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母が亡くなって五年後。
兄リアムが成人し、王太子の地位に就くことになった。
それはつまり、兄が「番探しの旅」に出ることが決まったということでもあった。
獣人の中でも、兄は母の血も色濃く受け継いでいた。
髪も瞳も父ほど獣人らしくなく、その身体つきも獣人としては細い。
だからこそアテナは、兄ならばもしかしたら抗えるのではないかと、幼いながらに期待していた。
兄ならば、父のようにはならないかもしれない。
番を見つけたとしても、母に向けられたような狂おしい執着を見せることはないかもしれない。
そんな淡い希望を、アテナは兄に抱いていた。
だが、父は違った。
「リアム、必ず番を見つけてこい!」
それが父の命令だった。
番を探すためなら金は惜しまない。
王太子としての務めなのだから、何を犠牲にしてでも見つけ出すべきだ。
父は当然のことのように、そう言い切った。
けれど兄は、そんな父とは違っていた。
番に対して強い憧れを抱いているわけでもない。
それでも王族として生まれた以上、逆らうことも出来ず、「番探しの旅」もまた王族の義務なのだと受け入れていた。
当時、アテナはまだ十歳。
姉ニーナは十三歳だった。
そして十五歳になった兄は、二人の妹に見送られながら旅立っていった。
あの日の兄の姿を、アテナは一生忘れることはないだろう。
人族の血も濃く受け継いだ兄は、獣人の少年にしては細身だった。
まだ少年らしさの残る身体に王族らしい衣装を纏い、逞しい獣人の護衛たちに囲まれて歩いていく。
そんな兄は、護衛たちよりもずっと小さく、どこか可憐にさえ見えた。
けれど、その顔に浮かんでいたのは、旅立つ者らしい決意ではなかった。
諦めにも似た、静かな表情。
そんな兄が、見送りに来た二人の妹へそっと近付き、誰にも聞こえないような小さな声で囁いた。
「私は父上のようにはならないから、安心しなさい」
その言葉に、アテナは小さく頷いた。
兄もまた、番という存在に疑問を抱いていたのだろう。
何より、父の母への執着を目の前で見続けてきた。
母を愛しているからこそ、父の行動が許せなかった。
愛する相手の意思を無視し、自分の欲望だけを押し付けることが、本当に「愛」なのか。
兄にも、そんな疑問があったのだ。
そして何より、自分も番を得れば、いつか父と同じような人間になってしまうのではないか、と大きな不安を抱えていた。
そう考えれば、番に希望など持てるはずもなかった。
旅立つ兄は、どこまでも義務的だった。
必ず番を見つけるのだと意気込んでいた若いころの父とは正反対。
まるで、番に出会わなければいいと願っているようにさえ見えた。
もちろんアテナも、兄の願いが叶うように神へ祈った。
どうか兄が、番など見つけませんように……
どうか兄が、父のようになりませんように……
幼いアテナに出来ることは、それだけだった。
そして五年後。
嬉しいことに、兄は番を見つけることが出来なかった。
番探しの旅を終え、兄は獣人の国へ戻ってきた。
その後、婚約者候補の中から有力貴族の令嬢を娶り、正式に結婚した。
夫婦仲は良かった。
兄は妻を大切にし、穏やかな家庭を築こうとしていた。
番でなくても、愛のある結婚は出来る。
番でなければ愛せないなどということはない。
兄は言葉ではなく、その生き方そのものによって、貴族たちへ示していた。
アテナはそんな兄を見て、胸を撫で下ろしていた。
やっぱり兄なら大丈夫なのだ。
父とは違う。
そう思っていた。
だからこそ、その幸せがたった一夜で崩れ去ることになるなど、誰も想像していなかった。
獣人の子の成人を祝う夜会。
そこで兄は、一人の令嬢と出会ってしまった。
彼女の名はヘレナ。
猫獣人の娘で、身分はそれほど高くない令嬢だった。
けれど兄は、一目ヘレナを見た瞬間から変わってしまった。
愛おしい。
傍にいたい。
触れたい。
ヘレナの姿が目に入るだけで胸が締め付けられ、彼女の声を聞くだけで心が震える。
今まで感じたことのない感情が、次々と兄の中から溢れ出した。
それは恋と呼ぶにはあまりにも強く、兄自身の意思では止められないほどのものだった。
王太子の地位さえ捨ててもいい。
妻との婚姻さえ壊してもいい。
ただヘレナを自分のものにしたい。
そんな欲望が、兄の心を支配していった。
「いやだ……」
兄は何度も首を振った。
「いやだ、私は父のようにはならない。絶対に……」
その言葉だけが、兄を人として繋ぎ止めていた。
母に無理強いを続けた父。
母の意思を無視し、自分の欲望を愛と呼び続けた父。
そんな父の姿を知っているからこそ、兄は必死に抗った。
番だからといって、相手の人生を奪っていいはずがない。
番だからといって、誰かを傷付けていいはずがない。
そう信じていた。
だから兄は、ヘレナを求める本能に抗い続けた。
けれど、抗えば抗うほど、その苦しみは兄の心を蝕んでいった。
番を求める本能と、父のようにはなりたくないという理性。
その二つに引き裂かれ、兄は少しずつ壊れていった。
やがて番を欲する気持ちが強くなり、兄は妻に触れることさえ、寄り添うことさえ苦痛になっていった。
以前は仲睦まじかった夫婦の間に、目に見えない壁が出来ていく。
妻を大切にしたいという気持ちは残っている。
けれど、心も身体もヘレナを求めてしまう。
兄は妻を傷付けたくない一心で距離を置くようになり、二人の関係は少しずつ冷えていった。
子供を望むことさえ出来ないほどに、二人の仲は変わってしまった。
一方、兄を自分の番だと認識したヘレナもまた、苦しんでいた。
彼女には幼いころからの婚約者がいた。
けれど、自分の番が王太子だなどと誰かに告げられるはずもない。
その上、王太子にはすでに妻がいる。
そして自分は、王族に嫁ぐには身分が低すぎる。
ヘレナに出来ることは何もなかった。
ただ、自分の心を押し殺し、決められた婚約者との結婚へ進むしかなかった。
やがて婚約者との結婚が近付くにつれ、ヘレナは追い詰められていった。
そんな二人の苦しみを知りながら、周囲は救いの手を差し伸べるどころか、甘い言葉で兄を誘惑した。
「王太子なのだから、何でも出来る」
「婚約など破棄させればいい」
「妃など捨ててしまえばいい」
「正式な妃に出来ずとも、第二妃という道もある」
父までもが、そんな言葉を兄に囁いた。
番が見つかったのなら、それを手に入れたいと願うのは当然。
番を何よりも優先することこそ、獣人として正しい。
それこそが、番を求める美学なのだ。
そんな甘く危険な言葉を聞き続けた兄は、少しずつ心の逃げ場を失っていった。
自分は父とは違う。
そう言い聞かせるほど、ヘレナを求める自分自身が恐ろしくなる。
そしてついに、運命の日が訪れた。
兄への想いを募らせたヘレナが、叶わぬ恋を嘆き、家を飛び出したのだ。
そして、その途中で事故に遭い、ヘレナは帰らぬ人となった。
それが偶然だったのか。
それとも、何か別の力が働いていたのか。
真相を知る者は誰もいない。
ただ一つ確かなことは、番を失った兄が、その瞬間から生きる力を失ったことだった。
食事が喉を通らない。
何をしていてもヘレナのことを考えてしまう。
眠っても夢に見る。
目を覚ませば、もう彼女はいないという現実を突き付けられる。
兄は日に日に弱っていった。
人族の血をも濃く受け継いだ兄にとって、獣人としての本能に抗い続けることそのものが、大きな負担になっていたのかもしれない。
あるいは、番を愛さないと決めた自分自身を責め続けたからなのかもしれない。
抗い続けた末に番を失った兄の心には、もう何も残っていなかった。
そして兄は、ヘレナを追うようにして亡くなった。
跡取りすら残さない王太子の死。
その死を前にしても、人々は兄の苦しみから何も学ばなかった。
「番を自分のものにしなかったからだ。情けない」
「番を受け入れていれば、こんなことにはならなかった」
そんな噂だけが広がっていく。
兄が最後まで番を自分のものにすることを拒んだことさえ、愚かな行為だったとされてしまった。
そして父を始めとする者たちは、番への信仰をさらに強めていった。
やはり獣人にとって番は特別なのだ。
番のために死ぬことさえ、尊い。
そんな考えが、兄の死によってむしろ肯定されてしまった。
兄が何を望んでいたのか。
何を恐れていたのか。
そんなことを理解しようとする者は、誰もいなかった。
兄が番探しの旅に出たころ、姉ニーナがぽつりと呟いたことがある。
「私……お父様が怖いのよ……」
その言葉を聞いたとき、アテナは姉の顔を見つめた。
姉は十三歳。
すでに女性らしい身体つきになり始め、母にますます似てきていた。
美しい姉だった。
けれど当時のアテナは、そんな姉に対して少し冷淡だったと言える。
同じ王女でありながら、ニーナは両親の愛を一身に受けていた。
何をしても褒められ、何を望んでも与えられる。
いつだって特別扱いされる姉。
それに対してアテナは、父から見向きもされず、母からは怯えられていた。
貴族たちからも、末の王女だからと軽く扱われることが多かった。
だからこそ、父が姉に執着するのも当然だと思っていた。
愛されすぎて窮屈で可哀想。
そう思ってはいても、当時のアテナには本当の意味でニーナに同情することなど出来なかった。
むしろ、少し羨ましかったのだ。
母が亡くなれば、父の愛は全て姉に向かう。
そして姉も、それを受け入れているのだと思っていた。
だから「怖い」と言われても、深く考えなかった。
それが間違いだったと知ったのは、ずっと後になってからだった。
アテナがまだ幼く、姉の苦しみを理解するには幼すぎたというのもある。
けれど、それだけではない。
ずっと「どうでもいい子供」のように扱われてきたアテナは、両親に愛される姉へ嫉妬していた。
だから姉の言葉を、真正面から受け止めることが出来なかったのだ。
そして、兄が旅立ってからしばらくしたある日。
アテナは、姉が成人を待たずに妊娠したと知らされた。
耳を疑った。
一体、誰が。
何故?
どうして?
そんな疑問が頭の中を駆け巡り、次の瞬間には強い吐き気に襲われた。
姉に男が近付くことなど、許されていなかったからだ。
母が亡くなってからというもの、父は姉に男を近付けようとしなかった。
ようやく出来た婚約者とでさえ、二人きりになることは許されなかった。
それなのに、姉が妊娠する。
そんなことが出来る相手は、一人しかいなかった。
その瞬間、アテナの中で全てが繋がった。
「私……お父様が怖いのよ……」
あの日の姉の言葉。
怯えた顔。
震える声。
あれは、ただ父に愛されすぎて困っているという意味ではなかったのだ。
姉はずっと、父を恐れていた。
そしてアテナは、その恐怖に気付こうともしなかった。
胸の奥が締め付けられた。
申し訳ない。
ごめんなさい。
許して。
そんな言葉では足りないほどの後悔が、アテナの胸に押し寄せた。
優しい姉だった。
大好きな姉だった。
自慢の姉でもあった。
それなのに、つまらない嫉妬から姉の言葉を聞き流してしまった。
もしあのとき、もっと真剣に話を聞いていたら。
もし姉の傍にいてあげていたら。
何かが変わっていたのだろうか。
そう思わずにはいられなかった。
けれど、もう遅かった。
父の子を身籠ってしまった姉は、少しずつ壊れていった。
自分が何者なのかも分からなくなり、現実と夢の境目さえ曖昧になっていく。
そんな状態で、お腹の子が順調に育つはずもなかった。
やがて姉は、死産した子供とともに、その命を散らした。
あまりにも静かな最期だった。
愛されていたはずの姉が。
誰よりも大切にされていたはずの姉が。
こんなにも簡単に、命を奪われた。
父は姉の亡骸を母と同じ墓へ入れた。
そして、自分だけがそこへ通い、二人を見守るようになった。
まるで二人を愛していた証を残し、誰にも奪われないようにしているようだった。
けれど、アテナには分かっていた。
二人を死へ追い込んだのは父だ。
二人を壊したのも父だ。
それなのに父だけが、その事実に気付いていない。
番への愛に狂った父は、二人の死さえも自分との愛を貫いた結果だと思い込んでいた。
またしても「番だから」という言葉が、全てを覆い隠してしまう。
アテナの心には、深い虚しさだけが広がっていった。
そして父の願いとは裏腹に、兄も姉もいなくなった今、ついに父の血を引く子供はアテナ一人になった。
つまりアテナが王太子となり、未来の女王となることが決まったのだ。
王族としての責任も、国を背負う覚悟も、まだ何も分からない。
それでも、このときのアテナには一つだけ、はっきりとした決意があった。
自分は番を愛さない。
絶対に、番という存在に人生を支配させない。
家族を苦しめたもの。
母を奪い、兄を壊し、姉を死へ追いやったもの。
そして、それを「番だから」という言葉だけで正当化してきた父。
それらを、このままにはしない。
王太子となったアテナの胸に、静かな炎が灯った。
家族を苦しめた番制度と父に、いつか必ず終止符を打つ。
それが、幼い王女だったアテナが、未来の女王になると決めた瞬間だった。
おはようございます、夢子です。
本日もお読みいただきありがとうございます。
また、良いね、ブクマ、評価など、すぐに付けて下さった皆様ありがとうございます。とても嬉しかったです。
朝から重い話になりますが、今回は重いものを書きたかったのでお許しください。
夜中、長男猫に何度も起こされて眠いです。
仕事したくなーい。w




