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鞭を握り返す者

 レントは、唾を飲み込んだ。


「あの領では、誰かが村の井戸を一つ封じたそうです。神聖な水場を封じて、誰にも飲ませぬようにした。そして倒れた者には——水に塩を溶いて、匙で、夜どおし飲ませつづけるのだとか。病人の汚した物は、けっして水のそばに捨てさせず、遠くに埋めさせる。そんな奇妙な掟が、領じゅうに行き渡っているのだそうです」


「井戸を、封じる」グレゴールは、繰り返した。「塩水を、飲ませる」


「はい。正気の沙汰には聞こえますまい。けれど——その掟を守った村から、死者がほとんど出ていないのです。倒れる者はおります。我らと同じように。けれど、倒れた者が、死なずに起き上がる。それを取り仕切る者があるらしい、と行商は申しました。ですが、その名は——」


「名は」


「分かりませぬ。名を尋ねても、行商は、知らぬ、と。ただ、領じゅうが、その者の言うとおりに動いている、と。それだけを、震えながら繰り返しておりました」


 天幕の中が、静まりかえった。


 火皿の油が、小さく爆ぜた。グレゴールは、地図に置いた自分の指を、ゆっくりと見下ろした。指は、いつのまにか谷川の線をなぞっていた。澄んで冷たいと言われた、あの川を。彼の軍が渡り、その水を飲み、煮炊きに用いた、あの流れを。


 将軍は、これまで幾多の戦場で、剣と矢と火を恐れてきた。だが、いま彼の背筋を撫でていく冷たさは、そのどれとも違っていた。


 彼は、これまで多くの土地を踏んできた。疫病の噂は、どこにでもあった。病が出れば、人は逃げ、村は閉じ、死者は数えきれず積み上がる。それが、彼の知る病の姿であった。病とは、誰にも止められず、ただ過ぎ去るのを待つしかないもの。女神が気まぐれに振るう、見えぬ鞭であった。だからこそ、谷の向こうの話は、彼の解を超えていた。誰かが、その鞭を握り返している。倒れる順を読み、倒れた者を引き戻し、どの水を飲ませ、どれを封じるかを決めている。


 なぜ、あの捨て駒の領だけ、兵が——いや、民が、一人も死なぬのか。


 同じ谷。同じ水。同じ空。剣を交えてもいない。火を放たれてもいない。それなのに、彼の軍は端から削られ、谷の向こうの弱小辺境は、倒れた者すら起き上がらせている。剣でも魔法でもない何かが、彼の軍だけを選んで殺している。そして谷の向こうでは、その同じ何かを、誰かが掌の上で飼い慣らしている。


「レント」と、グレゴールは、自分でも意外なほど低い声で言った。「お前の捕らえた行商は、その者の顔を、見たことがあるか」


「いえ。ただ、噂に聞くだけだと。痩せた、若い男だ、とだけ」


「若い男」


 将軍は、もう何も言わなかった。


 彼の頭の中で、これまで地図の空白でしかなかった一点が、初めて輪郭を持ちはじめていた。それは、踏み潰すまでもない通り道などではなかった。剣で奪える城でもなかった。彼が一度も学んだことのない言葉で人の生き死にを書き換えていく、得体の知れぬ何かであった。


 夜明けが近づくころ、グレゴールは決断を下した。


 撤退。


 彼は伝令を呼び、ただ一言、それを告げた。陣を畳み、来た道を戻る。渡ってきた谷川を、もう一度渡って、国境の向こうへ退く。一兵も、ノルデンの剣に倒れてはいない。それなのに、退く。


 その言葉を口にしたとき、グレゴールの胸を満たしたのは、まじりけのない屈辱であった。彼は将として、敗北を知らぬ男ではない。剣に敗れ、策に敗れ、数に敗れたことはある。だがそれは、いずれも相手の顔の見える敗北であった。今度のものは違う。彼は、誰とも戦ってはいない。見えぬ毒にただ兵を削られ、その毒すら己には手に負えぬのだと認めて、退くのだ。


 天幕の外では、撤退の支度が、密やかに始まっていた。死者を埋める土の匂い。畳まれる幕の音。馬具を締める、革の軋み。彼はその気配のなかに立ち、まだ霧の晴れぬ谷を、もう一度見渡した。


 そこへ、別の伝令が駆け込んできた。撤退の支度に紛れて、本国からの早馬が、いま陣に着いたのだという。


「将軍。都より、火急の報せにございます」


 伝令は、息を切らしながら、巻いた書状を差し出した。グレゴールはそれを受け取り、火皿の明かりにかざして読んだ。


 短い文面であった。


 ——都で、原因の知れぬ熱が広がりはじめている。高貴な御方々のあいだにも、病が及びつつある。皇女殿下が、床に伏された。


 グレゴールは、書状を握る手を、しばらく動かせなかった。


 皇女。彼の主の、ただ一人の娘。帝国の心臓の、そのまた最も奥深い部屋に座すべき人が、いま、原因の知れぬ熱に伏している。彼の軍を端から殺しているのと、同じ「原因の知れぬ」何かに、だ。


 将軍は、谷川のほうへ目を向けた。


 水は、国境を知らぬ。病も、知るまい。この谷で兵を殺している何かが、いつか川を下り、街道を伝い、やがて帝国の都の、皇女の枕元まで届くのだとしたら。そのとき勝つのは——剣を多く持つ側でも、兵を多く持つ側でもない。


 その何かを、掌の上で飼い慣らせる側だ。


 倒れた者を、起き上がらせる側だ。


 グレゴールは、これまで戦を剣と数で計ってきた。城をいくつ落とし、兵を何千動かせるか。それが将の算盤であった。だが、いま彼の腹の底で、別の算盤が、初めて冷たく弾かれた。剣より先に、治す者を持つ側が、大陸を獲る。


 そして、その治す者が誰なのかを、彼は、まだ知らなかった。


 谷の向こうの、痩せた若い男。名すら知れぬその者が、いつか己の主の娘の命を掌に握る日が来るやもしれぬ——それを、グレゴールは、まだ言葉にすることができなかった。


 軍列が国境へ向けて動きだしたのは、払暁であった。


 霧は、依然として谷を満たしていた。湿った風が、退く兵の背を、後ろから押すように吹いていた。死者を乗せた荷車の車輪が、雨に緩んだ泥に深い轍を刻みながら、来た道を逆にたどっていく。誰も勝鬨を上げなかった。誰も敗北を口にしなかった。ただ、言葉にできぬ何かに追われるように、軍は谷を離れていった。


 軍列の最後尾で、グレゴールは、馬上から一度だけ振り返った。


 眼下に、ノルデンの領があった。


 払暁の光が、霧をわずかに薄めて、その輪郭を、彼の目に晒していた。痩せた田。崩れかけた石垣。教会らしき塔。数日前、彼が「通り道」と見下ろした、まったく同じ景色であった。何も、変わってはいない。屋根の数も、田の畝も、あのときのままだ。


 それなのに、その領は、いまや、まるで違って見えた。


 数日前、彼の目に映っていたのは、踏み潰すまでもない、死にぞこないの弱小辺境であった。いま映っているのは、得体の知れぬ砦であった。剣も城壁も持たぬ。それなのに、彼の軍を、剣を交えることなく退かせた。眼下のその領では、人が死なず、増え、田を起こし、賦を生み、兵を生みつづけている。


 その一つひとつが何を意味するのか、グレゴールにはまだ言葉にできなかった。民が死なねば、人が増える。人が増えれば、田が起き、賦が集まる。賦が集まれば、兵が立つ。捨て駒であった一領が、そうやって、見えぬところで力を蓄えはじめている。剣を一度も抜かぬまま、大国の軍を谷で押し返すほどの、何かを。


 将軍は、霧の谷へ、長く目を据えていた。


 やがて軍列が高地の陰に入り、その領が視界から消えるまで、彼は一度も、前を向かなかった。


 湿った風が、彼の頬を撫で、谷のほうへ吹き戻っていった。捨て駒であったはずの一領が、いま、大陸の天秤を、たった一本の指で、静かに傾けはじめていた。


 その指の主の名を、グレゴール・ファルケンは、最後まで、知ることがなかった。

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