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信頼が、信仰に変わる刹那

 誰も、答えなかった。


 だが、その沈黙の質が、変わっていた。


 マレナは、それきり口を閉じた。説き伏せようとはしない。ただ、おのが素朴な疑問を、村人らの前に置いただけであった。答えは出さない。出してやらない。それは、彼女の隣で目を伏せている男のやり方とは、まるで逆のやり方であった。


 クレフは、口を開かなかった。


 開きかけて、やめた。代わりに彼は、ただ立っていた。数も、事実も、突きつけなかった。それが、彼の選んだことであった。知識を振りかざさぬ、という選び。マレナが置いた問いが、村人らの中で、ひとりでに育つのを、待つという選び。


 そして、村人らは、辿りはじめた。


 はじめは、ためらいがちに。やがて、互いの顔を見合わせながら。


「……うちは、南だ」と、ひとりの男が言った。鍛冶屋のヨーストである。「うちは、誰も倒れちゃいない。子も、女房も」


「北のあの家は」と、別の女が、震える声で続けた。「あの家は、三人だ。じいさまと、嫁と、赤ん坊と」


「南の角の家も、無事だ」


「北の、井戸のすぐ脇の——あそこは、一家まるごと」


 声が、重なりはじめた。


 彼らは、おのが記憶を照らし合わせていた。誰が、どこの水を飲み、いつ倒れたか。三日前、あの黒髪の男が石板に刻んでいたのと、同じことを。だが今度は、男に教えられたのではなかった。おのが口で隣人の名を並べ、おのが目で、その並びの底に潜む形を見ようとしていた。


 マレナは、その声の重なりを聞きながら、わずかに目を細めた。


 橋が、かかった、と彼女は思った。


 村人らは、いつのまにか、祠の前から、北の井戸の見える斜面のほうへ、視線を向けはじめていた。封じられた井戸。板を打ちつけ、誰も近づかなくなったあの場所。そして、その井戸から遠い南の谷へと続く、新しく踏み固められた水汲みの道。


「北の家は」と、ヨーストが、おのれに言い聞かせるように言った。「あの男が、名指しした通りに倒れた。明日はあの家だと言われた家が、本当に、次の朝に倒れた」


「南に水を変えてからも」と、女が続けた。「二日、三日は、まだ倒れる者が出たさ。けど——倒れたのは、決まって北の水を飲んでた者ばかりだった。南だけの家からは、ひとりも出やしない。最後まで、ひとりもだ。そして、その北の者も、井戸が封じられて三日もすると、ぱたりと止んだ」


 村人らが、黙り込んだ。


 それは、もはや、賭けの結果を確かめる声ではない。自分たちが見たものの意味を、ようやくおのが言葉で掴もうとする声であった。男に救われたのではない。男が指し示した通りに、世界が動いたのを、自分たちはこの目で見たのだ。


 その重い沈黙のなかで、ようやく、クレフが口を開いた。


 たった一言、最小限を返すために。


「私は、女神を否定していない」


 静かな声であった。村人らが、いっせいに彼を見た。死神が、葬送の場で、ついに口を開いた。身構える者もいた。だが、その先の言葉は、彼らが恐れていたものとは違っていた。


「女神が、水に何を込めたか」とクレフは言った。「それを、君たちが見ただけだ」


 彼は、それ以上は言わなかった。


 女神を否定しなかった。摂理を、偽りだとも言わなかった。ただ、女神の恵みであるはずの水のなかに、命を分ける何かがある——それを、村人ら自身がおのが目で見たのだ、と告げただけであった。信仰を壊さず、その隣に、見たという事実を、そっと置いた。


 村人らの中で、何かが、静かに変質していった。


 それは、もはや、ただの感謝ではない。救ってくれた、というありがたさを越えていた。この男の言うことは、当たる。明日倒れる者を、名指しで言い当てる。世界の動きを、先に知っている。——感謝が確信になり、確信が、畏れに近いものへと深まっていく。それは、ボードの祈りが届くのとは別の道を通って、けれど同じほど深く、村人らの腹の底に沈んでいった。


 信頼が、信仰に近いものへと、変わる刹那であった。


 マレナは、それを見届けた。


 そして、視線を、棺へと戻した。


 エルナの棺は、まだそこにあった。村人らの確信がどれほど深まろうと、この子は還ってこない。賭けに勝った男の、当たり続けた言葉の、そのすぐ隣に、救えなかったひとりとして置かれたまま、消えない。この子には顔がある、とマレナは思った。名があり、生まれた朝があり、取り上げたあたしの手の記憶がある。村人の確信が、この小さな箱を踏み台にして高くなっていく——それを、彼女は忘れまいとした。


 誰かが言うべきだ、と彼女は思った。これは代償だと。


 けれど、それは今日でなくていい、とも思った。


 *


 やがて、棺は、祠の脇の土に埋められた。


 ボードが最後の祈りを唱え、村人らは、ひとり、またひとりと、墓地を去っていった。去りぎわに、幾人かが、クレフのほうをちらと見た。あの夜の、焼いてしまえという殺気立った目とは、もう違っていた。怯えと、畏れと、すがるような何かの混じった目であった。


 日が高くなり、墓地に、二人だけが残った。


 ボードと、クレフである。


 老神官は、新しく盛られた土のかたわらに立ち、しばらく動かなかった。それから、ゆっくりと、クレフのほうへ歩み寄った。痩せた青年は、石板を抱えたまま、その場を動かずに待った。


 ボードは、口を開きかけた。


 冒涜者、という言葉を、彼は用意してきたはずであった。神聖な水源を封じ、女神の摂理を疑わせ、葬送の場で民の心を奪った男。それを断ずる言葉を、唱えるべきであった。神官として、当然、そうすべきであった。


 けれど、その言葉は、出てこなかった。


 なぜなら、ボードは知っていたからだ。誰よりも、知っていた。三年前のあの大疫病のとき、人口の三割が死んだあの冬、おのれが朝から晩まで祈り続けて、ただのひとりも救えなかったことを。先代の辺境伯夫妻も、長兄も、彼の腕のなかで、彼の祈りのなかで、女神のもとへ還っていった。あの冬、彼の祈りは、ひとつの命も引き止めはしなかった。


 その記憶が、いま、彼の喉で、断罪の言葉をせき止めていた。


「そなたは」と、ボードはようやく言った。声は、穏やかだった。けれど、いつもの確信が、わずかに欠けていた。「そなたは、女神を、試すのか」


 クレフは、すぐには答えなかった。暗い青の目で、老神官の顔を、静かに見た。


「いいえ」と、彼は言った。「私は、女神が水に込めたものを、ただ、見ようとしているだけです」


 彼は、女神と知識を、切り分けなかった。


 それは、村人に告げたのと同じ言い回しであった。女神を否定しない。摂理を偽りだと言わない。ただ、その恵みの中身を、人は見ることができる、と。神官にも、おのれにも、逃げ道を残す、注意深い返答であった。敵対しない。論破しない。ただ、争いの形を、巧みにかわす。


 ボードは、長いあいだ、その青年の顔を見ていた。


 彼のなかには、まだ言いたいことが渦巻いている。水は恵みだ、封じるなど許されぬ、そなたのやり方は信仰を壊す。けれど、そのどの言葉も、口に出す前に、あの冬の記憶に行き当たって力を失った。祈りで救えなかった自分が、見ることで救った男を、どうして断じられよう。


「……そなたのことは」と、ボードは言った。それきり、続きを言わなかった。


 彼は、断罪を、のみ込んだ。


 冒涜者と呼ぶことも、村から追うことも、しなかった。ただ、新しい墓の土を、もう一度だけ見下ろし、それから、ゆっくりと背を向けた。信仰と知識の、いずれが正しいのか。その二つが、同じ村で、同じ朝に、並んで立てるのか。——その問いを、彼は解かぬまま、抱えて去っていった。


 その背が、墓地の門の向こうへ消えるのを、クレフは見送った。


 静観へ転じた背であった。少なくとも、いまは、まだ。


 ひとりになった墓地で、クレフは、膝の石板を、もう一度見た。


 炭で刻まれた、最初の六つの名。その最後のひとつを、指の腹で、ゆっくりとなぞった。


 エルナ、六歳。


 間に合わなかった六人の、しまいのひとり。彼は、その名を、消さなかった。賭けに勝ったことも、村人の信頼を得たことも、このひとつの名を消す理由にはならなかった。数えた死は、数えたまま、彼の膝に残る。


 彼は、顔を上げた。


 墓地の向こうに、村が見えた。煙の上がる屋根が、いくつも。三日前まで、三人に一人が死ぬはずだった村。いま、その大半が、生きている。彼が救った命であった。そして、その命のひとつひとつが、たったいま、彼を信じはじめていた。この男の言うことは、当たる、と。


 救った命が、ここにある、とクレフは思った。


 信じる者が、生まれた。


 ならば、次は——この救った命を、この芽生えた信頼を、いかにして領の力に変えるか。ひとりの死を防ぐことから、千人の死を防ぐ仕組みへ。ひとつの村の信頼から、ひとつの領の力へ。捨て駒の弱小辺境を、生かしておく値打ちのある土地に、どう変えるか。


 膝の石板に、彼は、新しい一行を刻むつもりであった。


 救った数。それを、領の力に変える、その日からの帳簿を。

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