石板を、裏返す
領館の奥に、誰も足を踏み入れぬ部屋があった。
徴税の間、と呼ばれていた。先代までの辺境伯が、年に二度、村々から上がる年貢の覚えをここで検めた。三年前にこの部屋を使っていた者は、領主夫妻も書記も、ことごとく病に果てた。だから部屋ごと死んだのだ、と村の者は言った。いまは、ただ埃の積もる倉である。
クレフは、その死んだ部屋に、一人こもっていた。
机の上には、棚から引き出した古い帳簿が積まれている。羊皮紙は黄ばみ、湿気に波打ち、めくれば埃が舞った。人別の覚え書き――どの家に誰が何人いて、何反の畑を持ち、いくら納めたか。几帳面な手で記された数の列が、三年前のある月で、ふつりと途切れている。そこから先は、白紙であった。疫病の年から、誰一人帳面をつけていない。死んだ家の名が、生きていた頃のまま、紙の上に残されていた。
クレフは、その白紙の手前で指を止めた。
ここに並ぶ名の、三人に一人は、もう土の下である。けれど帳面は、それを知らない。納めた者として、畑を持つ者として、息子を三人持つ父として、彼らはなお紙の上に生きていた。死んだことすら、誰も書き留めなかった。死は司祭が看取り、女神へ還す。数えるのは不敬である。――この領は、おのれが誰を失ったのかさえ、数えてはいなかった。
膝の上に、石板があった。
あの井戸の前から、ずっと手放さずにきたものだ。表には、炭で刻んだ名が並んでいる。エルナ、六歳。リエル。トーマ。子山羊小屋のヤン。双子の妹。メッサ婆さん。封鎖からの三日に倒れ、止まり、それでも間に合わなかった幾人か。死神の名簿。村の者が、近づけば次が死ぬと怖れた板であった。
クレフは、それを机に置いた。そして、初めて、裏返した。
刻まれた面が、机に伏せられる。石の裏は、まだ何も記されぬ、ただ灰色の平らであった。
――死を数えてきた、この同じ手で。
炭のかけらを取り、彼は思った。曲線の下がりは、死が止んだことしか語らない。誰が生き残ったか、その者がこれから幾年生き、誰を養い、何を生むのか――前世の椎名玲は、そこまでは、ついぞ数えなかった。死を数えるのは、医者の業の半分でしかない。残る半分を、玲は最後まで知らずに果てた。
今度は、その半分を、こちら側から数える。
炭が、石の裏で小さく鳴った。
「クレフさま」
戸口で、細い声がした。
領館にただ一人残った、若い書記であった。ヤルトという。先代の帳面をつけていた者の、そのまた下働きで、墨を磨り、紙を継ぐだけの男であったが、病を生きのびて、いまはこの館にただ一人、文字を読める者となっていた。痩せて、背が高く、指が細い。
「こんな夜更けに、徴税の間で……何を、お書きで」
「人を数えている」とクレフは答えた。
ヤルトは、痩せた首を傾げた。
「死んだ者の覚えは、もう、わたくしの書ける数ではございませぬ。三年前、途中で筆を擱きました。あまりに……数が多うて。神官さまも、死を数えるのは女神への……」
「死んだ者は数えない」
クレフは、石板の裏を、ヤルトのほうへ向けた。そこにはまだ、何も記されていない。
「生き残った者を数える」
ヤルトの目が、しばたたいた。
「生きて、おる者を……? なにゆえ、でございます。死者の覚えならば、御供養のためと、まだわかりまする。されど、生きておる者は、見ればそこにおりまする。わざわざ石に刻むまでもなく……」
「死んだ数は、もう動かない」
クレフは、石板を引き戻した。
「焼いても祈っても、エルナは六歳のまま、増えも減りもしない。数え終えた数だ。――だが、生きている数は動く。来年、子が生まれれば増える。誰かが養いきれずに飢えれば減る。畑を打てる手が一人増えれば、領が起こせる田が一反増える。動くのは、いつも、生きている数のほうだ」
ヤルトは、しばらく黙していた。それから、痩せた身を折り、机の上の古い帳簿に、手を伸ばした。
「……墨を、磨りましょうか」
「ああ」とクレフは言った。「明日からだ。村を、一軒ずつ回る」
*
翌日、クレフはマレナを連れて村へ下りた。
空は薄曇りで、雪解けの泥がなお道に残っていた。マレナは節くれだった手を腰に当て、いぶかしげに横を歩いた。
「で。今日はあたしに、何を取り上げさせる気だい。子はしばらく生まれやしないよ」
「数えるのを、手伝ってほしい」
「数える?」マレナが片眉を上げた。「あんた、また石板かい。今度は誰を埋めるんだ」
「誰も埋めない。生きている者を数える」
マレナは、ふん、と鼻を鳴らしたが、足は止めなかった。
最初の家は、谷側の二番目であった。戸を叩くと、寡婦が一人、出てきた。夫を三年前の疫病で、上の息子を、つい先頃の北の水で失ったばかりの女である。クレフは、戸口に問うた。
「この家で、鍬を握れる者は何人だ」
女が、戸惑った顔をした。
「……あたしと、下の倅と。倅はまだ十二だけど、畑には立てます」
「二人」クレフは石板に炭を走らせた。「持っている畑は」
「谷側の、北寄りの三反。……でも、今年は半分、水をやれずに枯らしました」
「北の水を断ったからか」
「はい。南から運ぶには、遠すぎて」
クレフは刻んだ。寡婦、下の子、畑三反、うち半分は水が届かず。それから次の家へ移った。マレナが、その背を追いながら、低く言った。
「あんた、いま、あの女のことを『鍬を握れる者二人』って書いたね」
「書いた」
「あの倅はね、生まれたとき、あたしが取り上げたんだ。へその緒を切ったのもあたしさ。逆子でね、半日かかった。母親は死ぬかと思った」マレナは、おのれの手のひらを見下ろした。「あんたの言う『二』ってのは、そういう顔をしてるんだよ。鍬じゃない」
「知っている」とクレフは答えた。「だから、君に来てもらった」
二人は、家から家へ回った。誰が生き残り、誰が死に、寡婦が何人、親を失った童が何人出たか。クレフは即物的に問い、即物的に刻んだ。この家で畑に立てる手は何人。この春、北の水で死んだのは何人。残された畑は、いま誰の手にあるか。問いはどれも、女神とも罪とも関わりがなかった。誰が、誰を、何で養えるか。それだけであった。
マレナは、一軒ごとに顔を重ねた。取り上げた童の、初めての産声。看取った老婆の、最後の息。クレフが「孤児二人」と刻むとき、マレナはその二人が雪の朝、親の骸の横で泣いていたのを覚えていた。
昼を過ぎる頃、クレフは石板を見下ろして、足を止めた。
数が、片寄っていた。
北の井戸を断たれた一帯――谷の北寄りに家を構える者ほど、生き残りが少なく、生きていても畑が傷んでいた。水を遠くから運ぶ労に倒れた老人、枯れた田、人手を失って打ち捨てられた畑。封鎖は村を救った。だが救われた村のうちで、北の一帯だけが、いまなお痩せ続けている。死は止まった。けれど、止まったあとの暮らしまでは、まだ立て直っていなかった。
「北が、軒並み弱っている」とクレフは言った。半ばマレナにではなく、おのれに。「人手も、畑も。井戸を断ったぶん、ここが一番、損をした」
マレナが、横から石板を覗き込んだ。点と数の並んだ面を、しばらく見ていた。
「あんた、こうして数を並べると……どこが弱ってるか、ひと目でわかるんだね」
「わかる。どこに手が足りていないか。どこに水を引き直せば、何反の畑が起きるか。数で見れば、見える」
「便利なもんだ」マレナは、皮肉とも本音ともつかぬ調子で言った。「けど、気をつけな。あんたの目が、いつのまにか、人を畑の足し算みたいに見はじめてないかい。さっきの倅を、『一人前の手まであと三年』みたいにさ」
クレフは、答えなかった。炭を握る指が、ほんのわずか、止まった。




