夜を越えた脈
マレナは、昨夜から匙を置いていなかった。
北の家の薄暗い土間に莚を敷き、その上に小さな体が横たわっている。ゼナ。六年前、マレナがこの手で取り上げた子であった。母の腹から滑り出てきたときの、ぬめった重みと、最初に上げた細い泣き声を、マレナはなお覚えている。六つになったその童が、いま、ひからびて果てようとしていた。
倒れたのは、昨日の昼すぎである。出すものを出しきる前に、まだ吐き気が水を拒みきらぬうちに、マレナは間に合った。出ていく水に、追いつくように返してやれ。死神はそう言った。マレナは言われたとおりにした。塩をひとつまみ。蜂蜜をわずかに。煮立てて冷ました南の水に薄く溶いた、薬とも呼べぬ椀。それを匙ですくい、ひび割れた小さな唇のあいだへ、幾度も流し込んだ。一度にやれば吐く。ゆえに少しずつ。夜通しでもだ、と男は言った。マレナは夜通しやった。
夜半を過ぎ、童の脈は糸のように細かった。節くれだった指を手首にあてがえば、その下で、あるかなきかの拍動が、いまにも途切れんばかりに震えている。
――もう、駄目だね。
三十年であった。三十年、この手で、生まれるのも死ぬのも見てきた。死にかけた童の手の冷たさは、指が覚えている。この冷たさが膝まで、肘まで上がってくれば、もう神官を呼ぶよりほかにない。マレナは幾人も、そうやって女神のもとへ送ってきた。みずから取り上げた童を、みずからの手で看取ってきた。
ゆえに、わかる。この子も、もう。
マレナは一度、匙を止めかけた。
止めて、楽にしてやろうかと思った。塩水を無理に流し込まれるより、母の腕の中で、静かに。それが情けというものではないか。死神の理屈で、最期まで童を苦しめて、それで救えなかったら――。
救えなかった童の顔が、まぶたの裏をよぎった。一昨年の冬、同じようにひからびて果てた子。その前の年の子。その、さらに前の。みな、この手で取り上げた。みな、この手で看取った。顔も、名も、覚えている。覚えていることが、罰のようであった。
マレナは、匙を握り直した。
「飲みな」と、童の耳もとで言った。みずから驚くほど、声が掠れていた。「もうひと匙だけ。あたしの言うことを聞きな、ゼナ」
明け方の白い光が、煤けた壁の隙間から差し込んできた。
童は、まだ息をしていた。
マレナは、おのれの指の下で、糸の脈が――ほんのわずかに、だが確かに――太くなったのを知った。気のせいだ、と頭は言う。だが指は、頭より先に知ってしまっていた。三十年、死にゆく童の脈ばかり数えてきた指が。これは、戻ってきている脈だ、と。
脱水で果てるはずの刻限を、この子は越えていた。マレナの三十年で、初めてのことであった。
半信半疑のまま、それでも手は止めなかった。塩水を溶き、匙を運び、また溶く。胸のうちでは毒づいていた。あたしの取り上げた子を、あたしの手で看取ってきた。この匙ごときで、何が変わるものか。あの男の言う「数」がどうした。あたしの手にあるのは、数ではない。この子だ。ゼナだ。顔のある、ひとりの童だ。
――でも。
マレナは、童の唇にまた匙をあてがった。
でも、まだ生きてる。
北の井戸のかたわらで、クレフは石板に炭を走らせていた。
二日目の朝も、予言どおりに人が倒れた。北の家の者である。生のままの北の水を、まだ飲んでいた者。クレフはその名を石板に刻んだ。トリン、五歳。点を、ひとつ。
手の中の石板を見る。一日目に倒れた者の名。その下に、二日目の今朝、倒れた者の名。数えれば、二日目は、一日目より少なかった。
北だけ。日ごとに、減る。
クレフはそれを、声に出さなかった。ただ事実として、暗い青の目で読んだ。その頭の内では、名の連なりが点となり、点が日ごとに並び、ひとつの形を描いていた。立ち上がり、てっぺんを越え、いま、ゆるやかに下りはじめている形。前世で、幾度も見た曲線であった。流行は、源を断てば、ことごとくこの形を描く。北の井戸を封じた。ゆえに北の発症は、いま、こうして減りはじめている。
だが、村人にこの形は見えない。
見えるのは、井戸を封じてなお人が倒れている、その事実だけであった。
「封じて、なお死ぬ」
誰かが言った。広場のほうから、声が井戸端まで届いてきた。ひとつではなかった。
「神聖な井戸を犯して、それでも女神の罰は止まらん」
「井戸を断ってまだ死ぬなら、もう、あの死神を焼くしかなかろう」
声が、いくつもの声を呼んだ。恐怖は、人から人へ移る。病よりも速く。クレフは知っていた。井戸を封じた朝より、二日目のいまのほうが、村の殺気はずっと濃い。一日目には、まだどこかで半信半疑であった者たちが、いま、確かに人が倒れつづけているのを見て、追いつめられている。封じても止まらぬ。ならば原因は井戸ではない。原因は、この井戸を封じさせた男だ――そう考えるほうが、彼らにはずっと自然であった。
広場に、人が集まりはじめた。
幾人かが、家の脇から薪を抱えてきた。鉈を腰に差した男もいた。火を熾せ、という声が、群衆の底で煮立ちはじめる。クレフは石板を膝に置いたまま、その様を見ていた。立ち上がりもしなかった。逃げれば、これまで言ってきたことのことごとくが嘘になる。
群衆が井戸のほうへ歩みだしたとき、白い影が、そのあいだへ割って入った。
「およしなさい」
神官ボードであった。痩せた体を群衆と井戸のあいだに置き、両腕を広げる。温和な皺の刻まれた顔が、いまは固く張りつめていた。
「火を熾すなら、女神の名においてやめさせます。人を焼くことは、いかなる罰の代わりにもなりません。そなたらが手を血で汚せば、女神はそなたらをこそ罰されるでしょう」
穏やかな声であった。だからこそ、群衆の底を煮立たせていた熱が、わずかに鎮まった。薪を抱えた男が、それを地に下ろす。
ボードは、井戸の縁に座る青年へ目を向けた。その目に、敵意はなかった。あるのは、深い、行き場のない憐れみであった。
「だが、クレフどの」と、ボードは言った。「私は、そなたの考えを認めたわけではない。井戸を封じたのは過ちです。水は女神の恵み。そなたは原因という言葉で民を惑わせ、女神の摂理を人の手で覆そうとしている。それは、傲慢というものです」
暴力は止めた。だが、思想は変えぬ。クレフは、その壁の硬さを、淡々と受けとめた。ボードは敵ではない。本気で民を案じている善人である。だからこそ、その言葉は民の胸に深く届く。剣よりも、この善意のほうが、ずっと厄介な壁であった。
「あと、一日だ」とクレフは言った。声は荒げなかった。賭けの条項を、繰り返したにすぎなかった。「待ってくれ。三日目の朝、北の家から、新たに倒れる者が一人も出なければ、井戸が原因だったということだ。一人でも出れば、私が間違っていた。そのときは、焼けばいい。私が、自分でそう言った」
「……そなたは」ボードは、言葉を探すように口を開いた。「なぜ、そうまでして」
クレフは答えなかった。ただ石板に目を落とし、新しい点の位置を、指でなぞった。
夜が来た。
マレナは、北の家の土間に、まだ座っていた。
ゼナが、目を開けた。
まぶたが震え、薄く開いた目が、天井の煤を、それからおのれを覗き込むマレナの顔を、おぼろに捉えた。乾いた唇が、かすかに動いた。
「……みず」
マレナの胸の奥で、何かが、音を立てて崩れた。三十年であった。三十年、赤水病に倒れた童が、こうして水を欲しがる声を上げたのを、ただの一度も聞いたことがなかった。倒れた子は、そのまま、ひからびて果てていくものであった。声を上げる力もなく、ただ細っていって、消えるものであった。
それが、いま、水を欲しがっている。
マレナは慌てて椀を取り、匙を運んだ。今度は、童がみずから口を寄せてきた。一匙、二匙。ゼナは、欲しがった。
「ゆっくりだよ」マレナの声は、震えていた。「ゆっくり。たくさんやると、また吐くからね。少しずつ」
あの男の言うとおりに、少しずつ。
マレナは、おのれが何に立ち会っているのかを、ようやく解しはじめていた。脱水で果てるはずだった子が、朝まで持った。そして夜には、明らかに持ち直した。これは、まぐれではない。塩と、甘みと、煮立てた南の水。あの、薬とも呼べぬほどささやかなものが、この子を死なせなかった。
手応えは、まだ一例である。たったひとり。しかも、倒れて間もなく手をつけられた、運のいいひとりだ。もっと早くに細っていった子なら、間に合わなかったやもしれぬ。
それでも、一例は、一例であった。ゼロとは違う。
マレナは立ち上がった。膝が、夜通しの看病で固まっていた。椀と匙、塩と蜂蜜を布にくるみ、北の家々を回りはじめる。倒れた童のいる家。倒れた年寄りのいる家。戸を叩き、土間へ上がり込み、半信半疑の母たちの手に、匙を握らせていった。




