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私が並べた、とだけ

 忘れない、という言葉が、ふいに、ひどく軽く感じられた。背負う構えは、まだどこか、己を外に置いている。忘れないと言う者は、忘れぬことで、己を許そうとしている。リンを死地へ並べたのは、忘れる者でも忘れぬ者でもない。並べた者だ。


「忘れる、忘れないの話ではない」とクレフは言った。声は静かであった。「私が並べた」


 マレナの指が、名の上で止まった。


「リンを死地に並べたのは、私だ」クレフは続けた。逃げのない声であった。「替えのきく頭数から拾うと決めたのも、リンをそのほうへ入れたのも、名簿に書けと言ったのも、私だ。忘れる忘れぬは、私の都合の話だ。リンには関わりがない。並べたという事実だけが、リンに関わる。だから――私が並べた、とだけ言う」


 それは、約束ではなかった。彼は背負うとも言わなかった。ただ、行為の主語を、己の名で引き受けた。前世のことも、一人も救えなかった男の贖罪も、口にしなかった。並べたのは、椎名玲ではない。この夜、この手でリンの名を実戦の列へ書き写させた、クレフであった。


 マレナは、反論の言葉を探した。


 あのときなら、言えた。忘れるな、と。顔を見ろ、と。だが、クレフは忘れてはいなかった。顔を見ていた。そして並べた、と自ら言った。その引き受けの前で、マレナの言葉は、行き場を失った。


 彼女は口を開いた。だが、言葉が、出てこなかった。


 *


 マレナは、卓の前に立ち尽くしていた。


 止めに来た。そのはずであった。リンの家から領館まで、夕暮れの道を歩く間、ずっと止める言葉を探していた。それが誰の腹から出た童か。あんたが生かした子だ。言葉を、いくつも胸の中で並べて、ここまで来た。


 だがいま、クレフが「私が並べた」と言い切ったとき、マレナの中で、何かが裏返った。


 あたしは、止める言葉を探していた。だが――本当に、止める気が、あったのか。


 その言葉のどれも、領を潰す覚悟を含んではいなかった。リンを出すなと言うことは、別の誰かを出せと言うことであった。あるいは、誰も出すなと。だが誰も出さねば、供出の命に背けば、領は踏み潰される。踏み潰されれば、リンも、母も、村の童らも、ことごとく、また同じ井戸の水を飲んで果てるか、アウロラの兵に踏まれるか、いずれかだ。


 その算盤を、あたしも、もう呑み込んでいる。


 クレフがいつか盤面の上で立てた算盤を、止めに来たはずの己が、いつのまにか己の腹に入れていた。領が潰れれば、もっと多く死ぬ。だから、誰かを出すしかない。その理屈に、あたしは反論できぬ。反論できぬということは、呑み込んだということであった。


 クレフは、「私が並べた」と、一人で主語を引き受けた。だから、マレナは、問い返せなかった。


 じゃあ、あたしは――その先が、続かなかった。並べたのはクレフだ。それは確かだ。だが、止めなかったのは、あたしだ。止める言葉を探しながら、本当は止める気のなかったあたしだ。クレフが主語を引き受けたとき、その隣に、もう一つの主語が立ち上がった。


 その重さが、マレナの良心の目盛りを、初めて揺らした。


 三十年、生まれるのも死ぬのも見てきた。あたしの秤は、いつもはっきりしていた。生かす側か、死なせる側か。だが今夜、その秤が、揺れた。あたしは、リンを死地へ並べる側にはいない。だが、止めぬ側にはいる。止めぬ側にいることは、並べる側にいないこと、ではなかった。


 マレナの手は、台帳の上にあった。リンの名の上に。


 破れば、よかった。羊皮を裂いて、名を消してしまえば。あのときの彼女なら、そうしたかもしれぬ。だがいま、彼女の手は、台帳を破らなかった。破ったところで、命は撤回できぬ。供出の数は減らぬ。リンを消せば、別の童が、その分、拾われる。テムの三男か、漁師の弟か、粉挽きの婿か。誰かの腹から出た、別の顔のある一人が。


 マレナは、名簿を破らなかった。


 その沈黙が、最初の一針であった。


 彼女は、ながいこと、何も言わなかった。やがて、しゃがれた声で、ぼそりと言った。


「……あんたが並べたんなら」マレナは台帳から手を離した。「あたしは、止めなかった。それだけは、覚えとくよ」


 クレフは、彼女を見た。


「数には顔がある、っていつも言ってきた」マレナは続けた。「あたしは、ずっと、あんたの数に顔を貼ってきた。それが、あたしの役だと思ってた。だけど――顔があると分かってて、止めなかったんなら、あたしも、もう」


 その先を、彼女は言わなかった。


 クレフも、何も言わなかった。


 灯が、卓の上の台帳を、低く照らしていた。リンの名が、列の中に、静かに並んでいた。


 *


 出立の朝は、晴れていた。


 村はずれの、領境へ続く道に、供出兵が列をなしていた。簡素に編まれた、まだ兵とも呼べぬ兵だ。剣の揃わぬ者は、槍の柄だけを担いでいた。年若い者ばかりであった。クレフが台帳の列から、一つずつ指でなぞって拾った者たち。


 リンが、列の中にいた。


 母が、道の端で見送っていた。節の浮いた両手を胸の前で握りしめ、何も言わず、ただ立っていた。マレナも、その隣にいた。


 クレフは、道の端には立たなかった。領館の側、少し離れた高みに立って、列を見ていた。見送るのではない。別れを惜しむ場所に、彼はいなかった。並べた者として、列が領を発つのを、見届けていた。


 列が、動き出した。


 リンが、振り返った。母を見つけて、手を振った。それから、マレナを見つけて、もう一度、手を振った。誇らしげな、まだ幼さの残る顔であった。


 マレナは、手を振り返さなかった。


 手を上げかけて、止めた。その手を、彼女は目の前まで持ってきて、見下ろした。節くれだった、三十年、童を取り上げてきた手だ。リンの背を叩いて、逆さに振って、泣かせた手だ。その同じ手がいま、リンが国境へ消えていくのを、止めなかった。


 いつか、卓の上に「忘れない」という言葉があった。重さを背負う約束として。だがいま、それはどこにもない。代わりにあるのは、「私が並べた」という、乾いた引き受けだけであった。


 列は、領境のほうへ、ゆっくりと遠ざかっていった。


 母が、声を上げずに泣いていた。マレナは、その肩に手を置こうとして、置けなかった。あたしは、止めなかった側だ。慰める側ではない。


 列が、領境の陰に近づいていく。槍の柄が、朝の光に細く光った。リンの背が、他の頭数に紛れて、もう見分けがつかなくなっていた。誰の腹から出たかも、もう見えぬ、ただの列。


 そして、列は、領境の陰に消えた。


 マレナは、その場に立っていた。胸の中で、一つの問いが、ゆっくりと芽を出していた。


 あたしは、いつから、見送る側になったんだろう。


 歯止めのつもりであった。クレフの数に顔を貼り続ける役だと思っていた。彼の冷たさに、ぎりぎりで歯止めをかける、それがあたしの役だと。だがいま、あたしは道の端で、童が国境へ消えていくのを、ただ見送っていた。止めもせず、破りもせず。


 その問いに、答えはなかった。ただ、静かに芽を出していた。


 高みのほうで、クレフが、まだ列の消えた方角を見ていた。彼の顔には、何の表情もなかった。だが、マレナには分かった。あの少年もまた、見届けていた。己の手で死地へ並べた頭数が、領境の陰に消えるのを。


 風が、村はずれの道の土埃を、薄く巻き上げた。


 母の泣く声が、低く、続いていた。


 マレナは、ようやく、母の肩に手を置いた。資格があるかどうかは、もう、考えぬことにした。考えれば、置けなくなる。彼女は、ただ、その肩に手を載せて、二人で、列の消えた領境を見ていた。


 クレフは、高みを降りた。領館へ戻る道を、一人で歩いた。卓の上には、まだ、あの台帳がある。これから、出立した者の名の横に、彼は印を書き込むだろう。出立。そして、いつか――還らなかった者の名には、別の印を。


 死者の石板に刻んだように。生者の台帳に書き写したように。今度は、己が並べて、死地へ送った者を、また、数えることになる。


 クレフは、それを知っていた。


 否定せぬまま、顔のある者を、己の指で並べた。並べた、とだけ言って、引き受けた。忘れぬとは、もう言わなかった。


 領館の戸を、彼は静かに押した。

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