その数に、顔はあるか
その日の夕、クレフは領館の広間に、数え直した帳面を開いた。
ヤルトが書き取った数の列が、卓の上に広がっている。生き残った者の頭数、家ごとの働き手、起こせる畑、打ち捨てられた田。村の骨格が、初めて数として目の前にあった。
広間には、ボードがいた。そして、もう一人。
北の畑の差配役――グンドという、頑丈な肩をした男であった。封じられた北の井戸で、長く水利を握ってきた家の者である。北の田に水を引く順を定め、水車を回し、その差配で村に重んじられてきた。井戸が封じられて、彼はその権を、丸ごと失っていた。
グンドは、開かれた帳面を睨んでいた。数の列を、まるで罠のように。
「死神さまが」と、彼は太い声で言った。「今度は、生きてる者の頭数を、勘定なさるか」
「数えている」とクレフは認めた。
「年貢の算段だな」グンドは卓に手をついた。「誰の家に何人いて、何反の畑がある。そいつを書き留めて、次は何を取り立てる気だ。死んだ者を数え終わったら、今度は生きてる者を一人ずつ数えて、年貢に変える。そういう死神か、あんたは」
図星であった。クレフは、それを内心に認めた。この帳面は、いずれ取り立ての土台になりうる。誰がどれだけ持っているかを知ることは、誰からどれだけ取れるかを知ることと、紙一重であった。
広間の隅で、ボードが静かに口を開いた。
「クレフさま」温和な皺が、いつもより深く刻まれていた。「生きておる者の名を、石に刻み、紙に綴る……それは、人を女神の御手から、台帳の中へ移すことには、なりませぬか。死者を数えるのも、生者を数えるのも、人を数として扱うことに、変わりはございますまい」
クレフは、ボードを見た。
「神官どのは、これを止めよと言うか」
ボードは、しばらく黙した。それから、首を横に振った。
「……止めはいたしませぬ」
その声には、認めたくないものを認める者の、抑えた苦さがあった。
「井戸を封じたとき、私はそなたを冒涜者と思いました。されど、村は生きのびた。あの冬、祈りにできなかったことを、そなたの言葉がしてのけた。――その事実の前で、私が女神の摂理を説いたところで、もはや誰の喉も潤しはいたしませぬ」彼は静かに目を伏せた。「ただ、見ております。そなたが、生者を数えたその手で、いつか、生者を選びはせぬか。それだけを」
断罪はなかった。だが、静かな見張りが、そこに残った。
クレフは、グンドへ向き直った。
「この帳面は、取り立てのためではない」
「どうだか」
「誰が、誰を養えるかを見るためだ」クレフは数の列を指でなぞった。「北の一帯が、いま一番痩せている。お前の井戸を断ったからだ。それは、わかっている」
グンドの眉が、わずかに動いた。
「わかっているなら――」
「だが、今日のところは、わからせただけだ」クレフは指を止めた。「お前が何を失ったか、この数が、初めてはっきりと示している。失った権の埋め合わせを、どこから引くか。それを、これから考える」
グンドは、しばらく睨んでいたが、やがて吐き捨てるように言った。
「言葉だけなら、いくらでも並べられる」
彼は、不満を解かぬまま、広間を出ていった。封鎖で水と利を失った男の背は、数の列ひとつで、なだめられはしなかった。クレフは、それを見送りながら、帳面の北の欄に、もう一度目を落とした。
*
夜更け、机に戻ったクレフは、帳面の横に、もう一枚、古い羊皮紙を広げた。
村の水路の図であった。徴税の間の棚の奥から、ヤルトが探り当てたものだ。谷川から引かれた水路が北と南へ枝分かれし、井戸と田へ注ぐ筋が、褪せた線で描かれていた。北の井戸はいま封じられて、太い線の途中でぷつりと切れている。
クレフは、その図に、帳面の数を重ねていった。
死んだ者が減って、いま、空いた畑がある。打ち手のいない田、相続する者のない畑。一方、北の一帯には、水を失って痩せた田と、行き場をなくした生き残りの手がある。図と数を、突き合わせる。空いた畑と、余った手と、断たれた水と。
南の水路から、北の枯れた田へ、新しい筋を一本引けぬか。指が、図の上を走った。南の井戸は深く、封鎖のあとも涸れていない。そこから、なだらかな谷の傾きを使って、北寄りの三反へ水を回す。距離はある。だが、空いた畑を間に挟めば、運ぶ手も、回す順も、組み直せる。
そして、水車と差配の権を。
クレフは、帳面のグンドの欄を見た。封鎖で奪われた、北の井戸の水利。それを、そっくり返すことはできない。井戸は、もう開けない。開ければ、また人が倒れる。だが――付け替えることは、できる。
奪われた北の差配の代わりに、新しく引く南からの水路と、そこに割り当て直す畑の差配を。空いた田を、彼の家に預ける。失った権と、ぴたりと同じではない。だが、ゼロではない。損の半分を、別の形で埋め戻す線。クレフは、図の上にその筋を引き、数で裏を取った。引ける水の量、起こせる畑の反数、それを差配する手間。帳面の数が、初めて、机上の絵空事ではなく、明日にも動かせる段取りとして並んだ。グンドに何を差し出せば、奪った半分を埋め戻せるか。その答えが、いま、図と数の上に出ていた。あとは、それを男の前に置くだけであった。
クレフは、図と帳面を、明日の差配の席のために重ねて巻いた。台帳が、初めて動こうとしていた。人を動かし、不満をなだめ、分配を正す道具として。死んだ名簿でも、生きた名簿でもなく――統治の手綱として。
*
深夜、領館の窓辺に、クレフは立っていた。
板を一枚外した隙間から、村の灯が、いくつか見えた。三年前なら、もっと多くの窓に火があったはずである。いまは、まばらだ。だが、消えてはいない。
膝の上ではなく、いま彼の手のなかにある石板は、もう死者の名簿ではなかった。表には死んだ名が刻まれたまま。だが裏には、生者の数が刻まれていた。生き残った者の頭数、鍬を握れる手、起こせる畑、――そして、来年、村が納めうるであろう、潜在の税。死を数えた板の裏側に、生が積まれていた。
クレフは、その数を見て、初めて、未来を勘定した。
この領は、まだ、これだけの手が働ける。来年、これだけの畑が起こせる。北の田に水が届けば、収穫がこれだけ戻る。三年前に失った三割は、もう返らない。だが、残った七割が、これから何を生むか――それが、数で、見えた。井戸の前で「次に倒れる者」を言い当てたときと、同じ手応えであった。ただし今度は、死ではなく、生のほうを読んでいた。救った命が、領の力として、目盛りの上に並びはじめていた。
背後で、足音がした。マレナであった。
「まだ起きてるのかい、死神さま」彼女は、窓辺の石板を覗き込んだ。数の列を、しばらく見ていた。「ふうん。生きてる者の、勘定書きかい」
「そうだ」
「これだけ生きてる、来年これだけ畑が起きる、ってかい」マレナは、節くれだった指で、数の一つを指した。「この『二』ってのは、谷側の二番目の家だね。寡婦と、倅と。あの逆子の倅さ」
「ああ」
マレナは、その数を見つめたまま、低く言った。
「あんた、いま、ちょっと――」
言葉を選ぶように、間が空いた。
「村の顔を見ないで、数だけ見てたよ」
クレフは、答えなかった。
窓の外の灯を、見ていた。否む言葉は、出てこなかった。たしかに、いまおのれは、谷側の二番目の家を、その畑三反の「三」と読み、来年起こせる畑として勘定した。逆子で半日かかった倅の顔も、夫と上の子を失った寡婦の顔も、その「三」の中には、入っていなかった。マレナの言う通りであった。
わずかに、沈黙した。
救う者が、いつ、人を数で選ぶ者に変わるのか。井戸を封じたときは、まだ、一人ずつ名で数えていた。だが、いま手のなかの板には、名ではなく、数が並んでいた。生かすために数えはじめた手が、いつのまにか、生かす者を数で量りはじめている。その芽がおのれの内に兆したことを、クレフは、はっきりと感じた。
「……知っている」と、ようやく彼は言った。
マレナは、それ以上は言わなかった。窓辺の灯を、二人で、しばらく見ていた。
石板の裏で、生者の数が、暗がりのなかに、静かに並んでいた。




