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配る者の手

 部屋が静まった。役人たちはマレナを見、それからクレフを見た。


 クレフはすぐには答えなかった。


 賭けで救った命を、兵役へ回す。南の水を飲ませ、煮沸を強い、井戸を封じてまで生かした者に、剣を持たせて国境へ送る。救う手と、差し出す手が、同じ一つの手であった。マレナは、それを言葉にした。彼女はいつもそうだ。クレフの数に、顔を貼りつけてくる。


「あんたの言う『数』ってのは、ぜんぶ顔があるんだよ」――いつぞやの彼女の言葉が、卓の上に戻ってきていた。


 クレフは、ふと、この台帳に載っていない一つの名を思った。


 エルナ。六歳。最初の波で死んだ子だ。クレフが村を数えはじめたとき、もう手遅れであった子。彼が救えなかった子。エルナの名は生者の台帳にはない。彼女は死者の石板にいる。クレフが最初に刻んだ、あの図表の中に。


 リンの名は、台帳にある。生かした。エルナの名は、石板にある。救えなかった。


 その差が、賭けの全部であった。


「マレナ」とクレフはようやく言った。声は低く、争う響きはなかった。「君の言う通りだ。リンは、君が背中を叩いて泣かせた子だ。私は否定しない」


「だったら」


「だが、兵を出せなければ、領が潰れる。領が潰れれば、リンも、リンの妹も、テムの子らも、また同じ井戸の水を飲んで死ぬか、アウロラの兵に踏まれるか、どちらかだ。私はリンを死地に並べたくない。並べたくないが、誰も並べなければ、もっと多く死ぬ」


 マレナは折れなかった。されど、台帳を破りもしなかった。彼女のごつい手は、リンの名の上に置かれたまま、動かない。


「あたしはね」と彼女は言った。「あんたを止めに来たんじゃないよ、たぶん。止められやしないのは、もう分かってる。ただ――あんたがその名を書くとき、それが誰の腹から出た子か、忘れないでほしいだけだ。数で書くなら、せめて顔を見て書きな」


 クレフは彼女の手の下の名を見た。リン。十六。ヨナ家。


「忘れない」と彼は言った。


 それは約であったが、軽い約ではなかった。忘れぬことは、止めることではない。彼はリンの名を書くだろう。顔を見て、書くだろう。マレナの歯止めは、彼に「やめさせる」ためのものではなかった。重さを背負わせる。ただそれだけであった。そしてその重さは、たぶん、止めるよりも残酷であった。


 役人たちは口を挟まなかった。この童と女のやりとりには、おのれには測れぬ秤がある――そう感じていた。


 クレフは羽根を取り直した。そして、リンの名を、名簿に書いた。


 *


 夜、領館の一室に、クレフは一人で残った。


 卓の上に、二つのものが並んでいた。生者の人口台帳と、死者を刻んだ最初の石板。石板は、いつものように、おのれの腕に抱えて運んできた。なぜそれをここへ持ち込んだのか、クレフ自身うまく言えなかった。ただ、並べて見たかった。


 両方とも、おのれが数えたものだ。


 石板には、最初の波で死んだ者の名がある。井戸の位がある。死の順がある。一番上の段の、左から三番目に、エルナ。彼が触れられなかった、最初の一人。


 台帳には、生き残った者の名がある。働き手。畑。賦の見込み。立てる頭数。リン。十六。今日、彼が名簿に書いた子。


 救えなかった一人は石板に、生かした一人は台帳に。前世で一人も救えなかった男が、今度は、その両方を、おのれの手で書いていた。それが、眠れぬ夜の中身であった。


 今、クレフは一人ひとりの生を配っている。この畑をこの手へ。この水をこの谷へ。この賦をこの率で。そして――この頭数を、死地へ。


 彼は、配る男になっていた。救う男から、配る男へ。


 窓の外は暗く、領館の壁の向こうで、いくつかの家の灯がまだ点いていた。あの灯の一つひとつが、台帳の一行だ。クレフはそれを知っていた。マレナの言う通り、数には顔がある。彼はそれを否定しない。否定したことは、一度もない。


 否定せぬまま、それでも回すと決めていた。


 賭けの理は、こうであった。倒れる者は止められない。だが死なせはせぬ。その一点に、彼はすべてを賭けてきた。今夜、その理は、もう一段先へ地続きに伸びていた。


 救った命を、国の力に変えねば、次の死を防げない。


 水を分け、井戸を封じ、死者を数える――それだけでは、領は守れない。守れぬ領は、また疫病に、あるいはアウロラに、人を喰われる。ゆえに彼は、救った命を賦に変え、兵に変える。リンを名簿に書く。重さを背負って、書く。


 それは、贖いであった。だが今、その贖いの宛先は、もう一人の病人ではなかった。領そのものへ、国そのものへと、広がっていた。


 目の老いた十七歳が、石板と台帳のあいだに座っていた。死を数える贖う者から、生と死を国の力に変える為政者へ。彼の重心は、すでにもう一方へ移っていた。表向きは淡々と、しかし芯のところで、贖いの静かな激しさは少しも消えていない。ただ、向かう先が大きくなっただけであった。


 戸口に、足音がした。マレナであった。彼女は何も言わず、卓の上の石板と台帳を見て、それから童の横顔を見た。


「並べたのかい」と彼女は言った。


「両方とも、私が数えた」とクレフは答えた。


 マレナは長く何も言わなかった。やがて、ぼそりと言った。「眠りな。死人も生者も、明日も逃げやしないよ」


 クレフは答えなかった。されど、彼女が去ったのち、灯を一つ消した。


 *


 雪解けの泥が乾き、夏に向かう数十日のあいだに、領は形を変えていった。


 割り直された畑では、テム家の手がヨナ家の半畝を耕していた。境を動かされた家々は、初めこそ渋ったが、枯れたまま飢えるよりはと、やがて鍬を入れた。南へ引かれた新しい水路は、まずグンドの家を潤し、その分、古い北水路の水が北の村の田へ流れ込んだ。枯れていた畑に、薄い緑が戻りはじめた。


 徴の見通しが、家ごとの率で立っていた。死者の出た家は半分に、立っている家は四分の一に。台帳が、誰からいくら取れるかを教え、誰を潰してはならぬかを教えた。


 兵が編まれはじめていた。リンの名のある名簿から、立てる頭数が拾われ、簡素な調練が始まっていた。剣はまだ揃わぬ。されど頭数だけは、台帳が確かに数えていた。


 そして――クレフの仕組みのもとでは、兵も民も、病で倒れなかった。


 南の水を飲む。器を煮沸する。倒れた者は隔てる。そして倒れた者には、塩と甘い物を溶いた湯冷ましを、少しずつ何度も飲ませて水と塩を口から返してやる。それは今や、誰に命じられるでもなく、ノルデンの作法になっていた。母が子に教え、桶屋が客に言い、調練の場では兵が互いに見張った。井戸を封じることは、もはや神聖を犯すことではなかった。死なぬための、当たり前になっていた。


 崩れる寸前であった領が、台帳を軸に、回りはじめていた。


 そのことが、外へ漏れ出すのに、長くはかからなかった。


 行商の口が、まず運んだ。「ノルデンは妙だ」と彼らは隣領で言った。「あの土地は、雪解けのたびに子が血の下痢で死ぬ年があった。今年は、ほとんど死んでいない」


 隣領の者は初め、信じなかった。女神の摂理に、土地ごとの贔屓があろうはずもない。されど、行商は別の土地でも同じことを言った。「ノルデンだけ、人が病で倒れない。畑が割り直されて、兵まで編んでいるらしい」


 噂は、領境を越えた。


 クレフはまだ、国境の脅威を見ていなかった。アウロラの将がどこにいて、何に目を凝らしているかも知らなかった。彼が見ていたのは、台帳の列と、石板の名と、緑の戻りはじめた畑だけであった。


 されど、彼が回しはじめた回路は――人を数え、賦に変え、兵に変えるその仕組みは――もはや、領の内側だけのものではなくなっていた。


「あの領だけ、兵が病で死なない」


 その事実は、すでに形をなしていた。形をなしたものは、いつか、外から見られる。隣領の口を通り、行商の足を通って、その噂は北へ、東へと、ゆるやかに滲んでいった。緩衝地の弱小領で、何かが起きている。捨て駒のはずの土地が、死ななくなっている。


 クレフ自身の知らぬところで、彼の数えた生と死は、領の壁を越えて、誰かの目に触れる段階に達していた。

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