顔の上で止まる指
供出の命を受けてから、数日が過ぎていた。
昼の光が領館の卓へ斜めに差し、広げられた台帳の列を白く照らしていた。クレフはその前に座していた。卓の端で、書記のヤルトが羽根ペンの先を整えている。三年前の疫病を生きのびて領館に残った、ただ一人の書記で、クレフが「数える」ことを始めてからは帳面の一切を任されている、まだ若い男だ。指の細い、痩せた顔をして、クレフの作る帳面を、不気味がりながらも几帳面に書き写す。
卓上の台帳は、もはや以前のものではなかった。
数日前まで、それは徴兵の名簿であった。立てる頭数を拾い、調練のために並べた、まだ仮の列。剣は揃わず、いつ出すとも定まっていなかった。だが供出の命が下り、その列へ出立の日付が貼りつこうとしていた。アウロラは、この緩衝地から兵を出せと命じてきた。調練のための列ではなく、国境へ送る列を。
実戦の名簿である。
クレフは、その言葉を声にしなかった。ただ、列を見ていた。
立てる頭数のうち、誰を出すか。何人ではなく、誰を。それを、台帳の上の抽象から、名の一つずつへ降ろさねばならなかった。
「ヤルト」と彼は言った。「基準から確かめる。書き取れ」
「はい」
「出すのは、替えのきく頭数からだ」クレフの声は平らであった。「家に手の残る者から拾う。一人働きの家は外す。その者が倒れれば、家ごと潰れる。年寄りの親だけを養う者も外す。家督を継いだばかりの者も、できるだけ残す。残す手の多い家から、若く、体の揃った者を出す」
ヤルトの羽根が走った。一人働きの家を出せば、その家は冬を越せぬ。越せぬ家が増えれば、来季の畑が減る。畑が減れば領が痩せ、痩せた領は次の徴発に耐えられぬ。ゆえに替えのきく頭数から拾う。冷たく、筋は通っていた。
クレフは指で列をなぞりはじめた。
「東の谷、桶屋のテム家。働き手四。うち二人は若い。一人は家督。残る一人――これを出す。家に手は三残る」
ヤルトが書き取る。
「同じ谷、鍛冶のオド家。働き手三。一人は親の世話。一人は片腕が利かぬ。残る一人を出せば、家が立たなくなる。外す」
指が、列を滑っていく。出す家、外す家。クレフはひとつずつ、名の上で立ち止まり、基準に当て、拾うか残すかを決めていった。声に情は乗せなかった。テムの三男。北の谷の漁師の弟。粉挽きの婿。盤面の数ではなかった。指の下に、一人ずつ、顔があった。
病人を診ていたころ、彼の手は救う手であった。南の水を飲ませ、水を煮立てさせ、倒れた者を隔て、塩と甘い湯を口へ運んだ。倒れる者から死を引き剥がす、盾であった。
いま、同じ手が、生き残った者の中から死地へ送る者を拾っている。盾を構える手つきではなかった。武器を握り、それを誰へ向けるかを定める手つきであった。
クレフの指が、ある名の上で止まった。
ヨナ家。リン。十六。
いつか、マレナがこの名の上に指を押しつけた。誰の腹から出た子か、忘れないでほしい——そう頼まれた名であった。
クレフは基準を、その名に当てた。ヨナ家は働き手二。リンと、母のヨナ。父と弟は三年前の疫病で逝き、母子で生き延びた家だ。リンを出せば耕す手は一になるが、母はまだ動ける。寝たきりの老母を残すのとは違う。年寄りの親だけを養う者でもない。リンを出しても、母が残れば、家はかろうじて立つ。年は十六、体は揃っている。リンは、替えのきく頭数の、ぎりぎりの縁にいた。基準に従えば、出す側であった。
声には出さなかった。表情も変えなかった。ただ、指がリンの名の上で止まったまま、しばらく動かなかった。基準は冷たく整合していた。整合していながら、その先に、背を叩かれて泣いた赤子の顔があった。
「ヤルト」と彼は、やや間を置いて言った。「ヨナ家。リン。十六。――出す」
ヤルトの羽根が、その名を、実戦の列へ書き写した。
クレフは指を、ようやくその名から離した。
*
同じ日の、夕方であった。
マレナは、ヨナ家の戸を押した。低い軒の、煤けた小さな家だ。土間に夕餉の支度の匂いが立ち、奥でリンの母が繕い物をしていた。膝に古い上着を広げ、節の浮いた指で襟の綻びを縫っている。
「マレナさん」と母が顔を上げた。
「通りがかりだよ」とマレナは言った。嘘であった。徴兵の名簿に名があると聞いてから、ずっと胸の底が落ち着かなかった。だが、あたしの取り上げた子はこの村に何十人もいる。名簿に拾われた子も、リンだけではない。だから、ただ顔を見に来た。それだけのつもりだった。
リンは、井戸端から戻ったところであった。水桶を提げて土間に入ってきた。背の伸びかけた、まだ線の細い少年だ。マレナを見て、人懐こく笑った。
「マレナさん」
「大きくなったねえ」とマレナは言った。「あんた、あたしが取り上げたとき、こんなだったんだよ」両手で、握れるほどの大きさを作ってみせる。「息してなくてね。背中をぴしゃりとやって、やっと泣いた」
「母さんから、何べんも聞いた」リンは笑った。それから、少し胸を張るようにして言った。「おれ、領のために立てる頭数に入ったんだ」
マレナの手が、止まった。
「立てる、頭数」
「うん」リンは怖がってはいなかった。むしろ、選ばれたことを名誉のように口にした。「替えのきく頭数から拾うって、お代官さまの決まりがあるんだって。うちは母さんが残れるから、おれが行ける」
それはクレフの言葉であった。台帳の上で、あの少年が組み立てた言葉であった。それがいま、十六の童の口から、誇らしげに出てくる。リンはそれを、自分が選ばれた理由として、ちゃんと呑み込んでいた。替えのきく頭数――そう自分を呼んで、胸を張る言葉に。
「リン」とマレナは言った。声がうまく出なかった。「あんた、それが、どこへ行く話か、分かってるのかい」
「国境だろ」リンはあっさり言った。「調練して、剣を持って」
マレナは、そこで初めて気づいた。
あたしは、調練の話だと思っていた。村のはずれで列を組む、せいぜいそんなものだと。だが供出の命が来ていた。これは調練ではない。国境へ行って、戦う話であった。あの線の細い童が、本当に送られる。
奥で、母の繕いの手が止まった。針を布に刺したまま、うつむいて、動かなかった。母は知っていた。マレナだけが、いま、知った。
マレナの手のひらに、ふいに重みがよみがえった。十六年前、腹から出てきた、息をしていない赤子。逆さに振って、ようやく泣かせた、その小さな体の重み。
「マレナさん?」とリンが覗き込む。「どうかした?」
「いや」とマレナは言った。「なんでもないよ」
彼女は土間を出た。夕暮れの道を、いつのまにか領館のほうへ歩いていた。止めるためか。だが、何を止めるのか。供出の命は、もう降りている。リンの名は、もう名簿にある。止められるものなど、どこにもない。それでも足は、領館へ向かっていた。
*
領館の一室に、夜の灯が点っていた。
マレナは戸を押した。卓の上に、台帳が広げられていた。実戦の名簿へ書き換わった、あの列だ。クレフが一人で座していた。書記はもう退いていた。少年は顔を上げ、マレナを見たが、驚かなかった。彼女が来ることを、どこかで分かっていたような顔であった。
マレナは卓に歩み寄り、台帳を見下ろした。指で列をたどり、ひとつの名の上で止めた。
リン。十六。ヨナ家。
彼女はその名を、指で押した。爪が羊皮を鈍く凹ませる。あのときと、同じ仕草であった。
あのとき、彼女はこう頼んだ。それが誰の腹から出た童か、忘れないでほしい、と。顔を見て書け、と。あれは頼みであった。歯止めであった。
今夜、マレナは頼まなかった。
「これは」と彼女は言った。声は低く、だが揺れなかった。「あんたが生かした子だ」
クレフは黙していた。
「南の水を飲ませて、煮立てさせて、井戸を封じてまで、あんたが生かした子だ。あたしが背中を叩いて泣かせて、あんたが死なせなかった子だ」マレナは名の上の指に力を込めた。「その、顔のある一人を、あんたが並べた」
それは問いではなかった。あのとき、彼女は問うた。生かした童を死ぬ場所へ並べるのか、と。今夜のこれは、並べた、という、済んだことの言い切りであった。一段、重かった。
クレフは、口を開きかけた。
「忘れない」――その言葉が、喉まで来ていた。あのとき、彼はそう答えた。だが、言わなかった。途中で、やめた。




