹獣人は、獣人族の中でも力を持つ高位貴族だ。
そのため王女であるアテナの婚約者となっても、家格に問題はない。
そしてノワールの年齢は、兄リアムと同じだった。
つまり将来的には、王太子となるリアムを支える立場にもなれる。
王女アテナの婚約者というだけではない。
未来の王太子の義弟という地位まで得られるのだ。
だからこそ、黒豹獣人の一族はこの婚姻を望んだのだろう。
兄弟の中で重要視されていなかったアテナ。
そんな末姫の夫という立場だけを見れば、決して大きな利益があるとは言えない。
けれど、その姉ニーナは国王に溺愛され、兄リアムは次代の王となる。
アテナと結婚すれば、その二人と繋がりを持つことができる。
そう考えれば、ノワールの婚約は黒豹獣人にとって決して悪い話ではなかった。
だが、アテナにはそんな大人たちの思惑など分からない。
ただ、自分のそばに、ずっといてくれる人ができた。
それだけで嬉しかった。
そしてノワールは、その期待を裏切らなかった。
彼はアテナを王女として敬いながらも、決して腫れ物のようには扱わなかった。
婚約者として。
ひとりの人間として。
きちんとアテナ自身を見てくれた。
父に見向きもされず、寂しさを抱えているときには、「大丈夫です。私が傍にいますから」そう言って励ましてくれた。
母に怯えられ、抱きしめてもらえず泣いているときには、「私でよければ……抱きしめます」と少し照れながら両腕を広げてくれた。
幼いアテナは、何度その胸に顔を埋めただろう。
ノワールのその温もりに、何度救われただろう。
嬉しいことがあれば、ノワールは一緒に喜んでくれた。
悲しいことがあれば、黙って隣にいてくれた。
王女だからと持ち上げることもない。
かといって、軽んじることもない。
ノワールはいつだって、アテナの心を一番に考えてくれた。
家族ではない。
けれど、家族よりも自分を見てくれる。
いつしかノワールは、アテナにとって心の支えになっていた。
だからアテナは、兄弟の中で冷遇されてもいじけなかった。
自分にはノワールがいる。
そう思えたからだ。
辛いことがあっても耐えられた。
涙を流した日でさえ、最後には笑うことができた。
ノワールがいてくれる。
その事実が、幼いアテナにとって何より大きな支えだった。
やがて成長するにつれ、アテナは気づいていった。
ノワールは、単なる婚約者ではない。
家族よりも近く、誰よりも心を許せる存在になっている。
いつしか信頼は、愛情へと変わっていた。
アテナにとってノワールは、家族以上に大切な存在だった。
だから自然と、ノワール以外の誰かと結婚する未来など考えられなくなった。
そして、そんな自分なら大丈夫だと思っていた。
いつか自分にも番が現れる。
けれど、ノワールをこれほど大切に思っている自分なら、番と出会ってもきっと抗える。
父のようにはならない。
そう信じていた。
あの日までは……
状況が変わったのは、兄リアムが番と出会ってからだった。
あれほど冷静だった兄が、見る間に変わっていった。
番と出会ったことで苦しみ、葛藤し、やがてその心を壊していった。
そして、その結果として多くの悲劇が起きた。
それを間近で見ていたアテナの胸には、恐怖だけが残った。
もし、自分にも番が現れたら?
もし、本能がノワールを捨てろと叫んだら?
もし、今まで大切にしてきた人が、番ではないという理由だけで、どうでもいい存在になってしまったら?
考えるだけで恐ろしかった。
番とは、愛する人を奪う存在なのではないか。
それまで積み重ねてきた年月も。
思い出も。
信頼も。
何もかも無意味にしてしまう。
一番大切な相手が番ではない。
ただそれだけの理由で、自分の中から消えていく。
それが獣人族の『運命』なのだとしたら……
アテナは、そんな運命を受け入れることができなかった。
「そんなの……おかしいわ」
誰も答えてくれない部屋で、何度そう呟いたか分からない。
ノワールが一番大事な人なのに、それが変わってしまう未来があるかもしれない。
そんな恐ろしい未来を、ただ待っているなんて耐えられなかった。
だからアテナは、自分で答えを探すことにした。
獣人族の歴史。
番に関する古い記録。
過去の王族たちの記録。
番と出会った者たちは、本当に全員が番を選んだのか。
番を拒絶した者はいなかったのか。
もし拒絶した者がいたのなら、その者はどうなったのか。
アテナは必死になって資料を読み漁った。
そして、その隣にはいつもノワールがいた。
「まだ探すのですか?」
「ええ」
「もう夜も遅いですよ」
「それでも探すの。絶対に何かあるはずだもの」
ノワールは止めなかった。
ただアテナの隣に座り、同じように古い資料へ目を通した。
「過去には、番と結婚しない時代もあったはずよ」
ある日、アテナはそう呟いた。
「今の時代は、番と結ばれることが当然だと言われている。でも、昔からそうだったとは限らないわ」
「……そうですね」
「だったら、兄と同じような症状になった王族がいたかもしれないじゃない」
王太子でなくてもいい。
王族の誰か。
あるいは高位貴族でもいい。
番と出会い、心を乱され、それでも番を選ばなかった者がいるかもしれない。
父を見ていれば分かる。
番の力は、とても恐ろしい。
だからこそ、昔の人々は何か対策を考えたはずなのだ。
今の時代では『運命の番』という美しい言葉で語られている。
だが、それが常に幸せをもたらすとは限らない。
むしろアテナにとって『番』は、愛する人を奪う恐ろしい呪縛だった。
古い時代には、番を研究した者がいたはずだ。
けれど、何故か書庫にはそれらの記録が残っていない。
いや……
残っていないのではなく、隠されているのではないか?
その考えに辿り着いた瞬間、アテナの中で何かが繋がった。
王族ならば知っているかもしれない。
そして父ならば、知っていてもおかしくない。
都合の悪い記録を隠すことなど、これまでの父の行動を考えれば十分にあり得た。
アテナは禁書庫へ通うようになった。
許可を取れるものは取り、取れないものは知恵を使って調べ続けた。
古びた本を一冊ずつ開き、埃を払い、何度も同じページを読み返した。
そして……
成人を迎える時期が近づき、リアムの悲劇の死を見送った頃。
アテナはついに、一冊の古びた書物を見つけた。
それは歴史書でも医学書でもなかった。
過去の王族が残した、個人的な日記だった。
そこに記されていたのは、長い年月の中で忘れ去られた、ひとつの事実だった。
『番を解消する魔法が存在する』
アテナは、その一文を何度も読み返した。
「……ある」
震える声が漏れる。
「ノワール……あったわ」
「何がです?」
「番を……解消する方法よ」
ノワールが息を呑んだ。
日記には、かつて番を望まなかった獣人のために、魔法を使える種族を王城へ招き、番との縁を断つ魔法を施していた時代があったと記されていた。
さらに、番への感情を抑える薬も存在するという。
ただし、獣人族は魔法を得意とする種族ではない。
その魔法も薬も、獣人族だけでは作れない。
魔法に長けた種族の住む土地へ行かなければならない。
そこまで読んだアテナは、拳を強く握った。
「番の旅へ出たら、最初に魔法が得意な種族のいる土地へ向かいましょう」
「アテナ様……」
「そこで薬と魔法について教えてもらうの。そうすれば、これから先、番に苦しむ人を減らせるかもしれないわ」
ノワールも静かに頷いた。
アテナとノワール。
二人の婚約は、運命によって結ばれたものではない。
王家と貴族家が話し合い、互いの利益を考えて決められた政略的なものだった。
だから、物語のようなロマンチックな婚約ではないのかもしれない。
けれど二人の間には、長い年月をかけて築き上げてきた信頼がある。
それに、家族以上の情もある。
それは誰かに与えられた運命ではなく、自分たち自身が選び、育ててきたものだ。
だからこそ、アテナはそれを手放したくなかった。
そして、ノワールも同じ気持ちなのが嬉しかった。
「私も……アテナ様以外の相手を考えたことはありません」
その言葉に、アテナの胸が温かくなる。
きっと若い世代には、アテナと同じ気持ちの者も多いはずだ。
リアムの死。
ニーナの死。
王家の中で起きた悲劇は秘密にされている。
けれど、何も噂にならないはずがない。
そして、兄の番だった猫獣人のヘレナ。
親世代には、二人の関係は純愛として語られているのかもしれない。
けれどアテナたち若い世代にとっては、恐怖以外の何ものでもなかった。
愛する者を奪い、家族を壊し、本人の意思すら踏みにじる。
そんなものを『運命』と呼んで美化することなど、アテナにはできなかった。
いつ出会うか分からない番。
それは、今ある幸せを一瞬で壊してしまう爆弾のような存在にも思えた。
だったら、その爆弾から逃げる方法を探せばいい。
番を望まない者が、自分の意思で愛する人を選べるようにすればいい。
そのために、アテナは番の旅へ出る。
そして、自分自身もまた、番という呪縛から逃れるための旅へ。
そう決意して迎えた旅立ちの日。
アテナは王女として、堂々とした姿を見せていた。
それとは反対に、妻を亡くし、娘を亡くし、そして期待をかけていた息子までも失った父は、日に日に衰えていた。
かつて獣人の王として威厳を放っていた姿は見る影もない。
目の下には濃い隈が刻まれ、夜もろくに眠れていないことが見て取れた。
けれどアテナは、そんな父に同情することができなかった。
全ての悲劇の原因は、父自身が作ったものだからだ。
「アテナ、絶対に番を探してこい! これは命令だ!」
父はそう言った。
アテナのすぐ近くには、旅の供となるノワールがいる。
父は知っているはずだ。
アテナとノワールが婚約者であることも。
二人が互いを大切にしていることも。
それなのに……
そのノワールの目の前で、番を探せと言う。
その無神経さが、アテナにはたまらなく嫌だった。
「……分かりました」
そう答えながらも、心の中では別の言葉を繰り返していた。
(私は、あなたの思い通りにはならない)
旅の最初の目的地は、エルフの国アルビレオ。
魔法国家とも呼ばれるその国ならば、何か手掛かりがあるかもしれない。
単純な考えだったかもしれない。
それでもアテナは、藁にも縋る思いでその国へ向かった。
そして、思っていた以上に、あっさりと答えは見つかった。
「ああ、番解消の魔法ですか?」
エルフの魔法使いは、驚くほどあっさりと言った。
「ありますよ」
「……え?」
「私たちエルフも番を感知できますから。番を望まない者のためにも、必要な魔法なのです」
アテナは言葉を失った。
ある。
本当に存在する。
それだけで胸がいっぱいになった。
番を感じる種族は、アテナが思っていたよりも多かった。
むしろ、番をまったく感知できない人族のほうが、エルフにとっては不思議な存在らしい。
そしてエルフからすれば、人族の成長速度はあまりにも早い。
長命なエルフにとって、人族の『年頃』など一瞬のようなものだ。
だからこそ、人族との番は危険だという。
番として結ばれた相手が、あっという間に老いていく。
その現実に耐えられず、エルフの中には苦しむ者もいる。
だからエルフには、番との縁を解消するための魔法が必要だった。
さらに、番への感情を抑えるための薬も存在するという。
「ただ……」
そこでエルフは少し困ったような顔をした。
「体の構造が違う獣人族に、どこまで魔法や薬が作用するかは分かりません」
「……そうですか」
「ええ。ですが、研究することはできます」
その言葉に、アテナの瞳に光が戻った。
すぐに全てが解決するわけではない。
それでも、逃げ道は確かにあった。
番に抗う方法は、ここに存在した。
アテナには、その事実だけで十分だった。
「ありがとうございます……」
アテナは深く頭を下げた。
胸の奥から、じわりと喜びが込み上げてくる。
これで、未来を選べる。
番に出会ったとしても、全てを奪われずに済むかもしれない。
ノワールとの未来を、自分自身の意思で選べるかもしれない。
そして同時に、アテナの中に新たな怒りが湧き上がった。
もしかしたら父は、これを知っていたのではないか。
いや。
きっと知っていた。
父だけではない。
父の世代の貴族たちの中にも、知っている者はいたはずだ。
それなのに隠した。
自分たちが『運命の番』を望むから。
そして、その価値観を次の世代にも押しつけた。
番を望まない者の気持ちなど考えずに。
番に苦しむ者がいても、見ないふりをして。
兄があれほど苦しんだのに、なぜ父は兄から番を忘れさせる方法を探さなかったのか。
姉を傷つけることになると分かっていたはずなのに、なぜ父自身は番への感情を抑える薬を使わなかったのか。
全てを知っていながら、番を求め続けた。
その結果、母を失い、姉を失い、兄まで失った。
それでも父は、まだ番を求めている。
なんて理不尽な国王なのだろう。
アテナは唇を噛みしめた。
父への怒りは、もう抑えられそうになかった。
けれど、その怒りはやがて、ひとつの決意へと変わっていった。
自分は同じ道を歩まない。
父の望む王女にはならない。
番に人生を決められることもしない。
そして、自分と同じように苦しむ者がいるのなら、その者たちにも選択肢を与える。
そう心に決めた。
だから次の目的地を決めたとき、アテナは迷わなかった。
「母の生まれ故郷へ向かいましょう」
隣にいるノワールが、静かにアテナを見る。
「……そこに、何かあるのですか?」
「分からないわ」
アテナは遠くを見つめた。
けれど、不思議な予感があった。
母の故郷。
そこに、自分の運命の番がいる。
そんな気がしてならなかった。
今、アテナの胸にあるのは、期待ではない。
恐怖でもない。
決意だった。
もし、本当に番と出会ったとしても。
どれほど強い本能に襲われても。
どれほど心を揺さぶられたとしても。
「私は、私の人生を自分で選ぶ」
ノワールを愛した年月も。
二人で積み重ねてきた思い出も。
これから築いていくはずだった未来も。
誰かに奪わせたりはしない。
運命という名の呪縛に、自分の心を明け渡したりもしない。
アテナは、強く拳を握った。
「私は絶対に、父の思い通りにはならないわ」
そして、自分自身の番に立ち向かう覚悟を胸に、アテナは母の故郷へ向けて歩き出した。
こんばんは、夢子です。
お読みいただきありがとうございます。
三話目です。
五話完結だとあっという間ですね。
楽しんでいただけたら嬉しいです。




