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北の井戸を封じよ

 雪解けの水が、村の道をどぶ色に光らせていた。ひと冬を山にこもっていた雪が、いま一斉にゆるみ、谷へと流れ落ちていく。


 その朝、ノルデンの外れで、また一人、童が死んだ。三日のあいだに、これで六人目である。

 藁の上に投げ出された少女の口元に、乾いた血がこびりついていた。出すものをことごとく出しきり、ひからびるようにして果てたのだ。母親が女神の名を呼んで泣き伏し、隣の老婆が「赤水病だ、赤水病が戻ってきた」と、震える声で繰り返す。三年前、この領の三人に一人を攫っていった病の名であった。

 集う村人は、誰ひとり骸に近づこうとはしない。近づけば、罰が移る。そう信じていた。


 ただ一人、痩せた青年だけが、死んだ少女のかたわらに膝をついていた。

 黒髪に、暗い青の目。顔色は死人と見分けがつかぬほど悪く、十七という歳に似合わず、目だけが妙に老いている。青年は懐から平たい石板を取り出すと、炭のかけらで何かを刻みはじめた。


「クレフさま……」


 母親が、涙に濡れた顔を上げた。

 クレフ・フォン・ノルデン。先の疫病で領主夫妻と兄たちのことごとくを喪った、辺境伯家のただ一人の生き残り。末子であった。だが村の者は、誰ひとり彼を領主とは思っていない。

 彼らがこの青年を呼ぶ名は、別にあった。


「また、数えてなさる」

「やめてくれ、死神さま。あんたが数えると、次が死ぬんだ」


 誰かが吐き捨てた。クレフは顔を上げない。石板の上を、炭が小さな音を立てて走る。


 ――エルナ、六歳。最後に北の水を飲んだのは、四日前。倒れたのは二日前の朝。それから、まる二日。

 手は止まらなかった。死神。けっこうな呼び名だと思う。死を数える者が死神なら、たしかに己はそうなのだろう。ただし、彼が数えているのは女神の気まぐれではなかった。


 死を数える癖は、前世からのものであった。

 椎名玲。病を診る医者であり、疫学者。来る日も来る日も、幾千、幾万という死を、表の上の数として眺めて暮らした男だ。その数を読み解くことが、人を救う務めだと信じていた。けれど玲は、その幾万のうち、ただの一人の手を握ったこともない。死は最後まで、ただの「数」であった。

 その玲が、誰にも看取られず、深夜の路上に倒れて果てた。一度も触れなかった数の、いちばん最後のひとつになって。


 だから今度こそ、と思っている。

 今度こそ、一人ずつ、名で数える。


「エルナの家は、谷側の三番目だ」


 クレフは石板から目を離さずに言った。村人がぎくりと黙る。


「三日で死んだ六人。リエル、トーマ、子山羊小屋のヤン、双子の妹、昨日のメッサ婆さん、そしてエルナ。――六人ことごとく、谷川の北の井戸の水を飲んでいた」


 彼はようやく立ち上がり、石板を村人のほうへ向けた。そこには名と、家の場所と、日付が、几帳面な点となって並んでいる。


「南の井戸を使う家からは、一人も死んでいない。同じ村だ。同じ空気を吸い、同じ女神に祈っている。違うのは、飲んでいる水だけだ」


 静まりかえった人垣の奥から、穏やかな声が進み出た。

 神官ボード。白髪の痩せた老人で、この村に女神の言葉を伝えて三十年になる。


「クレフさま。お気持ちはわかります。されど、それは女神の摂理にございます」


 その声には、長く民を支えてきた者だけが持つ、静かな重みがあった。


「病は、罪への罰。咎ある家に、咎ある者に下るもの。井戸が人を選ぶのではありませぬ。女神が、人をお選びになるのです。そなたが石に刻んでおられるのは……失礼ながら、亡き御方を女神のもとへお還しする妨げにございましょう」


 村人がいっせいに頷いた。彼らにとって、それは正しい言葉であった。三年前の疫病を、そうやって耐えてきたのだ。罰ならば、いつか赦される。原因を問うより、祈るほうが、はるかにましだった。

 クレフは、ボードを責めなかった。この老人は偽りを述べていない。本気で民を案じ、本気で女神を信じている。善人であった。――だからこそ、厄介だった。


「神官どの」


 クレフは静かに言った。


「女神は、井戸の場所で人を選ぶのか」


 ボードの皺が、わずかにこわばった。


「北の水を飲んだ者ばかりが死ぬ。罰だというなら、女神は谷川の北側にだけ罪をお作りになった。そういうことか」


「それは……言葉の綾にございましょう」

「いや」


 クレフは、まっすぐにボードを見た。その目には、怒りも嘲りもない。ただ、疲れきった人間の、底のない静けさがあった。


「私は、賭けをしたいだけだ」


 彼は北の井戸へ向かって歩き出した。村人が、波の引くように道をあける。死神が通る。誰もがそう思っていた。

 井戸の前に立ち、クレフは振り返った。


「今日から、北の井戸を封じる。誰もこの水を飲むな。煮炊きにも使うな。飲み水は南の井戸から運べ」


 悲鳴のような声が上がった。


「正気か!」

「水を封じるなんて、女神への冒涜だ!」

「春の畑はどうする。北の井戸がなけりゃ、谷側の田は干上がるぞ!」


 罵声の中で、クレフは少しも声を荒げない。彼は知っていた。ここで理屈を説いたところで、誰も信じはしない。原因という言葉を持たぬ者に、目に見えぬ毒を説いても無駄だ。前世の知識は、この世界では半分しか効かぬ。井戸の水を覗く道具もなく、水を煮れば毒が死ぬという理屈を、証して見せる術もない。

 彼の武器は、知識ではなかった。

 知識を、信じさせること。それだけが、この世界での唯一の武器であった。


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