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立てる頭数

 初夏の朝、徴税の間に、乾いた光が差していた。


 ノルデン領館の北東、石壁に囲まれた狭い一室を、クレフはいつのまにか執務の場としていた。もとは収穫の俵を勘定するための部屋である。卓は分厚く、天板には古い墨の染みが層を成していた。窓は東に一つきり。朝のうちだけ、そこから入る光が卓の上を斜めに照らした。


 卓には二枚の板が並んでいる。生者台帳の羊皮紙には、村ごと家ごとに、生きている者の名が列を成す。その隣の石板は、裏返してあった。表には死者の名——この春に逝った六人の名が、刻まれた順に並んでいる。三年前の大疫病でこの領が喪った三割の民は、石には収まらぬ。あちらは井戸ごと月ごとに、別の帳面へ整理してあった。死者を石に、生者を紙に。石は消えず、紙は書き換わる。クレフは毎朝、その二枚を並べた。


「ヨナの村、水利の分け直しが終わりました」


 書記のヤルトが、別の帳面を抱えて入ってきた。痩せた、まだ若い男で、文字を書ける数少ない領民の一人である。三年前の疫病を生きのびて、ただ一人この館に残った書記であった。クレフが「数える」ことを始めてからは、その読み書きの腕を見込まれて、帳面の一切を任されている。


「上の堰から下まで、五日輪番で回しています。分け直す前は水争いが絶えませんでしたが、回し始めてからは今のところ無し、と」


「徴収率は」


「畑割を組み直した北の三村は、去年の七割まで戻りました。倒れる者が出なければ、刈り入れの手が欠けません。手が欠けなければ、徴収も落ちません」


 クレフは黙って帳面を引き寄せ、数字を追った。


 倒れる者が出なければ。


 その一行に、この春からのことごとくが収まっている。井戸を封じてからこのかた、ノルデンでは兵も民も病で死んでいない。井戸を分け、汚れた水源を封じ、煮た水を飲ませ、死者を埋める場所と生きる者の水場を切り離す——クレフが押しつけた予防の作法は、はじめ神聖を犯す不敬として恐れられたが、死人が出なくなるという結果の前で、いつのまにか領の慣習に変わっていた。理屈はいまだ誰も解さぬ。だが手順だけは、井戸の縄の結び方のように、村から村へ伝わっていった。


 倒れる者が出ない。ゆえに手が欠けぬ。手が欠けぬゆえ、畑が回り、水が回り、徴収が回る。医術の成果である前に、それは経営の数字であった。前世で、クレフは何万という死を、統計の数としてしか見られなかった。今、彼は生者を数として見ている。違いがあるとすれば、その数が今は増えていく側にあることだった。


「調練の名簿は」


「こちらに」


 ヤルトが三枚目を開いた。表題に短く「立てる頭数」とある。クレフが名づけた列であった。兵役に立てる年頃の男女を、村ごとに数えた帳面。徴兵名簿、とは呼ばせなかった。立てる頭数。立てるだけで、まだどこへ立てるとも決めていない頭数である。


 その列の半ばに、リン、と一字がある。ヨナ家、十六。横に小さく「調練中」と書き添えてあった。


 クレフはその名で指を止めた。


 リンは、三年前に父と弟を赤水病で喪った童だった。母のヨナと、幼い妹のニカと、北の村でかろうじて生き残り、この春の北の井戸封鎖で——あの、ボードと真正面から争った封鎖で——親子ともに村ごと生き延びた一人である。救った命の一つ、と言ってよかった。その名が今、立てる頭数の列に静かに乗っている。


 救う男から、配る男へ。重心がそちらへ移っていく手応えを、クレフは声には乗せず、ただ事実として認めた。この春、彼は井戸の前にしゃがみ、誰がいつどこの水を飲んで何日で果てたかを数えていた。今、彼が数えているのは、生き延びた頭数を、畑と水路と兵役にどう割り振るかであった。死を防ぐ手は、いつのまにか、生者を配る手になっていた。


 そしてその頭数は、まだ一度も外へ動いたことがない。


 それが、この朝の静けさの正体であった。畑割も水利も徴収も調練も、ことごとくこの領の内側で閉じた算盤だ。境の向こうとは、何の数字も交わしていない。立てる頭数は、立てたまま、領の中に積まれている。動かぬから、静かであった。


 クレフはその静けさを、束の間、味わうように卓の前に座っていた。


 *


 書状が届いたのは、同じ朝の遅くであった。


 使者は埃にまみれていた。馬を替えながら幾日も駆けてきた顔で、徴税の間の戸口に立ち、革筒から一通を取り出した。封蝋には宗主国の印が押されている。ノルデンの上に立つ上位権力——この領を緩衝地として擁する大国、宗主国アウロラの手であった。


 クレフは封を切った。


 文面は短い。緩衝地ノルデンは、定めの数の兵を供出せよ。集結の地と期日が記されている。それだけであった。理由は書かれていない。命じる側に、理由は要らぬ。


 クレフは行間を読んだ。


 なぜ今なのか。三年前にこの領が人口の三割を喪った時、帝都は一兵も寄越さなかった。緩衝地とは、そういう土地だ。境で擦り減り、削れていくための土地。誰も見向きもしなかった捨て駒の領に、上位権力が初めて手を伸ばすとすれば、それは帝都の側に、埋めねばならぬ穴が空いたということであった。


 使者の口は、求めずとも、その穴の形を漏らした。


「——アウロラの正規軍が、退きました」と、男は水を所望しながら言った。「赤水病です。境の駐屯地が、まるごと。前線が空いた」


 まるごと、という言い方に、噂の背丈が出ていた。報せは境を越えるたびに育つ。十幾人が百に、百がまるごとに化ける。


「帝都は」


「お聞きになりませんでしたか。原因の知れぬ熱が、城下から宮中まで。皇女さままで床に伏せられたと」


 クレフは表情を動かさなかった。


 絵が見えた。正規軍が病で溶け、前線に穴が空く。帝都の内にも原因の知れぬ熱が広がり、上位権力そのものが弱っている。そこへ、境の向こうから一つの噂が滲み出した——あの領だけ、兵が病で死なぬ。ノルデンだけが。


 その観測が、では兵を出させよ、という指図に変わって戻ってきた。盾のつもりで積み上げたものが、外から戦力として名指しされた瞬間であった。


 クレフは命令書を卓に置いた。生者台帳の隣に。立てる頭数の、すぐ横に。


 二枚は、初めて並んで卓に乗った。内側の算盤と、外からの指図とが。


 *


 昼が来ても、クレフは卓を立たなかった。


 ヤルトには下がっているよう言いつけ、ひとり、命令書と生者台帳を並べて見ていた。窓の光はもう斜めではなく、卓の真上から落ちている。


 天秤の片側には、断るという選びがあった。


 断ればどうなるか。クレフは即物的に勘定した。緩衝地ノルデンは、宗主国にとって守るべき値のない土地だ。命令を蹴れば、捨て駒は捨て駒らしく処理される。弱小領が上位権力の供出命令を撥ねつけて存続した先例を、帝都は残せぬ。見せしめに潰す。断るとは、潰されるということであった。


 天秤のもう片側には、応じるという選びがあった。


 応じるとは、立てる頭数を初めて外へ動かすことだ。この春から、井戸を分け、水を煮させ、死人の出ぬ領を作り上げた。その手で生かした命を、境の向こうの、誰かの戦のために差し出す。リンの名が、その中にある。

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