表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
5/24

声の来ない夜明け

 三日目の夜明け前。北の井戸の縁を囲う板の上に、クレフは一人で座していた。


 膝には石板があった。死者の名簿であった。封鎖を敷いてからの三日、村を回って刻みつづけたもので、余白はもう片隅にしか残っていない。最初の頁には、名ばかりが並んでいた。やがてその名の傍らに、新たな印が増えていった。倒れた者のうち、なお生きている者へつけた、小さな縦の傷である。


 クレフは、その印を端からもう一度数えなおした。数えるのに目を細める要はない。この三日、彼は眠っていなかった。眠れば数が狂う心地がして、まぶたを閉じるのが惜しかった。炭に黒ずんだ指の腹で、傷を一つずつ撫でていく。十一。生きている、と刻んだ者が、十一人いた。


 三日前、彼が井戸を封じると告げたとき、村は二つに割れた。焼け、と叫ぶ者があった。病人ごと家を焼けば罰は消える、というのだ。三年前、彼らはそうして幾軒もの家を焼き、それでも病は消えなかった。なのに、なお火を信じていた。待て、と言う者もあった。女神の気がすむまで耐えれば、いつか病は引く、と。三年前、彼らはそうして耐え、三人に一人を女神へ還した。


 クレフは、いずれの側にも立たなかった。北の井戸を封じ、倒れた者へ、ぬるく沸かした湯に塩と蜜をひとつまみ溶いた水を、匙で飲ませつづけただけである。出すものをことごとく出し、ひからびて果てる病であった。ならば、出た分だけ、入れてやればよい。前世でなら点滴と呼んだものを、この世界の道具で、ひどく粗く真似たにすぎぬ。それで死を止められるとは、彼自身、思っていなかった。ただ、死ぬ速さなら、落とせるはずであった。


 そして、賭けがあった。


 三日前、村の真ん中で、クレフは告げた。封じて三日目の朝、新たに倒れる者が一人も出なければ、病の出所は北の井戸だと認めよ、と。出れば——出れば、私を焼け、と。井戸を封じた咎ごと、この身を火にくべよ、と。村の者はざわめいた。死神が、おのれの死を賭け金に置いたからである。


 突きつめれば、それだけのことであった。賭け金は、おのれの身一つ。決着は、今朝。


 空の端が、わずかに薄らぎはじめていた。


 背後で、板を踏む音がした。


 マレナであった。夜明け前の薄明かりの中で、いつもより一回り重そうに見えた。結わえた額に、汗とも疲れともつかぬものが張りついている。指が、まだ少し震えていた。夜通し、北の家々を回って看病していたのである。


「……生きてるよ」


 マレナは、板の上にどさりと腰を下ろしながら、そう言った。声がかすれていた。


「夜のあいだに、また三人、ひどく出した。シマ婆んとこの孫と、谷側のふたごだ。喉がからからで、目がくぼんで、もう逝くかと思ったよ。けど、あんたの言うとおり、塩と蜜の湯を、匙で、ひと匙ずつ、夜通し飲ませてやった」


 マレナは、おのれの両手を見下ろした。その手で三十年、生まれるのと死ぬのとを見てきた手である。


「今夜は、誰も逝かせなかった」


 クレフは、石板に新たな傷を三つ刻んだ。十四となった。


「礼は言わない」と、彼は言った。「君が起きていてくれた分、死ななかった。それだけだ」


「気色の悪い言い方をするねえ」マレナが鼻を鳴らした。だが、その横顔は、嫌そうではなかった。


 二人は、しばらく黙していた。


 倒れた者が、死ななかった。それはたしかに三日の積み上げであった。されど二人とも、本当の山は今朝だと知っていた。倒れた者を死なせぬことと、新たに倒れる者が出ぬこととは、別の話である。前者は看病の話だ。後者は、病の出所の話だ。封じた井戸がまことに毒の元なら——その水を断ったなら——飲んでから病の起こるまでの幾日かを、村のことごとくが抜けきる。封鎖して三日目の今朝が、その境のはずであった。出なければ、井戸が正しい。出れば、井戸は無実で、クレフは女神の井戸を封じた咎人として、火にくべられる。


「今朝、誰も倒れなければ」と、クレフは空を見ながら言った。「私の負けの目は、消える」


 マレナが、横目で彼を見た。じっと見た。


「あんた」と、彼女は言った。「当たってほしいのか、外れてほしいのか、分からない顔をしてるよ」


 クレフは、答えなかった。


 答えは、彼の内にあった。井戸が正しければ、今朝はもう倒れる者が出ぬ。それは、彼が勝つということだ。だが、彼が勝つということは、これまで倒れた者が——名簿に刻んだ者が——みな、防げたはずの水を飲んで倒れた、ということでもあった。三日前に井戸を封じていれば。三年前に、誰かが気づいていれば。彼の勝ちは、いつも、誰かの死の上にしか立たない。前世から、そうであった。


 空が、白みはじめていた。


 *


 夜が明けた。


 村の中心の広場へ、人が一人、また一人と集まってきた。各家の戸口が、軋みながら開いていく。出てくる顔は、いずれも一晩ろくに眠っていない顔であった。焼け、と叫んでいた男らは、いまも腰に鉈を提げていた。待て、と言っていた老人らは、その鉈を睨みながら、女神の像のほうへ身を寄せていた。昨夜のうちに殴り合いになりかけた殺気が、まだ広場に淀んでいた。


 マレナが、井戸のそばに立っていた。少し離れて、神官のボードがいた。痩せた体に祭服をまとい、温和な皺を眉間に寄せて、ただ広場を見守っていた。


 誰もが、待っていた。


 いつもなら——この数日、いつもなら——夜が明けるのと同時に、村のどこかから声が上がった。また倒れた、という声だ。母の泣き声が、それにかぶさった。子の名を呼ぶ声と、女神の名を呼ぶ声とが、ひとつになって朝の冷気を裂いた。それが、この村の夜明けの音であった。毎朝、欠かさず鳴った音であった。


 今朝は——来なかった。


 日が、山の端から差してきた。


 声は、来なかった。


 村人は、はじめ、それを信じなかった。誰かが耳をすました。鉈を提げた男が、落ち着かなげに広場を見回した。泣き声がせぬということが、かえって不気味であった。彼らは、悪い報せの形でしか、朝を知らなかったのである。


「……誰か、倒れたか」


 男の一人が、誰にともなく言った。


 答える者はいなかった。


 半信半疑の若い男が、駆け出した。北の家々を、戸を叩いて回りはじめた。シマ婆の家。谷側のふたごの家。クレフが昨夜、新たに倒れたと刻んだ家。男は、一軒ごとに中をのぞき、また走った。やがて南の家々へも回った。井戸から遠い、谷の向こうの家々である。


 戻ってきた男の顔は、青ざめていた。だが、それは恐れの青さではなかった。


「いない」と、男は言った。息を切らしていた。「新しく倒れた者は……いない。北も、南も。ゆうべからひどかった連中は、まだ生きてる。けど、新しいのは……一人も、いない」


 広場が、静まりかえった。


 封鎖して、三日目の朝。新たに倒れた者は、ついに、一人も出なかった。


 クレフが、人垣の中から進み出た。痩せた体に幾晩ぶんかの疲れを乗せ、ゆるやかに井戸の封じ石の上に立った。膝にあった石板を、両手で胸の前に掲げる。掲げたところで、村人の大半は字が読めぬ。それでも、彼は読み上げるつもりであった。読めぬ者にも、聞かせるために。


「これまで倒れた者は」と、クレフは言った。声を張らなかった。それでも、静まった広場には、よく通った。「全員、北の水を飲んでいた。南の谷の家の者は、一人も倒れていない。同じ村で、同じ女神を祀り、同じように祈っていた。違うのは、飲んだ水だけだ」


 彼は、石板の端を、炭の指で示した。


「そして今朝。北の井戸を封じて、三日目。新しく倒れた者は、一人もいない」


 間があった。


「毒は」と、クレフは言った。「井戸とともに、断たれた」


 沈黙が、しばらく広場を覆った。


 それから、さざ波のように、理解が広がっていった。はじめは近くの者が、隣の者へ、それを言葉ではなく目で伝えた。北の水。南は無事。井戸を封じた。新たに倒れる者が、止まった。三年前、誰も結べなかった線が、いま、彼らの内で、たどたどしく結ばれていった。


 焼け、と叫んでいた男が、鉈を取り落とした。膝から、崩れるように地についた。火で消そうとしていたものが、火では消えなかったものが、井戸ひとつを塞いだだけで止まっていた。男は、おのれが幾日ものあいだ、何に向かって鉈を振り上げていたのかを、いま知ったのである。


 誰も、声を上げなかった。歓声も、祈りもなかった。ただ、静かであった。死の声が来なかった、その静けさだけが、村を満たしていた。


 その只中で、ただ一人、井戸の封じ石を見つめている者がいた。


 ボードであった。


 神官は、安堵していた。子らが死ななかったことに、心から安堵していた。それは、温和な皺の寄った顔に、はっきり出ていた。けれど、その目の底には、安堵では拭えぬ翳りが沈んでいた。彼は、封じられた井戸の石を、長いあいだ見つめていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ