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生者の台帳

 朝の光が、領館の卓に置かれた一冊の上へ落ちていた。


 人口台帳――そう呼ぶのはクレフひとりで、若い書記はただ「名簿」と言った。表紙は粗い羊皮で、まだ油の匂いが残る。クレフは指の腹でその表紙を撫でた。撫でることに意味はなかった。ただ、手がそうした。


 最初に作ったのは死者の石板であった。名を刻み、井戸の位を刻み、死の順を刻んだ。あれは墓標ではない。図表であった。


 そして今、卓の上にあるのは生者の帳面であった。


 死者の石板から書き写された生者――妙な言いようだが、実のところそうであった。誰が死んだかをひたすら数えた果てに、誰が生き残ったかが、引き算の残りのごとく浮かび上がってくる。倒れた者を一人ずつ消していけば、立っている者だけが帳面に残る。クレフは死を数えることで、いつのまにか生を数え終えていた。


 書記のヤルトが、卓の端で羽根ペンの先を整えている。痩せた、まだ若い男だ。陪席というほどのものではない。クレフが何か言えば書き取る、それだけの役だ。彼はクレフの作る帳面を不気味がっていた。死を数えるのも、生を数えるのも、この土地では女神の領分を侵すことであったから。されど雪解けの村で、神官の祈りが一人も救えず、クレフの命じた南の水と煮沸だけが死を止めたのを、彼もまた見ていた。ゆえに今は黙して羽根を削っている。


 クレフは帳面を開いた。


 列が並んでいた。家ごとに行があり、行の中に列がある。名。年。男か女か。働けるか否か。耕す畑の有無。納める賦の見込み。


 彼は声に出して読みはじめた。読み上げるためではない。確かめるためであった。


「北の村、麦打ちのヨナ家。生者三。男一、女二。働き手二。畑、半分は北の水で枯れた。来季の納め、見込み薄」


 ヤルトが羽根を止めて顔を上げたが、クレフは続けた。


「同じ村、桶屋のテム家。生者六。働き手四。畑なし、桶の手間賃で立つ。納め、銭で見込みあり」


 声が、列の上を滑っていく。


 読み上げるうちに、あの夜、窓辺で兆していたものが、かたちを成していった。


 前世の彼は、死だけを数えた。


 今は、生を数えている。


 生き延びた者は、畑を耕す。畑は麦を生み、麦は賦になる。賦は銭になる。働き手は、立てる頭数だ。立てる頭数は――兵になる。


 帳面の「働き手二」は、ただ生き残った二人ではなかった。耕す手であり、納める腹であり、立たせれば剣を握る二つの頭であった。


 クレフは賭けをして、この者たちを生かした。南の水を飲ませ、井戸を封じ、煮沸を強い、倒れた者を隔てた。倒れる者は止められない、だが死なせはせぬ――その一点に賭けた。賭けに勝った者たちが、今、列をなして並んでいる。働き手、畑、賦の見込み。


 救った命が、国の力に化けていた。


 死を数の羅列としてしか見られなかった男が、今度は生を数で見ている。兆しにすぎなかったその変わり身が、いま、静かな戦慄とともに、確信になった。声には出さなかった。面も変えなかった。ただ、撫でていた指が、一度だけ止まった。


「これを」と彼はヤルトに言った。「写しを一つ。差配の席で使う」


 ヤルトは何か問いたげであったが、結局「はい」とだけ答えて羽根を動かした。


 クレフはもう一度、列を見た。読み上げる声に、もう躊躇はなかった。


 *


 昼を過ぎて、領館の一室に古参の役人たちが集まった。


 兵糧を握る者、畑割を握る者、水利の差配を代々受け持つ家の者。先代の領主家が倒れたのちも、土地の実権を握ってきたのはこうした役人たちであった。クレフが領主代理として何を言おうと、彼らが動かねば畑は割られず、水は流れない。


 中に一人、北の水路の利を長く独り占めにしてきた家の差配役――グンドがいた。頑丈な肩をした、太い声の男だ。クレフが井戸の封鎖と南の水への切り替えを命じたとき、最も渋ったのがこの男であった。失った水利の埋め合わせをどこから引くか、クレフはすでに図と数の上に線を引いてある。今日はそれを、初めて男の前に置かねばならぬ。


 卓の中央に、写したばかりの人口台帳が広げられた。


「数を、盤面にする」とクレフは言った。


 役人たちは帳面を覗き込んだが、列の意味まではすぐに読めない。クレフは指で行をなぞりながら話した。たとえ話は使わなかった。彼の言葉はいつも、事実と数だけでできている。


「北の水を断たれて畑を失った家がある。生き残ったが、働き手の足りぬ家がある。逆に、頭数の余る家がある。今の割り方のままなら、枯れた畑は枯れたまま、余った手は遊んだまま、領は痩せていく」


 彼は台帳の上で指を動かした。


「ヨナ家の枯れた半畝、これをテム家へ回す。テム家は手が余り、畑がない。耕せる手に、耕せる土を合わせる」


 畑割を握る役人が眉を寄せた。「ヨナの土を、桶屋へ。先祖代々の境を動かすのですか」


「動かす」とクレフは言った。「境は女神が引いたものではない。人が引いた。枯れた土を抱えて飢えるより、合わせて麦を出すがいい。ヨナ家には来季、テムの出す麦の一部を回す。土を貸す者にも分けがある」


 役人は黙した。理屈に穴がなかった。


 クレフは次に、グンドを見た。


「南の水路を、もう一本引く。北のそなたの取り分は、その新しい水路で補う。代わりに、古い北水路の余った分を、枯れた北の村の田へ流す。そなたの取り分は減らさぬ。減らさぬが、独り占めはやめてもらう」


 グンドの面が強張った。北の水を一手に握ることこそ、この家の力であった。それを手放せと言われている。


「私の家が、三代守った水を」


「守った水で、何人生かしました」クレフの声は静かであった。咎める響きはなく、ただ問うていた。「水を握って、家は富んだ。だが疫病で北の村は半分死んだ。あなたの水は、あなたの家の外へは流れなかった。今度は流す。代わりに、新しい水路の利は、あなたの家が最初に受ける」


 グンドは長く黙していた。やがて、絞り出すように言った。「……新しい水路を、本当に引けるのか」


「引ける。働き手は台帳にある。テム家のような、手の余る家から人を出す。賃は領が銭で払う。台帳が、誰を出せるかを教えてくれる」


 それは、ただの取引ではなかった。台帳が、人の配りを決めていた。誰の畑を誰へ、誰の水を誰へ、誰の手をどの普請へ。クレフは情を脇へ置いて割り振っていく。この家は削られ、この家は得をする。病人を救っていたころ、彼が握っていたのは「一人でも死を減らす」という一点だけであった。だが今、彼の手にあるのは別のものであった。全体を回すために、配る。


「来季の徴は」と彼は続けた。「畑のある家から、収穫の四分の一。畑のない手間賃の家からは、銭で六分の一。死者の出た家は、立ち直るまで半分にする。台帳に、家ごとの率を書き込む」


 兵糧を握る役人が、初めて口を開いた。「率を、家ごとに変えると」


「変える。一律にすれば、弱った家が潰れて、来年の働き手が減る。働き手が減れば、再来年の賦が減る。今、弱った家を生かしておくほうが、領は長く太る」


 役人たちは顔を見合わせた。誰も、こんな喋りようをする領主代理を見たことがなかった。慈悲でもなく、威でもなく、ただ算盤の音だけで領を動かそうとする童を。


 クレフは台帳の最後の列に指を置いた。それまで誰も意味を読めなかった列だ。


「そして――立てる頭数」


 *


「立てる頭数」と彼が言ったとき、戸口でその声を拾った者がいた。


 マレナであった。助産師の彼女に、この席に連なる役はない。されど領館に出入りする顔は多く、誰も彼女を止めはしなかった。彼女はがっしりした肩で戸を押し、節くれだった手を卓の縁にかけて、台帳を覗き込んだ。


「徴兵の名簿づくりだ」とクレフが言った。彼女に向けてではなく、役人たちへの説きの続きとして。「アウロラは、この領を捨て駒に使う。緩衝地だ。いつ兵を出せと言われてもおかしくない。出せなければ、領そのものが踏み潰される。台帳の働き手のうち、立てる頭数を拾い出す。年と、体と、家に残る手を見て」


 彼は名簿を拾いはじめた。台帳の行から、男の名を、年を、書き写していく。ヤルトの羽根が走る。


 マレナは数の列の一つに、指を押しつけた。爪が羊皮を鈍く凹ませる。


「これは」と彼女は言った。「ヨナんとこのリンだ。あたしが取り上げた」


 クレフの羽根が止まった。


「腹から出てきたとき、息をしてなくてね。あたしが背中を叩いて、逆さに振って、やっと泣いた。今年で十六だ。それを、あんたは」――彼女は帳面と、その向こうの童を交互に見た――「あんたが生かした子を、今度は死ぬ場所へ並べるのかい」

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