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剣を抜かぬ死

 払暁の霧が、谷を乳色に満たしていた。


 グレゴール・ファルケン将軍は、国境の高地に立ち、霧の底に沈むノルデンの領を見下ろしていた。湿った風が、外套の裾を重く濡らしていく。アウロラ帝国の正規軍、五千。その先鋒が、いま背後で、長雨に緩んだ泥に脚を取られながら朝の支度をしていた。馬のいななき。鉄の触れあう音。火を熾す煙の匂い。どれも、霧の向こうの静まった谷とは無縁の、生きた軍の気配であった。


 眼下の領は、まだ眠っているように見えた。


 グレゴールは、霧の切れ目に覗く屋根のいくつかを、退屈まぎれに数えた。痩せた田。崩れかけた石垣。教会らしき塔が一つ。それだけであった。三年前、この辺境は疫病で三人に一人を喪ったと聞いている。領主の一族はほとんど死に絶え、末の童が一人、形ばかりに家を継いでいるという。大国と敵対勢力のあいだに挟まれた緩衝の地。誰も欲しがらず、誰も守らぬ、捨て駒の領であった。


 踏み潰すまでもない、と将軍は思った。これは目的の地ではない。ただの、通り道だ。


「将軍」


 背後で、若い士官が片膝をついた。先頭の斥候を束ねるレントだ。まだ二十なかば、目だけが妙に熱を帯びた男であった。


「斥候が、谷の奥まで入りました。渡れる場所が二つ。手前の浅瀬と、北寄りの、谷川を渡る古い渡しです」


「川は」


「長雨つづきで水嵩が増しております。ですが北の渡しなら、馬も荷も渡せましょう。水は——」レントは一拍おいた。「澄んで、冷たいそうで」


 グレゴールは頷いた。渡れる場所があるなら、それでよい。この領を抜ければ、本来の戦場が待っている。彼の地図のうえで、ノルデンはほとんど色のない空白であった。


「もう一つ、奇妙な報せが」


 レントが、わずかに眉を寄せた。


「あの領、人が増えているそうです。三年前にあれだけ死んだはずが——いまは徴税も徴兵も回りはじめていると。村に人が戻り、田に手が入っている。流れ者が、わざわざあの辺境を目指して入ってくる、とまで」


 グレゴールは、霧の谷へ目を戻したまま、鼻で笑った。


「死にぞこないの辺境が、田を起こしている。それのどこが奇妙だ」


「いえ……ただ、商人が言うには、あの領だけ、妙に——」


「レント」将軍は、若い士官の言葉をやわらかく遮った。「捨て駒の領が、痩せた田を耕している。結構なことだ。耕したのが誰であれ、明日には我らの轍が、その畝を踏み越える。人が増えていようが減っていようが、変わらん。我らは通り過ぎるだけだ」


 レントは口をつぐみ、頭を下げた。


 グレゴールは、外套の前を合わせた。霧は、肌に貼りつくほど湿っていた。眼下のどこかで、鶏が一度だけ鳴き、すぐに静まった。こういう朝を、彼は幾度も迎えてきた。剣を抜く前の、全能の朝。地図のうえの一点が、まだ何の抵抗も知らずに眠っている、静かな朝であった。


 北の渡しから渡る、と将軍は決めた。


 澄んで、冷たいという、その川を。


 軍が谷川を渡ったのは、その日の昼すぎであった。


 北の渡しは、斥候の言ったとおり、馬も荷も難なく渡せた。水は冷たく、流れは速かったが、深くはない。兵たちは膝まで浸かり、たがいの肩を支えあって、列をなして対岸へ渡った。幾人かは笑いながら掌で水をすくい、口へ運んだ。長い行軍で、皆が喉を渇かせていた。澄んだ谷川の水は、彼らには甘露のごとく見えたであろう。


 その夜、軍は谷の対岸に布陣した。


 水場には、渡ってきた谷川の支流が選ばれた。煮炊きの湯も、馬に飲ませる水も、兵が腰の革袋に満たす水も、ことごとくその流れから汲んだ。グレゴールの天幕にも、従者が同じ水で淹れた湯が運ばれてきた。彼はそれを当然のように飲み、地図の上に、明日からの進路を指でなぞった。何も起こらなかった。


 ことが始まったのは、布陣から二日が過ぎたあたりであった。


 最初に倒れたのは、補給隊の痩せた若い兵であった。腹を下している、と隊長が報告にきたとき、グレゴールはほとんど聞き流した。行軍に病人はつきものだ。だが翌朝、その兵は莚の上で、別人のように頬がこけていた。出すものを出しきって、ひからびていく。血の混じった、水のような下痢だ、と従者が顔をしかめた。さらに次の朝、その兵は果てた。


 そして、それは一人では終わらなかった。


 年かさの輜重兵が二人。馬丁の童が一人。痩せた者、若い者、年寄り——弱った者から、まるで選び抜かれるように倒れていった。症状はみな同じであった。激しい下痢。止まらぬ嘔吐。冷えていく手足。糸のように細る脈。そして、出しきった体が、乾いた革のように縮んで、息を引き取る。三日のあいだに、陣の端で七人が果てた。


 グレゴールは、倒れた者の莚を一つひとつ見て回った。将のすることではなかったかもしれぬ。だが、見ずにはいられなかった。痩せこけた頬。落ちくぼんだ眼窩。乾いて、ひび割れた唇。どの顔も、同じ型から抜いたように似ていた。何者かが、同じ手つきで、一人ずつ命を絞り出していくかのようであった。剣の傷なら、彼には読めた。槍の痕も、矢の角度も。だがこれは、傷一つない体が、内側から乾いて果てていく。彼の知るどんな戦の死とも違っていた。


 軍医まがいの従者——本来は将軍の身のまわりを世話する、薬草の心得が少しある老僕にすぎなかったが——は、倒れた兵の腹に手を当て、首を振るばかりであった。


「これは、腹に毒の溜まる病でございましょう」と、老僕はグレゴールに言った。「血の混じった水を下して、体が干からびて果てる。手の打ちようがございませぬ。瀉血をしても、かえって弱るばかりで」


「軍医を呼べ」


「軍医も、同じことを申しております。この病に、効く薬がないと。ただ、祈るほかには——」


 陣は、ざわめきはじめていた。


「罰だ」と、兵たちは言った。「この地に踏み込んだから、罰が当たったのだ」「捨て駒の領を荒らせば、土地の女神が怒るというぞ」「死人の領だ。死んだ者の祟りだ」——夜になると、天幕のあいだを、そんな囁きが風のように渡っていった。


 グレゴールは、神を信じる男ではなかった。だが、兵の心が崩れることこそ戦で最も恐ろしいのだと、骨身に染みて知っていた。彼は従軍司祭に祈祷を命じた。陣の中央に火を焚かせ、女神への贖罪の言葉を、夜どおし唱えさせた。


 死は、止まらなかった。


 火を焚き、祈りを上げた翌朝も、また三人が倒れていた。痩せた兵から、順に。出しきって、干からびて。祈りは、彼らの腹から抜けていく水を、ひと匙も引き止めなかった。


 将軍は天幕の外に立ち、自分の軍が、剣を一度も抜かぬまま削られていくのを見ていた。霧は、相変わらず谷を満たしていた。湿った風が、死者を運ぶ莚のあいだを抜けていく。彼は気づいてはいなかった。倒れる者が、陣の端から内へ、内へと寄ってきていることに。水を汲む流れのほとりを中心に、死が、静かに輪を広げていることに。


 彼の目には、ただ、罰のように見えぬ死が、罰のように降りつづけているだけであった。


 夜半、グレゴールの天幕に、斥候のレントが戻ってきた。


 外套は泥にまみれ、頬には疲労の影が深く刻まれていた。彼は片膝をつくと、言葉を探すように、しばらく口を開いては閉じた。


「申し上げにくいことを、見てまいりました」


「言え」


「我らの陣で、これだけの者が倒れております。三日で、十からの者が倒れ、すでに七人が息をしておりませぬ。けれど——」レントは、声を落とした。「谷の向こう、ノルデンの村では、人がほとんど死んでおりません」


 グレゴールは、地図から目を上げた。


「同じ谷でございます。同じ川の、同じ水。同じ空の下。あちらの民も、我らと変わらぬ水を飲んでいるはず。それなのに——あの領では、倒れた者が、死なずに起き上がってくるのです」


「……何の話だ」


「行商を一人、捕らえました。あの領から出てきた者です。脅すまでもなく、向こうから喋りました。ひどく怯えておりました。けれど、その怯えは——病にではなく、あの領のやり方に、でございました」

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