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盾を、武器に

 二つを並べて、クレフはしばらく動かなかった。屈服か、滅びか。弱小領に許された二択は、いつもその二つしかない。


 だが、並べて見ているうちに、彼は別のことに気づいた。


 命令書の「定めの数」という文字を、彼は見た。同じ数の兵でも、値が違う。アウロラの正規軍は、現に駐屯地の水に半分溶けて退いたばかりだ。だがノルデンの兵は、溶けぬ飲み方を知っている。立てる頭数は、ただの数ではない。宗主国にとって、唯一、目減りせぬ兵であった。


 盾だと思っていた。汚れた水を断ち、死人を出さぬ作法を、彼はこの領を守る盾として積み上げてきた。だが、この命令書の前では、それは盾ではない。交換の値であり、戦力であった。兵が死なぬという事実そのものが、手札になる。


 受諾は、屈服ではない。クレフは勘定の結論をそう据えた。受諾とは、この領が初めて、外へ差し出せる手札を持ったということだ。目減りせぬ兵を出せる領は、潰すには惜しい。惜しいと思わせれば、後ろ盾が手に入る。存続の値が、上がる。


 そこまで勘定して、クレフの意識の隅を、ひとつの顔がよぎった。


 マレナだった。あたしの取り上げた子だよ、と言うだろう。リンの顔を、彼女は知っている。クレフより、ずっと近くで。


 彼は、その顔を呼ばなかった。


 今日、マレナを呼べば、天秤が狂う。今この勘定が成り立っているのは、リンが「ヨナ家、十六、調練中」という一行だからであった。その一行に、母の顔と、生き延びた村の井戸の縄と、三年前に埋めた父と弟を足し始めたら、勘定は成り立たなくなる。


 ゆえに呼ばぬ。意識の隅をよぎった顔を、隅に置いたまま、クレフは卓の上の二枚に視線を戻した。


 事態を、まだ誰にも告げぬでおく。少なくとも、決めるまでは。


 *


 夕刻、クレフはヤルトと、差配役のグンドを徴税の間に呼んだ。


 グンドは封鎖で水利を半分失った村の出であった。この春の北の井戸封鎖は村を救ったが、同時にその村の水路の半分を死なせた。グンドはクレフに従っている。だが従い切ってはいない。残り半分の不満を、いつも腹の底に畳んで持っている男であった。


 クレフは命令書を二人の前に置いた。


「供出命令だ」と、彼は言った。「定めの数の兵を、宗主国へ出す。受ける」


 グンドの顔が、わずかに固くなった。


「クレフさま」と、彼は低く言った。「あれは——立てる頭数は、病で死なせまいと、あんたが言うから集めた頭でしょう。封鎖で水路を死なせてまで、生かした命だ。それを、外へ売るんですか。境の向こうの、誰の戦かも知れん戦に」


 買い言葉で返すこともできた。クレフはそうしなかった。勘定で返した。


「断れば、この領は潰される」と、彼は事実として置いた。「捨て駒が命令を撥ねた先例を、帝都は残さない。生かした命も、潰された領の中で死ぬ。それが断った場合の数だ」


「では受ければ、生かした命を死地へやる。同じことでしょう」


「同じではない」


 クレフは命令書の文字を指でなぞった。


「他領の兵は、駐屯地の水で溶ける。集めた数の半分が、戦う前に倒れる。アウロラの正規軍が、現にそうして退いた」彼は一度言葉を切った。「だがノルデンの兵は、水を見て飲む。煮ていない水を口にせず、汚物を水場から遠ざける——その手順ごと、連れて行く。だから溶けない。他領の百は半分になり、こちらの百は百のまま着く。目減りしない兵は、この領にしかない。捨てるには惜しい兵だ」


 グンドは黙った。


「惜しい兵を出す領は、潰さない方が得になる」と、クレフは続けた。「この領には、後ろ盾も、存続の値も無かった。今、初めて、それを買える手札が手に入った。出兵は、その支払いだ」


 彼は二人を見た。それから、声の調子を変えずに、初めてそれを言葉にした。


「兵が死なないことを、隠す段は終わった」


 ヤルトが、書きかけの羽根ペンを止めた。


「この春からこのかた、私はそれを盾として使ってきた。死人を出さず、領の内側を守る盾だ」クレフは言った。「ここから先は違う。前へ出す。盾を、武器に持ち替える」


 部屋が静まった。窓の外の光は、もう赤い。


 グンドは、まだ腹の底の半分を畳んだままであった。それが顔に出ている。だがクレフはその半分を、無理に解こうとはしなかった。解けぬ不満を、解けぬまま背負わせて使う。それも勘定のうちであった。


 語られなかったものも、部屋の隅にあった。神官ボードのことだ。井戸を封じることでさえ、ボードは女神への冒涜と呼んだ。生かした命を兵として外へ出すと知れば、黙っているはずがない。今のところ彼は静観している。封鎖が現に村を救った事実の前で、口をつぐむことを選んだ。だがそれは黙約に過ぎぬ。緊張は解けたのではない。ただ畳まれている。クレフはそれを会話の外に置いた。今夜は、まだ。


「受諾する」と、クレフは結んだ。「ヤルト、返書を整えろ。それから——名簿を書き換える」


 *


 夜になった。


 徴税の間には、卓の上の油灯だけが灯っていた。ヤルトが墨を磨り、羽根ペンを取った。クレフは卓の向かいに立って、それを見ていた。


「立てる頭数」の帳面と、新しく一枚。表題のところで、ヤルトの手が止まった。


「何と」


「実戦名簿、と」


 ヤルトは一拍置いてから、墨に羽根を浸した。表題だけが書かれた、白い紙であった。今夜書き込むのは、まだ名ではない。村ごと家ごとの、働き手の数である。集結の地。期日。出すべき総数。その下に、家ごとの手の数が、一行ずつ、墨が乾く間も置かずに移されていった。


 その中に、ヨナ家の行もあった。


 ヤルトの羽根が、ヨナ家、働き手二、と書いた。頭数だけである。誰を出すかは、まだどの行にも書かれていない。クレフは、その一行が書かれていくのを見ていた。


 働き手二。その二のうちの一が、この春、母とともに村ごと生き延びた、救った命の一つであることを、数字は語らない。クレフも、今夜は語らせなかった。


 盾を武器に持ち替えた、と昼に彼は言った。だが持ち替えは、まだ終わっていない。何人を、までは今夜数えた。誰を、は、これからであった。その「誰」の一字ずつを、いずれ己の指で埋める。名簿は、名を待つ器として、卓の上に開かれていた。


 マレナには、まだ何も告げていない。


 ヨナ家の頭数が今夜どの紙に移されたかを、彼女はまだ知らずに眠っている。告げれば動かせぬ。ゆえに、まだ告げぬ。クレフはそのことを、後ろめたさではなく、勘定として持っていた。


 窓の外は暗い。村は静かだ。病なく眠る村であった。三年前、ここでは人口の三割が血の混じる水で果てた。今、誰も死んでいない。倒れる者が出ぬ。ゆえにこの静けさがある。


 その静けさの中で、クレフは、自分が踏み込んだことだけを見据えていた。


 ヤルトが羽根を置いた。墨が乾いていく。頭数の脇に残された白い行が、油灯の下で、入るべき名を待っていた。

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