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止めた者の名

「……女神の恵みを」と、ボードは、誰にも聞こえぬほど小さく呟いた。「人の手で、塞いだ」


 彼は、そっと胸の前で女神の印を切った。


「これで、よかったのか」


 その声は、勝ちどきの上がらぬ静かな広場の中で、クレフのほかには、誰の耳にも届かなかった。


 *


 静けさが解けると、こんどは別のものが、広場に満ちはじめた。


 母らであった。彼女らは、子の生きている手を引いて、クレフのもとへ集まってきた。三日前、死んだ子のかたわらで石板を刻む彼を、死神と呼んだ女らである。近づけば罰が移ると、後ずさった女らである。その同じ手が、いま、クレフの炭に汚れた手を取った。


「クレフさま」と、一人が言った。もう、その声に怯えはなかった。「うちの子が、息をしています」


 クレフは、手を取られるままにしていた。引っこめもせぬが、握り返しもせぬ。彼はただ、その手の温もりが、つい三日前まで石板に名を増やすばかりであったことを、思い起こしていた。


 死神とは、もう誰も呼ばなかった。


 だが——その輪の外に、別の顔があった。


 谷側に畑を持つ百姓が、一人、輪に加わらずに立っていた。手を取らず、頭も下げず、ただ、封じられた北の井戸を見ていた。


「……北の井戸が、要る」と、その男は、こぼすように言った。「あの水で、田に水を引いてた。塞がれちゃ、田が干上がる。雪解けが終われば、谷の流れだけじゃ、足りねえ」


 その隣に、もう一人。北の井戸の水を桶に汲み、坂の下の家々へ運んで売り、それで日々の糧を得ていた男であった。その男は、何も言わなかった。ただ、明日からの生業を失った顔で、空の桶を提げて立っていた。彼の桶が、もう二度と北の水で満ちることはない。


 クレフは、その二人を見た。


 封鎖を解く気は、なかった。毒の出所が消えたわけではない。雪解けの水が山の何を流し込んでいるのか、彼にはまだ分からぬ。井戸を開けば、また同じ朝が戻ってくる。それは、断じてできなかった。


 マレナが、その気色を読んだ。彼女は、感謝の輪と、その外で立ち尽くす二人とを、ひと目で見渡した。そして、クレフのそばへ寄り、低い声で言った。


「あんた」と、マレナは言った。「命は、救った。たいしたもんだ。あたしが言うんだから、間違いない」


 それから、彼女は、井戸の封じ石へ顎をしゃくった。


「けど、ここの水で食ってた連中の暮らしは、まだ救っちゃいないよ」


 クレフは、答えなかった。代わりに、石板を見た。


 名簿であった。死者の名と、生きている印で埋まった石板であった。彼は、その下の、まだ刻んでおらぬ余白に、炭の先をあてた。そして、新たな問いを刻みはじめた。


 ——北の畑に、どう水を引くか。


 ——水売りの男に、何をさせるか。


 文字を刻みながら、クレフは奇妙な心地にとらわれていた。これまで、この石板は死を数えるためのものであった。誰がいつどこの水を飲み、何日で死んだか。そればかりを刻んできた。それがいま、初めて、生きている者の暮らしを刻んでいる。死を数える帳簿が、生者の暮らしの帳簿へ、変わろうとしていた。


 彼は、それが勝った証だとは思わなかった。勝ちが、次の問いを生んだだけのことだ。倒れる者を止めれば、こんどは、止めたことで困る者が立ち上がる。死を止めることは、終わりではなく、別の何かのはじまりであった。


 *


 日が高くなったころ、村はずれの道を、馬がやってきた。


 領館からの使いであった。家令の老人が、若い兵を一人連れ、坂を下ってきた。荒れて半ば空き家のようになった領館から、人が下りてくること自体、めったにないことであった。


 村人が、道の両側で足を止めた。


 使いは、広場の真ん中で石板を提げて立つクレフを見つけると、馬を降りた。家令は、土に膝をつくでもなく、かといって見下すでもない、奇妙にためらった態度で、クレフの前に立った。


 三年前の疫病で、領主家はほぼ全滅していた。先代辺境伯夫妻も、長兄も、その下の兄らも、女神へ還った。采配する者のいない領館に残ったのは、末子のクレフ一人であった。だが、誰も彼を領主とは見なさなかった。発言の力など、なきに等しい。死人ばかり数えて回る、薄気味の悪い末の子。それが、つい三日前までの、彼の村での名であった。


「クレフさま」と、家令は言った。声に、これまでにない響きがあった。「村を救われた、と聞き及びました。死病を、井戸の封じだけで止められた、と」


 家令は、言葉を選ぶように、間を置いた。


「領館へ、お戻りいただきたく。采配する者が、おりませぬ。先の病で領は痩せ、田も人も足りませぬ。……あの死神に村を救わせた、生き残りの御方に、お知恵を、と」


 あの死神に村を救わせた、生き残りの御方。


 それが、今日からの、クレフの名であった。


 知識ではない、とクレフは思った。彼が井戸を封じられたのは、疫学を知っていたからではない。知っているだけなら、三年前にも、彼は何もできなかった。村が動いたのは、彼がおのれの身を賭け金に置き、新たに倒れる者の出ぬ朝を、村人の目の前で立ち上げて見せたからだ。信じさせた。それだけだ。そして信じさせた評判が、いま、領館の門を、彼に向かって開かせている。


 クレフが領館の使いに従う、と答えようとしたとき。


 人垣の中から、一人、進み出る者がいた。


 ボードであった。


 神官は、クレフの前に立った。敵意は、その顔になかった。あるのは、信仰者としての、譲れぬ筋であった。


「そなたは、民を救った」と、ボードは、静かに言った。「それは、認めよう。私の祈りでは、一人も止められなかった。そなたの匙の湯は、止めた。それは、認めねばならぬ」


 彼は、封じられた北の井戸へ、目を向けた。


「だが」と、ボードは続けた。「女神の井戸を封じた咎は、残る。水は、女神の恵みだ。それを、人の手で塞いだ。民の命を救うために、女神の恵みを断った。——そなたは、それを、これから、どう償うおつもりか」


 広場が、また静まった。さきほどとは、別の静けさであった。


 クレフは、ボードを見た。否定はしなかった。井戸を封じたのは、たしかに彼だ。謝罪もしなかった。封じなければ、子らは果てた。いずれも、嘘ではないからだ。


「井戸の話は」と、クレフは言った。「また、君と話す」


 彼は、領館の門のほうへ、目を向けた。


「今度は、村ではなく、領で」


 ボードは、しばらくクレフを見つめてから、ゆるやかに、女神の印を胸に切った。それは、引き下がる者の仕草ではなかった。話は、まだ終わっておらぬ、と告げる仕草であった。


 *


 夕刻。


 クレフは、領館への坂を上っていた。手には、あの石板を提げていた。


 背後には、村があった。救われた村だ。子らの泣き声の代わりに、夕餉の煙が、家々から細く立っていた。前には、領館があった。崩れかけた門が、夕日の中で、半ば影となって聳えていた。


 クレフは、坂の途中で、一度だけ足を止めた。


 村は、救われた。だが、領は違った。先の疫病で、ノルデンは三人に一人を喪っている。田を耕す手が足りぬ。井戸を見張る目が足りぬ。病が来れば、数える者が足りぬ。領館には、采配する者すらいなかった。一つの村で止めた死の数より、これから領のすべてで埋めねばならぬ空白のほうが、桁が違うほど、大きかった。


 彼は、石板を見下ろした。


 死者の名簿として始まった石板であった。それが、いま、生者の暮らしの帳簿になりかけている。北の畑にどう水を引くか。水売りの男に何をさせるか。問いが、余白を埋めていく。


 前世の椎名玲は、覚えれば数えられなくなると信じ、一人の名も覚えなかった男であった。


 この数日で、クレフは、初めて一人を、名で生かした。シマ婆の孫。谷側のふたご。石板に、生きている、と刻んだ十四の傷。それは、数ではなかった。顔があった。マレナの言うとおり、ことごとく、顔があった。そして、その評判を足場に、彼はいま、領へ呼ばれている。


 だが、彼は浮かれなかった。


 崩れかけた領館の門の前まで上ると、クレフは、もう一度それを見上げた。夕日が、欠けた石壁の影を、長く坂に落としていた。


「村は、止まった」と、クレフは、誰にともなく、低く言った。


「領は、まだ何も止まっていない」


 彼は、石板を提げ直し、門をくぐった。賭けに勝った男の足取りには、勝者らしい軽さは、どこにもなかった。


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