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敵の帳面に刻む名

 払暁の霧は、退く軍にも、なお纏わりついていた。ノルデンの領館へ供出の書状が届くより、数日をさかのぼる、撤退の払暁である。


 グレゴール・ファルケンは、畳まれてゆく天幕の中に立ち、卓上の一枚の紙を見下ろしていた。本国へ送る、撤退の報せである。まだ何も記されぬ、白いままの紙であった。


 外では、軍が骨を抜かれるように畳まれてゆく。馬具を締める革の軋み。死者を運ぶ荷車が、泥にめり込む音。倒れてゆく幕が、湿った帆布の重い音を立てて地に落ちる。来た道を、逆にたどる支度であった。剣を一度も抜かぬまま、退く軍の。


 書くべきことは、決まっている。撤退。それだけだ。だが、その二文字をいかに書くかに、彼の四十年が掛かっていた。本国の都には、戦を絵図でしか見たことのない者たちが座している。彼らは報せを読み、行間を読むであろう。剣に敗けたのか。策に敗けたのか。数に敗けたのか。——あるいは、ただ怖じ気づいて逃げたのか。


 病に削られた、とだけ書けば、臆病と読まれる。将軍は、谷の毒風に怯えて五千を退かせた。そう記され、卓上で笑われる。剣を交えてもおらぬ、と。彼の知る、最も嫌な種類の敗北であった。顔のないものに退かされ、退いた事実だけが、顔のある者たちの嘲りに晒される。


 本国は「毒」を解さない。彼らが解するのは、戦力の言葉ばかりだ。何個中隊が失われ、補給線が幾日断たれ、進めば何が損なわれるか——算盤で弾ける言葉ばかりだ。


 ならば、訳さねばならぬ。あの谷で起きたことを、戦力の言葉へ。恐怖を、損耗の数へ。得体の知れぬ何かを、敵の輪郭へ。報せに要るのは、彼が背に感じたあの冷たさではない。要るのは、敵が誰であるかだ。剣で測れぬ敵の、その輪郭だけだ。


 天幕の入口の帆布が、外の冷えた空気とともに払われた。


「将軍」


 レントであった。外套は泥にまみれ、夜どおし谷を這い回ってきた疲れが、若い頬に深く刻まれている。彼は片膝をつき、撤退路を低い声で告げた。北の渡しの水嵩。来た道の泥濘の深さ。後尾を守る斥候の配置。過不足のない、事務的な報せであった。


 グレゴールは頷き、それから白い紙へ目を戻した。


「レント。そなたが捕らえた者たちは、まだ陣にいるか」


「行商が一人と、ノルデンから流れてきた弱った兵が、二人。荷も、押収したまま手元に」


「尋問しろ」と、グレゴールは言った。「だが、聞くべきは恐怖ではない。あの掟がどれほど恐ろしいかは、もう聞いた。今いるのは——あの領を動かしている者が、誰かだ」


 レントの目が、わずかに熱を帯びた。


「名でも、年でも、どこの誰かでも。顔があるなら、顔を。我らが本国へ送るのは、毒の話ではない。敵の話だ」グレゴールは紙の縁を指で押さえた。「都は毒を解さぬ。だが、敵なら解する。それが、この撤退を臆病でなくする、ただ一つの道だ」


 レントは頭を下げ、天幕を出ていった。


 グレゴールは、白い紙の前に、しばらく一人で座していた。火皿の油が、小さく爆ぜた。


 捕虜を繋いだ天幕は、陣の端にあった。


 レントは、莚の上に座らされた三人を、順に見た。行商は、まだ怯えていた。ノルデンから流れてきた兵は二人とも痩せ、頬がこけ、目ばかりが落ち着かなく動いている。脱走したか、置き去りにされたか——いずれにせよ、領を出た者たちであった。


 脅す要は、なかった。彼らは、聞かれる前から喋りたがっていた。あの領で見たことを、誰かに吐き出したがる目をしていた。


「井戸を、封じたのだろう」レントは静かに切り出した。「どの井戸だ」


「北の、いちばん古い井戸でさ」と、痩せた兵の一人が言った。「三年前の疫病で、いちばん多く人が死んだあたりの。あれを板で塞いで、近づく者は罰するって触れが回って」


「水は、どこから飲む」


「南の井戸で。けど、汲んだまま飲んじゃならねえ。一度火にかけて、煮立ててから冷ますんだ。生水を飲んだ家は、咎められる」


 もう一人の兵が、口を挟んだ。


「倒れた者には、塩を溶いた水を飲ませる。匙で、夜どおし。あれが、おっかねえ。普通なら、腹を下した者に水なんざ飲ませねえ。出るものが増えるだけだ、と。だが、あの領じゃ逆なんだ。出した分だけ、塩水を飲ませる。それで、死ぬはずの者が、起き上がる」


 行商が、震える声で継いだ。


「汚した物は、けっして水場のそばに捨てさせねえ。病人の出したものは、村のはずれに穴を掘って、深く埋める。井戸からも、川からも、遠く離して。そういう掟が、領じゅうに行き渡っていて——」


 レントは、聞きながら、帳面に書き取った。


 ばらばらの証言であった。掟の全体を語れる者は、一人もいない。一人は井戸を、一人は塩水を、一人は汚物を語る。だが、書き取って並べてみると、それは奇妙なほど筋の通った一つの体系をなしていた。水を分け、水を封じ、汚れを水から遠ざける。見えぬ何かが水を伝って人を殺すと、はじめから知っていた者の掟であった。


 押収した荷を、レントは検めた。


 行商の荷の底に、炭で何かを走り書きした薄い板が混じっていた。指の長さほどの、割れた木片だ。表に、見たこともない書き方で、短い印と数が並んでいる。生者の数か。村の名か。死んだ者の数か。レントには読めなかった。誰に見せても、読める者はいなかった。だが、捨てられずに荷の底に残っていたということは、誰かにとって、捨てられぬものであったのだ。


「これは、何だ」レントは、木片を行商に見せた。


「知りませんや。ただ、あの領じゃ、そういう走り書きが、あちこちにあって。役人が、家の数や、人の数を、しょっちゅう数えて、板や紙に刻んでるんで」行商は、唾を飲んだ。「数えろと、命じられてるんでさ。あの方に」


「あの方」


「領を、動かしてる方で」


 レントは、帳面から目を上げた。


 ここまで、三人とも、その者を「あの方」「その者」としか呼ばなかった。掟を敷いた者。塩水を命じた者。井戸を封じた者。倒れた者を起き上がらせる者。ことごとく、顔のない代名詞であった。だが、聞き取りを重ねるうち、レントは気づきはじめていた。


 三人の口から、ときおり、同じ音がこぼれるのだ。


 最初は痩せた兵が、塩水の話のついでに、ふと漏らした。それから行商が、走り書きの話の末に、もう一度。別々の口から、別々の話の隙間から、同じ呼び名が落ちる。怯えと、それから——奇妙なことに、敬いに似たものを、わずかに滲ませて。


「もう一度、言ってみろ」レントは、声を低くした。「その、領を動かしている者の名を」


 行商は、しばらく口をつぐんだ。それを口にすること自体が、何か禁忌に触れるかのように。


「……クレフ、と」と、行商は、ようやく言った。「痩せた、若いお方で。辺境伯家の、末のお子だとか。三年前の疫病で一族がみな死んで、たった一人、生き残った。その方が、いまは領のすべてを、数と掟で動かしてる」


「クレフ」レントは、繰り返した。


「へえ。クレフさま、と」


 レントは、帳面に目を落とした。


 そしてはじめて、その名を文字にした。慣れぬ綴りを、炭で、一画ずつ。クレフ。痩せた若い男の名が、敵の帳面に刻まれた。谷の向こうの領館にいるその男は、自分の名がいま国境の天幕で文字となったことを、知らない。

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