数には顔がある
「コリン」とマレナは、童の冷えた手を握った。
この童の名を、マレナは知りすぎていた。三年と少し前、この童を取り上げたのは、ほかでもないこの手だ。ハンナの初めての子で、出が悪く、夜通しかかった。明け方、ようやく出てきたコリンが産声を上げたとき、ハンナと二人で泣いた。小さい、と思った。小さいけれど、よく泣く、生きる気のある童だ、と思った。
その同じ手で、いま、冷えていく手を握っている。
「女神さま」とハンナが、童の頭の向こうで膝をついた。「お願いします。この子を、連れて行かないで。まだ、まだ三つです。女神さま」
マレナは祈らなかった。代わりに、椀の水を、唇を湿らせる程度に、幾度も運んだ。せめて喉の渇いたまま逝かせたくはなかった。それだけが、いまのこの手にできることであった。
陽が傾き、家の中が橙から灰へ沈んでいくあいだ、コリンの呼吸は、浅く、間遠になっていった。ハンナの祈りの声は、しだいに言葉の形を失っていった。
夜にかかる頃、コリンは静かに息を引き取った。最後は、苦しまなかった。糸のような脈が、触れて、消えて、もう戻ってこなかった。それだけであった。
マレナは、その童の名を、声には出さず、口の中だけで刻んだ。
——コリン。
助かった列の、すぐ隣に。戻せなかった一人が、確かに、いる。
*
翌日、マレナはクレフに会いに行った。会いに行く、というより、足が勝手に領館のほうへ向いた。
領館といっても、三年前の疫病で住む者のほとんどが死に絶えた、半ば空き家のような館である。クレフは、その一室を使っていた。書きものの板と、帳面と、村中から集めた古布の山。窓辺の机に向かい、クレフは石板に炭を走らせていた。
「クレフさま」とマレナは言った。「コリンが、死んだよ」
クレフは顔を上げなかった。炭の先が、石板の上を、こつ、こつ、と叩くように進んでいた。
「ハンナの子だ」とマレナは続けた。「三つだった。あんたの言った通り、補水が一日、遅れた。深く抜けてからじゃ、口からは間に合わなかった」
「知っている」とクレフは言った。
その声に、マレナは一瞬、かっと血が上った。
「知っている、って」
「昨日の夜、報せが来た」と、クレフは炭を止めて言った。暗い青の目が石板から上がり、マレナを見た。十七にしては、その目は老いている。病人の床ばかり覗いて眠らぬ目であった。「南の水場で塩水を始めた者は、いまのところ全員、峠を越えた。封鎖の前に北の水を飲んでいて、倒れるのが三日目の際までずれ込んだ者が、村に七人。そのうち六人は、間に合った。コリンは、間に合わなかった一人だ」
「一人」
「ああ」とクレフは言った。そして、また石板へ目を落とした。炭が動いた。こつ、と。
マレナは、その石板を覗き込んだ。村の名と、井戸の場所と、生きている者と死んだ者の数が、列をなして刻まれていた。そしていま、クレフの炭は、新しい一行へ向かっていた。死んだ者の列に、一つ、数を足そうとしていた。
「あんた」とマレナは言った。「いま、コリンを、その数に足そうとしてるのかい」
「記録しなければ、次が防げない」と、クレフは言った。淡々と。「倒れるのが遅い童を、最初から疑ってかかる。安心した親に、念を押して回る。井戸を切り替えたあとも、しばらくは塩水を続けさせる。——コリンの死から、それが分かった。これは、無駄にならない」
無駄にならない。
その言葉が、マレナの何かに火をつけた。マレナは机に歩み寄り、持ってきた椀を——コリンの唇に最後まで運んだ、あの塩水の椀を——板の上に、こつ、と置いた。クレフの炭と同じ音がした。
「聞きな、クレフさま」とマレナは言った。声が、自分でも思っていたより低くなった。「あたしはこの手で三十年、生まれるのも死ぬのも見てきた。前にも言ったね。あんたの数えてるその数ってのはね、ぜんぶ顔があるんだよ。あの井戸の板の上で、あんたは分かったような顔をした。だけど、ほんとうに分かってるのか、もういっぺん確かめに来たんだ」
クレフは、炭を止めた。
「コリンは、あたしが取り上げた子だ」とマレナは続けた。「夜通しかかって、明け方に出てきて、ハンナと二人で泣いたんだ。小さいけど、生きる気のある子だって、あたしはそう思ったんだ。その子が、ゆうべ死んだ。あんたの石板の上じゃ、それは『間に合わなかった一人』で、死んだ者の列に足す一行かもしれない。だけどね」
マレナは、椀を指で押した。
「コリンは、あんたの一行じゃない。あの子には、顔がある。名前がある。あたしが取り上げて、ハンナが祈って、ゆうべ、あたしの手の中で冷たくなった、コリンって子だよ。それを、その他大勢の一に足して、『無駄にならない』で済ますんなら——あんたは、死神さまのままだ」
館の一室が、静まった。窓の外で、梁が一度、風に鳴った。
クレフは、しばらく何も言わなかった。炭を置いた。机の上で、痩せた手が組まれた。マレナは、その手を見ていた。十七の少年の手にしては、節が目立つ。だが、童を取り上げる手とは違う。これは、数える手だ。
やがて、クレフが口を開いた。声は、やはり淡々としていた。だが、その淡々の底に、別の重さが沈んでいるのを、マレナははじめて聞き取った。
「私はかつて」と、クレフは言った。誰のことを言っているのか、マレナには分からなかった。前世、という言葉を、この童が口にしたことはない。「とても多くの死を、数えたことがある。万を超える数を。一日に何人、どこで、何の病で。表にして、線を引いて、おおもとを突き止めた。突き止めて、それで——」
クレフの目が、組んだ己の手に落ちた。
「一人の手も、握れなかった」
マレナは、息を止めた。
「数えることはできた。減らすことも、いくらかはできた。だが私は、その万の中の、誰の名も知らなかった。誰の枕元にも座らなかった。誰の手も、握らなかった。私にとってそれは、ずっと、数だった。だから——」
クレフは顔を上げた。暗い青の目が、まっすぐマレナを見た。老いた目の奥に、十七には見合わぬ、何か古い悔いがあった。
「だから、君に頼んでいる」
「あたしに」
「私は、数を否定しない」とクレフは言った。「数えなければ、コリンの次が防げない。だから私は、これからもコリンを石板に刻む。次の母親が、念を押されて、塩水を一日早く始めるために。それは、私がやる。やらなければならない」
炭を、彼は手に取り直した。だが、すぐには石板へ向けなかった。
「だが、君に頼んでいるのは、その逆だ」とクレフは言った。「私が数に足してしまうものに、君は、顔を返してくれ。名を返してくれ。私が一行にしてしまうものに、君が、コリン、と呼んでくれ。——私の手は、もう、握れぬ手になってしまった。だから、君の手がいる」
マレナは、机の上の椀を見た。それから、組まれていたクレフの手を見た。




