名で数える者
「いいかい、塩をひとつまみ。蜂蜜を、ほんの少し。南の水を、いちど煮立てて、冷ましたやつで薄く溶く。それを匙で、夜通し、少しずつだ。一度にやると吐くからね。――それから、早いほどいい。まだ吐かずに飲めるうちに始めな。細りきってからじゃ、間に合わない子もいる」
「マレナさん、それは……死神の言うことじゃないのかい」と、ひとりの母が言った。
「死神でも、なんでもいいよ」マレナは、その母の手に匙を押しつけた。「ゼナが、水を欲しがった。あの子は、死ななかった。あんたの子も、死なせたくないなら、黙ってこれを溶かしな」
看病に来ていた数人の母が、ゼナの顔を覗き込んだ。三日前まで、近所の子と駆け回っていた童。倒れて、もう駄目だと誰もが思った童。その子が、いま、土間で水を飲み、薄く目を開けて、母の顔を見ている。
死神の言うとおりにしたら、子が死ななかった。
その一言は、誰が言いだしたのでもなく、口から口へ伝わった。井戸端から、家々へ。家々から、また別の家へ。「焼け」一色であった村の声に、その夜、初めて、別の細い声が混じった。
――待て。
――もう一晩、待ってみたら、どうだろう。
マレナの中では、もう結論が出ていた。あの男の理屈は、いまでも気に食わぬ。原因だの、数だの、顔のない言葉で生死を語る、あの淡々とした目が。けれど――あの男の言った手は、童を殺さなかった。それどころか、生かした。
手が、童を生かした。
それだけで、マレナには十分であった。
深夜、マレナは、北の井戸へ向かった。
井戸の縁に渡した板の上に、青年がひとり、座っていた。膝の上に石板を置き、誰も近づかぬ井戸を、たったひとりで見張っている。月明かりに、痩せた横顔と、暗い青の目が、青白く浮かんでいた。十七だというのに、その目だけが、ひどく老いて見えた。
「あんた」と、マレナは声をかけた。「眠らないのかい」
「眠ると、誰かが井戸の封を解くかもしれない」クレフは目を上げなかった。「そうなれば、ここまでが無駄になる」
マレナは板のかたわらに立ち、彼の膝の石板を覗き込んだ。
炭で書かれた、点の連なりがあった。マレナは字が読めない。だが、点のそれぞれに、小さな書き込みが添えられているのが見える。クレフは、そのひとつを指でなぞった。
「トリン、五歳。今朝、倒れた」と彼は言った。「ここに書いてあるのは、全部、名前だ」
マレナは、その点の列を、しばし見つめていた。
「……あたしはね」と、やがて言った。「あんたの数には、顔がないと思ってた。あんたみたいな男は、人を死んだ数でしか見ない。何人死んだ、何人助かった。それだけだと思ってた」
節くれだった指で、石板の点に触れる。
「けど、これは。ぜんぶ、名前で書いてあるんだね」
「顔がないと」とクレフは言った。「防げた死も、『仕方ない』で済んでしまう」
彼は初めて顔を上げ、マレナを見た。
「女神の摂理だ、運が悪かった、寿命だった。顔がなければ、人はそうやって、いくらでも死を許してしまう。許せば、次も同じように死ぬ。だから、名前で数える。一人ずつ。仕方なかった、で済ませないために」
マレナは、何も言わなかった。三十年、おのれが顔と名で抱えてきた死を、この男もまた、別のやり方で抱えていた。顔のない数だと思っていたものは、顔のある一人ずつを、決して忘れまいとする台帳であった。
クレフは、石板を月明かりにかざした。
「二日目の今朝倒れたのは、一日目より少ない」と彼は言った。「北だけだ。南からは、一人も出ていない。減りはじめている」
「それは……いいことなのかい」
「明日でわかる」クレフの声は、淡々としていた。「三日目の朝、北の家から、新たに倒れる者が一人も出なければ、井戸が原因だったということだ。賭けは、私の勝ちになる。ゼロにならなければ――一人でも出れば――私は焼かれる」
マレナは、ゼナのことを思った。水を欲しがった、あの声を。
「……あんたが、正しけりゃいいね」と、彼女は言った。
みずからも、意外な言葉であった。あの男の理屈は気に食わぬ。それでも、いまのマレナは、確かに、この男が正しいことを願っていた。願う側に、立っていた。
クレフは、彼女のほうを見なかった。ただ石板に目を落とし、点の並びを、もう一度、初めから数えなおしていた。ゼナという、目に見える証拠が、村を動かしはじめている。それを、彼は冷静に勘定へ入れていた。民は、理屈では動かぬ。理屈では、ボードの善意に勝てぬ。だが、目の前で果てるはずの子が生きていれば――それは、いかなる理屈よりも雄弁であった。
信じさせること。それが、知識を力に変える、唯一の道であった。
三日目の前夜が来た。
一日目、二日目と、北の家からは倒れる者が出つづけていた。だが新たに倒れるのは、もはや、生のままの北の水を飲んだ者にかぎられていた。南の家からは、誰も。そして、倒れる者の数は、日ごとに、確かに減っていた。
いっぽうで、補水によって、はっきりと死者が減った。ゼナを含め、倒れてもなお、死なずに持ちこたえる者が、幾人も出はじめていた。みなを救えたわけではない。細りきってから手をつけた子は、それでも幾人かが女神のもとへ還った。それでも、村が三年前の疫病で覚えていた光景――倒れた童が、そのままひからびて消えていく光景――は、この二日で、確かに崩れはじめていた。
倒れても、死なない。
そういう者が、現に、幾人もいた。
村は、二つに割れた。
広場に、人が集まった。一方には、神官ボードに連なる者たちがいた。これは女神の罰だ、罰なら待っても無駄だ、井戸を封じた冒涜者を焼いて、女神の怒りを鎮めるしかない――そう信じる者たち。彼らの恐怖は、本物であった。三年前、人口の三割が果てた。あの恐怖を、彼らは骨身に刻んでいた。
もう一方には、ゼナの回復を、その目で見た者たちがいた。あの子は死ぬはずであった。それが、生きている。死神の言うとおりにしたら、子が死ななかった。ならば、あと一晩。あと一晩だけ、待ってみようではないか――そう言う者たち。
両者は、広場で向かい合った。
松明の火が、夜の広場に揺れた。「焼け」と「待て」が、たがいの顔を睨み合う。村は、限界であった。これ以上は、いずれかへ転ぶ。神官ボードは、両者のあいだに立ち、なおも女神の名で暴力を押しとどめていた。だが、その押しとどめが、いつまで保つかは、誰にもわからなかった。
その群衆の前に、マレナが進み出た。
がっしりした体を、人々の真ん中に置き、白髪混じりの赤毛をひっつめた頭を、高く上げる。三十年、この村の生と死に、誰より多く立ち会ってきた女である。その声を、村人は無視できなかった。
「あたしは、ゼナを取り上げた」と、マレナは言った。「三年前の疫病で、あたしの取り上げた子を、何人も看取った。この手でだ。だから言う。あの子は、死ぬはずだった。それが、いま、水を飲んでる」
彼女は、群衆を見渡した。
「あたしは、あの死神の理屈なんか、わからないよ。原因だの、数だの、知ったこっちゃない。けど、手は見た。あの男の言った手は、子を殺さなかった。子を、生かした。あたしは、待てと言う。あと一晩、待ちな」
公然と、彼女は「待て」を口にした。最初のひとりとして。
北の井戸の縁では、クレフが、石板に最後の点を刻んでいた。
二日目の最後に倒れた者の名。その下に、まだ何も書かれていない、空白の一行があった。三日目の朝。そこに名が刻まれるか、刻まれぬか。北の家から、新たに倒れる者が、一人でも出るか、一人も出ぬか。
その一点に、ことごとくが懸かっていた。賭けのすべてが。クレフの生死が。そして、この村が「原因」というものを知る朝を迎えるか、それとも「罰」のまま死を数えつづけるか――そのすべてが。
村は、眠れぬ夜を迎えた。
広場の松明は消えず、家々の窓には灯がともり、母たちは倒れた童の枕もとで匙を握りしめ、ボードは祭壇の前で祈りを捧げ、マレナは井戸端の青年のそばに立ち、そして村じゅうの者が、同じひとつの朝を待っていた。
明朝、三日目。北の家から、新たに倒れる者は出るのか。出ぬのか。
その答えを、この夜、まだ誰も知らなかった。
ただひとり――石板の空白の一行を、月明かりに眺めている青年だけが、おのれが何を読み終えたのかを、静かに、知っていた。




