明日を読み上げる者
だから、彼はあえて、村人がいちばん聞きたくないことを口にした。
「先に言っておく。井戸を封じても、明日も明後日も、人は倒れる」
ざわめきが、ぴたりと止んだ。
「封じれば死がやむと思っているなら、それは間違いだ。明日の朝も、誰かが血の混じった水を下して倒れる。だが、それは女神の罰ではない。――もう、水を飲んでしまったからだ」
クレフは石板を、ゆっくりと撫でた。
「毒は、いま、この時も、その者の腹の中にある。飲んでから倒れるまでに、二日、三日かかる。だから、井戸を断っても、すでに飲んだ者は、これから倒れていく。それを止めることは、誰にもできない」
「なら……封じて、なんになる」誰かが、かすれた声で言った。
「これから飲むはずだった者を、助けるためだ」
クレフは人垣を見渡し、それから石板を高く掲げた。
「言ったろう。私は数えている。北の水を、この二日のうちに飲んだ家を、私は数えてある。次に倒れるのは、この水を飲み、まだ倒れていない者の中からだ。――南の水しか飲んでいない家からは、一人も出ない」
それは、過ぎたことの集計ではなかった。死んだ者の名簿ではなく、これから死ぬやもしれぬ者の名簿であった。死神が、明日を読み上げている。村人の幾人かが、思わず後ずさった。
「これが、私の賭けだ」
クレフは、北の井戸の縁に手を置いた。
「今日から北を断ち、飲み水をすべて南へ替える。最後に北の水を飲んだ者が倒れきるまで、あと二日か、三日はかかる。だが、封鎖から三日が過ぎれば、新しく倒れる者は、ぱたりと止まる」
彼は一拍おいて、静かに続けた。
「もし三日経って、なお新しく倒れる者が出たなら――そのときは、私が間違っている。北の井戸が原因ではなかった、ということだ。そのときは私を、この井戸の前で焼け。女神への冒涜者として、好きにすればいい。文句は言わない」
人垣が、ざわりと揺れた。賭け。死神が、己の命を賭けた。三日。三日のあいだ、人が倒れ続けると、自ら言いながら。
「だが、もし三日で死がやんだなら」
クレフは、握った石板にほんの少し力を込めた。そこに刻まれた六つの名を、指の腹がなぞる。エルナ、六歳。最後のひとり。
「そのときは、私の言うことを一度だけ聞いてくれ。たった一度でいい」
誰も答えなかった。答えられなかった。
*
その晩、クレフは助産師のマレナを呼んだ。
がっしりとした体格に、節くれだった手。白髪混じりの赤毛をひっつめた女が、倒れたばかりの子の枕元で、いぶかしげに彼を見上げる。
「死神さまが、あたしに何の用だい」
「倒れる者は、止められない」クレフは膝をついた。「だが、倒れた者を、死なせずにすむかもしれない」
マレナの手が止まった。彼女はこの三十年、この手で生まれるのも死ぬのも見てきた女である。
「赤水病に、手立てなんかないよ。出るものを出して、ひからびて死ぬ。子どもからね。あたしは何人も看取った」
「水と塩が、体から抜けるからだ」
クレフは、子どもの冷たい手をとった。脈が、糸のように細い。
「血が、水でできていることを知っているか。下痢で水が抜けると、血が濃くなり、巡らなくなる。手足が冷え、脈が細り、やがて止まる。痩せた者、幼い者、年寄りから先に死ぬのは、体に蓄えた水が少ないからだ」
「……それで」
「抜けたぶんを、口から返してやればいい」
クレフは椀を取り、マレナに手渡した。
「南の水を、いちど煮立てて冷ましたものを使え。北の水も、生のままの水も使うな。それでは、毒を足すことになる」彼は塩壺から塩をひとつまみ取り、椀に落とした。「塩をひとつまみ。それから、甘いものを。蜂蜜があればいい。溶かして、薄く作る」
「こんな、塩水を」
「一度にたくさん飲ませると、また吐く。匙で、少しずつ、何度も。夜通しでもだ。出ていく水に、追いつくように返してやる」
マレナは、しばらく椀を見つめていた。塩と、わずかな甘み。煮立てた南の水。それは、薬とも呼べぬほど、あまりにささやかなものであった。
だが彼女は、匙を取った。
「あんたの言う『数』ってのはね」と、彼女は子どもの口元に匙を運びながら言った。「ぜんぶ、顔があるんだよ。あたしには」
「知っている」とクレフは答えた。「だから、頼んでいる」
*
夜が来た。
北の井戸の縁に、クレフは一枚の板を渡し、その上に座した。誰ひとり近づこうとせぬ井戸を、たった一人で見張るつもりであった。膝の上には、死者の名を刻んだ石板がある。
村人たちは、遠巻きにその背を見ていた。神官ボードだけが、去りぎわに一度だけ振り返り、痩せた青年の背へ、静かに女神の祈りを捧げた。
――どうか、この迷える御方に。
そして、翌朝が来た。
また一人、北の家の者が倒れた。クレフの読みのとおりに。そして、南の水しか飲まぬ家からは、誰も。
言葉どおりに当たっていることが、かえって村人を怯えさせた。この男は、明日も明後日も倒れると言った。ならばあと二日、己たちは死を数えて待つよりほかない。その恐ろしさが、幾人かを殺気立たせた。井戸を封じてなお人が死ぬのなら、いっそこの死神を焼いてしまえ、と。
クレフは、ただ石板に炭を走らせた。名簿のとおりだ。まだ止まらない。
あと二日。
あと二日、村は毎朝、誰かが倒れるのを見る。そして三日目の朝、この村で誰が生き、誰が果てているか。それを知る者は、この世界でまだ、クレフ一人だけであった。




