摂理は、人を選ぶか
女神の祠の前に、霜が降りていた。
朝の光はまだ青い。石を組んだ祠の足元に供えられた野の花は、夜のうちに白く凍てついていた。村人らはその前に集い、ことごとく息を白く吐きながら、ひとつの小さな棺を取り囲んでいる。
エルナの棺であった。
六つの童の棺は、大人のそれの半分に満たない。村の指物師が一夜で削った、まだ生木の匂いの残る箱である。死んでより、六日が経っていた。骸に近づけば罰が移ると怖れられ、賭けの決着がつくまで、誰もこの子を葬ること能わなかったのである。マレナは棺の縁に手を置いたまま、じっと見下ろしていた。この子は賭けが始まるより前に、最初の波で倒れた。井戸が封じられたときには、すでに手の届かぬところにいた、最初の六人のひとりである。匙で水を返すには、間に合わなかった。あの朝、あたしが駆けつけたときには、と彼女は思う。もう、脈はなかった。
村人らは、押し黙っていた。
その沈黙の質を、葬列の後ろに立つ女房らは、互いに測りかねている。三日前なら、この沈黙はもっと単純であったろう。北の井戸を封じよと言った、あの黒髪の青年——死神と呼ばれた末子のクレフが、賭けに勝ったのだ。倒れる者を名指しで言い当て、南の水だけを飲んだ家からは、ひとりも死なせなかった。半信半疑で従った者らは、三日目の朝、おのが子が生きて朝を迎えたとき、声をあげて泣いた。
その感謝は、まだ生々しく胸に残っている。
だが、その上から、エルナの棺がすべてを塗り替えていた。
救われた子がいる。だからこそ、救われなかった子の小ささが、いっそう目につく。賭けに勝った男がいる。だからこそ、その男ですら救えなかった命のあったことが、かえって深く腹に沈む。列の最後尾で、ひとりの女房が声に出さずに思った。あの男は、北の水の家をいくつも救った。それは本当だ。この目で見た。——だが、この子は救えなかった。
その両方が、同じ朝の同じ光の下に、並んで置かれていた。
クレフは、列の最後尾にいた。
村人らの輪から、わずかに離れて立っている。誰も彼の隣に来ようとはせず、彼もまた近づこうとはしなかった。痩せた肩に外套をかけ、暗い青の目を伏せて、膝のあたりに石板を抱えている。賭けに勝ってなお消せなかったひとつの名を、彼がそこに抱えていることを、マレナだけが知っていた。
彼は、数えることをやめられぬ男であった。葬送の朝でさえ。
だが、この場で彼は一言も発さなかった。発してはならぬことを、彼自身が知っているように見えた。
祠の前に、ボードが進み出た。
白髪の痩身に灰色の祭服をまとった老神官は、棺のかたわらに膝をつき、両の手を組んだ。温和な皺の刻まれた顔を、凍った花のほうへ、そして空のほうへ向ける。村人らが、いっせいに頭を垂れた。クレフだけが、伏せた目をわずかに上げて、その背を見ていた。
「女神よ」
ボードの声は、低く、穏やかだった。
「この子を、お返しいたします。エルナ。ノルデンに生まれ、六つの冬を生きた娘。短くとも、あなたから賜った命でございました。あなたのもとへ、この子を還します。どうか、温かい御手で、お迎えください」
祈りの言葉は、けっして大仰ではない。叫ぶでもなく、責めるでもなく、ただ静かに、子を母のもとへ返すように紡がれた。だからこそ、それは深く届いた。感謝の昂りよりも、ずっと深いところへ。村人らの肩が、ひとつ、またひとつと震えはじめる。あちこちで、すすり泣きが漏れた。
マレナは、その泣き声の広がりを聞きながら、棺の縁を撫でた。
ボードの祈りは正しい、と彼女は思う。少なくとも、間違ってはいない。死んだ子を女神のもとへ送る言葉を、この老人ほど真心で唱えられる者はいない。三十年、彼女は幾百の死を、この神官の祈りとともに見送ってきた。その祈りに偽りはなかった。
ただ、その祈りの温かさが、これから何に変わるのかを、彼女は知らなかった。
ボードが、ゆっくりと顔を上げた。
組んでいた手をほどき、村人らのほうへ向き直る。穏やかな視線が、泣き濡れた一人ひとりの上を、いたわるように通り過ぎていく。慰めの言葉を続けるつもりなのだ、と誰もが思った。実際、その声は慰めから始まった。
「悲しむことを、恥じてはなりません」と彼は言った。「涙は、女神への祈りの一部です。この子を惜しむ心は、そのまま、女神への愛なのですから」
村人らが、深くうなずいた。
そして、ボードの声は、慰めの形を保ったまま、静かに別のものへと移っていった。
「ですが、わたしたちは、考えねばなりません」彼は言った。「なぜ、女神は、この春、これほど多くの幼き者を召されたのか。なぜ、最も罪なき者から、お連れになったのか」
誰も答えなかった。答えられるはずもない問いであった。
「これは、摂理です」とボードは言った。声をいっそう柔らかくして。「女神の、深い摂理。——わたしたちは、北の井戸を封じました。あの神聖な水源を、人の手で塞いだのです。水は、女神の恵み。その恵みの口を、わたしたちは恐れにかられて、土と石でふさいだ」
マレナの指が、棺の縁で止まった。
「不敬を、女神はご覧になっていた」ボードの声に、責める色はなかった。むしろ、ともに罪を負おうとする者の、悲しげな響きがあった。「だからこそ、女神は、最も幼き者を、お手元へ召されたのです。わたしたちの不敬の報いを、この子が、その小さな身に引き受けてくださった。——エルナは、わたしたちのために、女神のもとへ呼ばれたのです」
その言葉が、しんと冷えた朝の空気に広がっていった。
マレナは、村人らの顔が変わっていくのを見た。
穏やかな声で、責めることもなく語られたからこそ、その因果は、抗いようのない形で胸に入り込んだ。悲しみに沈んだ心は、いま、すがるものを欲していた。なぜこの子が死んだのか。その問いに、ボードは答えを与えたのだ。井戸を封じた、その咎のためだ、と。
列の後ろのほうで、誰かが、低く、うめくように言った。
「……そうだ。井戸を封じてからも、子らは」
その一言が、ひとひらの火種のように、村人のあいだを伝っていった。井戸を封じてから。あの黒髪の男が、北の井戸に板を渡して座り込んでから。たしかに、それからも子らは倒れつづけたのではなかったか。賭けに勝った、あの恐ろしい男の言うとおりに死んでいったのではなかったか。悲しみに濁った目には、最初に逝ったこの子の死さえ、封じたあとの死と地続きに見えはじめていた。三日前まで芽生えかけていた感謝が、いま、ボードの一言で、根もとから揺さぶられはじめる。感謝が、疑念へ。救われたという思いが、咎を犯したのではないかという怯えへ。
マレナは、顔を上げた。
棺から目を離し、列の最後尾に立つクレフを、まっすぐに見た。
クレフも、彼女を見返していた。暗い青の目は、いつものように静かだった。だが、その薄い唇がわずかに開きかけているのを、マレナは見逃さなかった。彼は、口を開こうとしている。ボードの語った因果の誤りを、この場で正そうとしている。井戸を封じたから死んだのではない、封じる前から飲んでいたから死んだのだ、と。数で、事実で、それを叩き伏せようとしている。
マレナの目が、鋭くなった。
言うな、とその目は言っていた。
何か言え、ではない。いまここで知識を振りかざせば、終わる——彼女の目は、そう告げていた。悲しみに沈み、すがるものを求めている村人の前で、その冷たい正しさを突きつければ、お前は永遠に死神のままだ。せっかく芽生えかけた信頼ごと、焼かれて果てる。
クレフの唇が、閉じた。
彼は、開きかけた口を閉ざし、ふたたび目を伏せた。膝の石板を、握り直した。
マレナは、立ち上がった。
棺のかたわらから身を起こし、ゆっくりと、村人らとクレフのあいだに歩み出る。がっしりとした体を、両者の中ほどに据えるように立った。村人の視線が、いっせいに彼女へ集まる。神官に逆らうのか、と身構える者もいた。
だが、マレナは、ボードを見なかった。教義に逆らう言葉も、口にしなかった。
彼女は、ただ、おのが手のひらを見下ろした。節くれだった、三十年ぶんの手を。
「あたしはね」と、彼女は言った。荒っぽい、けれど低く落ち着いた声であった。「この子を、取り上げた」
村人らが、息をのんだ。
「六年前の、雪の朝だ。この手で、この子をこの世に引っぱり出した。それから、この子の兄も、あたしが取り上げた。二人とも、同じ井戸の水で育った子だよ。北の家の、同じ釣瓶でくんだ水でね」
彼女は、ゆっくりと顔を上げ、村人らを見渡した。
「あたしは、神官さまに逆らうつもりはない。女神さまのことは、あたしにはわからない。けどね、あたしには、わからないことが、もうひとつあるんだ」
マレナは、言葉を選ぶように、しばし間を置いた。
「この春、最初に倒れたのは、北の水の家からだった。北の、いちばん井戸に近い家から順に、ばたばたと倒れた。そして——南の家は、一軒も倒れちゃいない。一軒もだよ」
すすり泣きが、止まっていた。
「摂理なら」と彼女は言った。問い詰めるのではなく、自分自身が本当にわからない、というように。「摂理なら、なんで女神さまは、井戸の場所で人を選ぶんだい。北の水を飲んだ家だけを召して、南の水を飲んだ家には、指一本触れないのは、なんでだろうね。罰なら、井戸を封じた村ぜんぶに、等しく下るんじゃないのかい」




