原因を問う、二人
レントは、帳面を閉じ、立ち上がった。
グレゴールの天幕に戻ったとき、報せはまだ白いままであった。
レントは片膝をつき、名を告げた。
「クレフ、と申すそうにございます。辺境伯家の末子。三年前の疫病で、ただ一人生き残った。痩せた、若い男。掟の全容も、聞き取れるだけ聞いてまいりました」
彼は、井戸の封鎖を、塩水を、汚物の処理を、一つひとつ将軍に告げた。ばらばらの証言から組み上げた、一つの体系として。グレゴールは、地図へ目を落としたまま、それを聞いた。
「クレフ」と、将軍は、一度だけ、その名を口に転がした。
地図のうえで、ノルデンは、ほとんど色のない空白であった。いま、その空白の一点に、はじめて名のある輪郭が入った。「痩せた若い男」としか書けなかった一点に、彼は名を当てることができた。
グレゴールは、冷たく算盤を弾いた。
倒れた者を、起こす者がいる。それは、兵を減らさぬ者だ。病で死なぬ領は人が増え、人が増えれば田が起き、田が起きれば賦が立ち、賦が立てば兵が立つ。倒れた者を起こす一本の匙が、十年の後には、一個師団に化ける。医は施しではない。それは、戦力の源である。——彼は、それを将の言葉で言い切ることができた。
彼は、白い紙に、ようやく筆を下ろした。
撤退の理由を、戦力の言葉で書いた。失った中隊。断たれた水。進めば損なわれるもの。ことごとくを、都が解する算盤の数へ訳した。そして最後に、ただ一行を加えた。
——谷の向こうに、見えぬ毒を飼い慣らす者あり。名はクレフ。剣でなく、これを敵とせよ。
書き終えて、グレゴールは筆を置いた。
「所在は」と、彼はレントに問うた。
「領館にあるとは聞きましたが、確かな場所も、顔も、握れてはおりませぬ」
グレゴールは、頷いた。名は得た。だが、顔も所在も握れぬ以上、この退き際にその男を追うのは、愚だ。削られた軍で谷へ引き返せば、二度目はもっと多くを失う。彼は敗けを知らぬ男ではない。だが、勝てぬ戦と、いま戦うべきでない戦の見分けは、つく。
追うのは、今ではない。
「報せを、都へ走らせろ」と、グレゴールは言った。「早馬で。撤退の次第と、この一行を、皇帝の卓まで」
彼は、報せを巻き、封をした。クレフという名を、一片の紙に閉じ込めて。
その男の顔を、グレゴール・ファルケンは、まだ見ていなかった。会う日が来るとも、まだ思っていなかった。
同じ毒風が、谷を下り、川を伝い、街道を抜けて——帝都アウロラの、皇宮の最も奥深い部屋まで届いていたことを、グレゴールはまだ知らなかった。
皇女シグリッドは、熱に灼かれていた。
天蓋の垂れ布の向こうで、祈祷の煙が立ち昇っている。医師団が、彼女の床を取り囲んでいた。白髭の侍医が瀉血の小刀を布で拭い、もう一人が香を焚き、女神への祈りを低く唱える。その声が、熱の中で、遠く近く揺れた。
「女神の摂理にございます」と、侍医の一人が言った。「高貴な御身にかような熱が及ぶは、いずれ晴れる試練。祈りを篤くなさいませ」
「罰、とは申しませぬが」と、もう一人が声を落とした。「お血筋に、何か、女神のお気に障ることが——」
シグリッドは、熱の底から、その言葉を聞いていた。
そして、退けた。
摂理。試練。罰。——意味のない言葉だ、と思った。灼かれた頭の隅で、なお冷たく働く一隅が、それらを一つずつ撥ねつける。原因のない病など、あるものか。女神が気まぐれに鞭を振るうのなら、なぜ、わたくしのこの熱は、上がる頃合いが定まっているのか。なぜ、ある日を境にはじまったのか。摂理に、刻限はない。罰は、幾日も身を潜めてから、定まった刻に牙を剥きはしない。これは、何かだ。原因の、あるものだ。
彼女は、祈祷の煙の向こうで、自分自身を観察しはじめた。
いつ、熱が上がるか。朝か、夜か。何を口にしたのちに、悪くなるか。水を飲んだのちか。それとも、別の何かか。彼女は、数えようとした。自分の体を、まるで他人の体のように。誰かが、これを記さねば。いつ、何が、どう動いたかを。
だが、誰も、その問いには答えられなかった。
医師に「いつから熱が上がるか、書き留めているか」と問えば、彼らは怪訝な顔をした。書き留める。熱を。なぜ、さようなことを。御身の熱は女神の御手の内にあり、人が数えるべきものではございませぬ——彼らは、原因という概念を、持たなかった。数えるという発想を、不敬とすら思っていた。
シグリッドは、天蓋の闇を見上げた。
この帝国の最も奥深い部屋で、最も篤い医師団に囲まれて、わたくしは、自分の病の原因を問う、ただ一人の人間だ。
夜になって、熱はさらに上がった。
祈祷師たちは下がり、侍女が交代で、彼女の額の布を替えている。シグリッドは朦朧の中で、なお自分を数えていた。水を口にしたのは、いつか。最後に悪くなったのは、その、どれほど後か。
そのとき、侍女のひそやかな囁きが、熱の膜を透かして、耳に届いた。
辺境からの報せの写しが、宮廷に回っているのだという。北の国境で、軍が因のわからぬ病に倒れ、退いた。だが——谷の向こうの、ある弱小辺境では、倒れた者が、死なずに起き上がるのだという。
シグリッドは、熱の底で、その一言に掴まれた。
倒れた者を、起こす者。
痩せた若い男が、敵地のはずの辺境にいて、見えぬ毒を掌の上で飼い慣らしている、と。井戸を封じ、塩水を飲ませ、死ぬはずの者を起き上がらせている、と。彼女の医師団が女神の摂理としか言えぬその同じ病を、その男は、原因のあるものとして扱っている。封じ、分け、遠ざけている。それが、どこから来るかを知っているかのように。
治す力が、と彼女は、灼かれた頭で思った。よりによって、敵の側にある。
帝国のどこにも、わたくしを治せる者はいない。医師も、祈祷師も、原因という概念を持たぬ。なのに、敵地の辺境に、その概念を持つらしい男が、一人いる。
それは、屈辱であってよかった。帝国の心臓が、敵地の痩せた男に救いを乞う構図だ。だが、シグリッドはそれを屈辱とは感じなかった。彼女はそれを、解くべき問いとして抱えた。倒れた者を起こす者が、敵の側にいる。ならば、その力は何でできているのか。いかにすれば、この帝国の側へ引き寄せられるのか。彼女の知は、熱の底でなお、帝国を秤にかけ、自分を守る算段を、止めなかった。
宮廷の影では、すでに誰かが囁きはじめていた。あの掟を、あの男を、どうにかして手に入れられぬものか、と。
だが、シグリッド自身は、まだ動けなかった。熱が、彼女を床に縛りつけていた。名も、顔も知らぬ、谷の向こうの痩せた若い男。彼女はその者がどこの誰かを知らず、その者は、皇女という女がこの世にいることすら、知らない。
ただ、一本の線だけが、敵と味方を跨いで、闇の中に張られた。
原因を問う、二人のあいだに。
熱が、また一段、上がった。シグリッドは目を閉じ、その線の張りを、熱の向こうに、たしかに感じていた。




