覚えていられる村
叩きつけるつもりで来た言葉が、空を切った。クレフは、マレナの言葉をはねのけなかった。受け止め、その上に、己の場所と、彼女の場所を、線を引き直した。あんたは数える、あたしは顔を返す。二つは、争うものではなかった。二つで、一つであった。
「……分かったよ」とマレナは言った。喉の奥が、つかえた。「あたしが、顔を返す。あんたが間に合わなかった一人に、名を返す。それでいいんだね」
「ああ」とクレフは言った。「それで、いい」
彼は石板に向き直り、炭を当てた。死んだ者の列に、一つ、数を足した。だがマレナは見た。クレフが、その数の隣に、小さく、もう一文字、何かを刻むのを。覗き込まずとも、分かった。
名だ。コリン、と、彼はそこに刻んでいた。
*
それから数日のうちに、村の景色が、目に見えて変わっていった。
北の井戸の前には、太い枝を組んで蓋がしてあった。クレフが封じさせた井戸である。赤水病の出た家は、ことごとく北の谷の井戸の水を飲んでいた——そう数え上げ、クレフは北を封じ、南だけを村の水場と定めた。
だが、井戸を封じるというのは、ただ蓋をすれば済む話ではなかった。
「これを、開けろと言ってるんだ」
北の井戸の前で声を荒げているのは、谷側に畑を持つ男たちであった。北の水は、村の喉を潤すのみならず、谷の畑も潤す水である。蓋をされてからこちら、谷の畑は日に日に乾いていく。水を商う者にとっても、北の井戸は売り物であった。
「うちの畑が干上がる」と、先頭の男が言った。「畑が枯れたら、村は別の死に方をするぞ。喉でなく、腹が干上がって死ぬんだ。井戸の蓋を、外せ」
その男の前に、立ちはだかった者たちがいた。
ネレであった。それから、あの井戸端の若い嫁。三日目に童が戻ってきた、母親たち。
「外させない」とネレが言った。背に、もうピアはいない。ピアは、家で、母を待っていた。だからこそネレは、こうして前へ出られた。「うちの子は、あの水を断ったから、生きてるんだ。北の水を飲んでた家から、子が死んだんだよ。あんた、それを忘れたのかい」
「畑が」と男が言いかけた。
「畑の水なら、雨を待つか、別の手を考えりゃいい」と若い嫁が言った。「だけど、死んだ子は、別の手じゃ戻ってこないんだよ」
数日前まで、ただ井戸端で噂をしていた女たちが、いま、井戸の前に立っていた。最初に信じた者が、信じぬ者を説き伏せる側に回っていた。クレフがそこにいたわけではない。マレナが命じたわけでもない。童を返してもらった親たちが、己の足で、封じられた井戸の前に立った。
これが、と、少し離れて見ていたマレナは思った。これが、あの童の言っていた「民心」というものかい。
あの末子の領主が、いつか、ひとりごちるのを聞いたことがある。知識は半分しか効かぬ、と。残りの半分は、何も知らぬ民にどう信じさせるかだ、と。マレナはそれを聞いたとき、ずいぶん冷たい物言いをする童だと思った。だが、いま、井戸の前に立つネレたちを見ていると、信じさせる、という言い方が正しいのかどうか、分からなくなった。ネレは、信じさせられたのか。それとも、己の童が戻ってきたという、ただそれだけのことが、ネレを井戸の前に立たせたのか。
どちらでもあった。そしてそれは、もう、後戻りのできぬ種であった。
その騒ぎの輪の外に、神官のボードが立っていた。
白髪痩身のボードが、温和な皺を寄せ、封じられた北の井戸を見つめていた。谷側の男に味方するでもなく、母親たちに味方するでもなく、ただ、井戸の前で困じ果てた顔をしていた。
「マレナよ」と、ボードがそばに来たマレナへ、静かに言った。「そなたは、これを、どう見る」
「どう、とは」
「井戸を封じることだ」とボードは言った。「水は、女神の恵みだ。村の真ん中に女神が湧かせてくださった恵みを、人が枝で蓋をして、飲むなと言う。——これは、神聖を犯すことではないのか。私は、毎朝、あの井戸に祈ってきた。その井戸を、いま、人の手が封じている」
ボードの声は、責める声ではなかった。本気で、案じている声であった。マレナは、それを知っていた。この神官は、善人だ。村の誰より、村のことを案じている。だからこそ、その口から出る「女神の摂理」という言葉は、母親たちの胸に、深く届いた。
「だがな、マレナ」とボードは続けた。そして、声がわずかに揺れた。「三年前のあの夏、私は朝も昼も夜も祈った。何百と唱えた。その祈りが何をしたかは、そなたも知っていよう」
マレナは、ボードの横顔を見た。三年前、この神官の祈りは、ただの一人も引き止めはしなかった。それを口に出させまいとするように、彼女は黙していた。
「あの末子のやり方は、私には分からぬ」とボードは言った。「死を数える。井戸を封じる。神聖を犯しているように見える。だが、コリンを除けば、南の水場の童らは、助かった。あの童のやり方では、多くが助かった。——マレナ、私は、何を信じればよいのだ」
その問いに、マレナは答えを持たなかった。
井戸の前では、なお、谷側の男と母親たちが言い合っていた。一方には、童を返してもらった親たちが、助かった命を盾にクレフを信じる側に立ち、もう一方には、畑が干上がると訴える者たちが立つ。そしてその輪の外には、神聖を犯されたと恐れる神官が、己の祈りの無力さに揺れながら立っていた。
そして、その村のどこかには、ゆうべ、コリンを土に還したばかりのハンナの家があった。喜びと悲しみが、同じ村に並んでいた。助かった童を抱く母親と、返せなかった童を悼む母親が、同じ井戸の水を分け合って暮らしている。
民心は、芽生えた。だが、一枚岩ではなかった。
マレナは、南の井戸のほうを振り返った。朝のうちは、あの水がいちばん澄む。その水で、これから村は生き直していく。だが、その水が一人を返せなかったことを忘れる村には、あたしはしたくない、とマレナは思った。
助かった者には、名がある。
返せなかった者にも、名がある。
それを、ぜんぶ、覚えていられる村でなければ——あたしたちは、ただ「領を救ったお方」を拝むだけの村になっちまう。
マレナは、節くれだった手を、井戸の縁にそっと置いた。冷えた石が、手のひらに、ゆっくりと馴染んでいった。




