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間に合わなかった一人

 南の井戸は、朝のうちがいちばん澄む。


 マレナは桶を縄に結わえ、井戸の縁に腹を当てて落とした。木の桶が暗がりへ吸い込まれ、ひと拍おいて、ぽちゃ、と水を打つ音が返る。三日前まで、この音はただの水汲みの音であった。いまは違う。この水で子を生かす、とマレナは思う。手のひらほども深くない、ただの井戸の水で。


 縄を手繰ると、節くれだった指の関節が、朝の冷えに軋んだ。四十路の半ばを過ぎ、骨が天気を覚えるようになった。それでもこの手は、三十年、生まれるのも死ぬのも掬ってきた手である。そう容易くは、言うことをきかなくならない。


 桶を縁へ上げ、水を移しているところへ、足音が二つ重なって近づいた。一つは大人の、一つは小さな、はだしの足音。


「マレナさん」


 声で誰だか分かった。振り返ると、ネレが立っている。背に娘のピアを負っていた。ピアはもう自分で歩ける齢だが、まだ足に力が戻りきらぬのだろう、母の背の温みに頬を埋め、寝ぼけたような目でこちらを見ていた。三日前、この童は床の上で乾いた喉を鳴らし、出すものだけを出して、瞼の裏が黄ばんでいた。果てた童と、同じ顔をしていた。


「ピア」とマレナは桶を置き、童の前にしゃがんだ。「歩いてきたのかい」


「途中まで」とネレが笑った。笑うのと泣くのと、ほとんど見分けのつかぬ顔であった。「途中で足が止まって、おぶってきました。マレナさん、あたし——」


 そこから先が続かなかった。ネレは口を開けたまま、しゃくりあげて、井戸の縁に手をついた。


「礼なんか、いらないよ」とマレナは言った。「あたしは水を運んだだけだ」


「水を、運んだだけ」とネレは繰り返した。「その水で、ピアは戻ってきたんです」


 戻ってきた、というその言い方を、マレナは胸の奥で受けた。あの童は半ば、向こうへ行きかけていた。塩と、ほんのひとつまみの甘み——蜂蜜が手に入らねば、果実を煮詰めたものでもよい——それを溶いた水を、匙で、半日かけて少しずつ流し込んだ。あの坊やが、いや、あの末子の領主が、そう言ったからである。腹を下した童から抜けていくのは、水と塩だ。ゆえに水と塩を、抜ける速さより速く戻せ、と。


 抜ける速さより速く。あのときマレナは、なんと即物的な物言いをする童か、と思った。だが、その即物的な物言いの通りにやってみれば、ピアは戻ってきた。


 水場には、いつのまにか村の女たちが集まっていた。朝の水汲みは女の仕事であり、井戸端はもとより噂の市である。だがこの数日、噂の中身が変わっていた。


「うちのも助かった」と、桶を抱えた若い嫁が言った。「三日目に、ぱたっと止まったんだよ。下すのが。死神さまが——」


 そこで嫁は言い直した。


「死神さまじゃなくて、クレフさまが、北の水を飲むなって。それで、南の水だけにして、塩と甘みの水を飲ませて」


「死神さま」とは、つい数日前まで、村が末子の領主につけていた渾名であった。病人の床を一軒ずつ回り、誰がいつ、どの井戸の水を飲んで、何日で倒れたかを、淡々と石板に刻んでいく。死を数える者。司祭でもないのに、死を数える者。女神へ還すべき魂を、板の上の数に変えてしまう、不気味な少年。ゆえに皆、死神さま、と呼んだ。


 その渾名が、いま、ほどけかけている。


「クレフさまが、領を救ったんだ」と、年かさの女が言った。井戸の縁を撫で、自らに言い聞かせるように。「あたしらの領を、あのお方が救ったんだよ」


 領を救ったお方。


 マレナはその言葉を聞きながら、桶の水面に揺れる己の顔を見ていた。喜びがなかったわけではない。むしろ、胸の真ん中が熱くなるほど嬉しかった。ピアが戻ってきた。あの嫁の童も戻ってきた。三日目に、死が止まった。三年前のあの夏、人口の三割を攫われるまで止まらなかった死が、今度は止まった。途中で。村が空になりきる前に。


 だが、嬉しさの底に、もう一つの顔があった。


 助かった童の数だけ、手放した童の顔が浮かぶ。井戸端で口々に名を挙げて喜ぶ女たちの後ろに、声を挙げぬ母親が何人いるか、マレナは知っていた。助かった列のすぐ隣に、戻ってこなかった列がある。


 それを後ろめたさと呼ぶのが正しいのかどうか、マレナにはまだ分からなかった。喜んでよいのか。これだけ助けて、まだ足りぬと思うのは、欲深なのか、それとも——


「マレナさん」とネレが、涙を拭いながら言った。「コリンのところには、行ってあげましたか」


 熱が、すっと引いた。


「コリン」とマレナは言った。「ハンナの子の」


「ええ。村はずれの。あの子、まだ……」


 マレナは桶の水を、ネレの瓶に半分移してやってから、立ち上がった。膝が、また軋んだ。


「行くよ」と言った。「ちょうど、これから」


 *


 村はずれの家は、傾いだ屋根の片側を石で押さえてあった。風が抜けるたび、梁が鳴る。中は昼でも暗く、煤の匂いと、それから——マレナの鼻は、すぐに嗅ぎ分けた——あの匂いがした。出すものだけを出していく童の、甘く饐えた匂い。


「マレナさん」と、ハンナがふらりと立ち上がった。目の周りが落ち窪んでいる。「来てくださった。コリンが、コリンが水を、飲まないんです」


 藁の上に、童が横たわっていた。


 マレナは、その童の前にしゃがんだ。しゃがんだ瞬間に、分かった。長く生きてきた手は、こういうとき、頭より先に分かってしまう。コリンの手足は、冷えていた。匙を唇に当てて塩水を流し込んでも、喉が動かぬ。流した分が、口の端からそのまま伝い落ちる。瞼を返すと、白目が乾いて、奥が落ちていた。脈を取った。指の腹に、糸のように細いものが、間遠に触れた。触れて、消えて、また触れた。


「いつから」とマレナは訊いた。


「三日目の、夜から」とハンナが言った。「みんなが助かったって言ってる、あの夜から、急に。それまでは元気だったんです。だから安心してて、それで——」


 それで、補水が遅れた。


 マレナは目を閉じた。村中が「死が止まった」と沸き立っていたあの数日、症状の出るのが遅い童が、幾人かいた。皆が助かったと言っている裏で、ようやく倒れた童。安心した親が、まさかこの子もとは思わず、塩水を始めるのが一日遅れた童。


 その一日が、この童には長すぎた。


 あの末子の領主は言っていた。深く水が抜けきってからでは、口から戻すのは間に合わぬことがある、と。匙で流すより速く抜けていく童には、もっと別の手がいる、だが、その手はこの世界にはまだない、と。あの童は、そう言うとき、まるで己の罪を告げるように淡々としていた。「これは、私の知識の届かぬ場所だ」と。


 塩と甘みの椀を、マレナは幾度も唇へ運んだ。流した。伝い落ちた。また運んだ。抜ける速さより速く。あの言葉を、いまは祈りのように繰り返した。だが、追いつかなかった。コリンの体は、入れるよりも速く、水を手放していた。底の抜けた桶だ。いくら上から注いでも、注いだそばから下へ抜けていく。

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